五分咲き桜と文学賞に落ちた話
伝通院の桜がかなり咲いています。五分咲きぐらいかな。今週末には満開になりそうですね(カバー写真が今日の様子。古木&日当たり良いので、周辺の桜よりやや早いです)。
さて、太宰治賞の二次選考に落ちました。
予想はしていたことですが、ちょっとがっかり。「一ヶ月前に急に書き始めた二十年ぶりの完成作が一次通過したんだから、次は…」とは思えない。今回の小説は、とにかく完成させることが目標でしたし、「自分の小説批評眼がどの程度なのか知りたい」という、正直、創作にはあんまり関係ない気持ちで書き始めたので、無心に書くことができました。それが一次通過という(私にとっては望外の)結果になったと思うんですね。
今後は二度とこんな無心な気持ちでは書けないと思うので、そうなると結果がついてこないだろう、というのは年の功で何となくわかります。
一次選考を通過した後で太宰治賞の名前を出していいのか調べていた時、応募の心得のような文章をいくつか読んだのですが、「まわりの人に読んでもらって、ダメ出ししてもらおう」と書いてありました。読んでもらうって…小説書くのが趣味なんて、誰にも話していないんだけど?(noteで書いていることも話していません)。夫には読んでもらってもいいのですが(上から目線ですね)、歴史&時代小説しか読まない夫が文学系の小説にダメ出しできるとも思えない(マクロ経済の論文なら、張り切ってダメ出ししてくれると思うけど)。
また、ある方は完成作を十数回書き直した、と普通のことのように書いていらしたのですが、今回はそもそも書き直す時間なんてなかったし、そうでなくても、十数回も書き直したら、自分の小説の悪いところばかり見えてしまうような…。
本気で取り組み始めたら、小説を書くってハードなことなんだなとよくわかりました。
今までのように、ストレス解消も兼ねて楽しく書きたいなら、文学賞の応募にはこだわらない方がいいのかなと考え始めています(とはいえ、締切があったから、完成させることができたのだしなぁ)。
noteを始めたことで、「他人に読んでもらう」という視点が生まれたのですが、それはそれとして、自分の楽しみのためだけに書く方がいいのか…。
そういえば、前の記事にスキを下さった方が、創作の講座に通っていると書かれていました。私は創作を習うということに興味がなく、大学でも文芸コースには進まなかったのですが、今はそれもありかなと感じています。創作について、基本的なこともわかっていないと実感したので。
応募後に自分の作品を読み直し、とんでもない欠点をみつけたんですね。主人公はAという出来事を不審に思って調べ始めるのですが、途中でBという出来事を知ったことでAという出来事への興味が失せてしまう。例えば、同僚が怪しげなので、経費の使い込みを疑って調査してみると、実は同僚は連続殺人犯だった、みたいなことです。実世界では連続殺人犯のインパクトが強すぎて、経費の使い込みなんてどうでもよくなってしまうでしょう。同僚は経費を使い込んでいる連続殺人犯なのかもしれないのですが。でも、小説の中で、途中まで引っ張ってきた話をフェイドアウトさせるのはどうなのか。途中でフェイドアウトするような話を書かない方がいいのかもしれないし、または、エンタメ小説ではないので、それほど気にしなくていいのかもしれない(実際に、とんでもない欠点だと思ったわりに一次選考は通過したので)。創作講座に通えば、そうした基本的なことは教えてもらえそうですよね。
あとは、二次選考に落ちたら、小説をnoteで公開しようと考えていたのですが、noteでは有名な文学賞の途中まで進んだ作品があまり反応をもらえていない(=スキやコメントが極めて少ない)ことに気付きました。そんなニーズがないのか…。多分、noteで読んでもらえるのは、書き手の生活とリンクし(エッセイ的だけど、ある程度はフィクション)、読んで下さる方々の反応も取り込めるようなメタな作品なのかな。メタフィクションは大好きなので書いてみたいけど、今の私の手には余るなあ。
ちなみに、私の作品はアラサー崖っぷち青年の一人称小説です。私小説系。私自身はもっと年上のおばさんなので、完全に創作です。こう書いてみて、誰も読みたがらんやろと思えてきました。公開するとしても、フォローして下さっている皆さんをわずらわせないように、別アカを作って公開した方がいいかな。
書きたいことを書いて、スッキリしました。noteをやっていてよかったです。読んで下さってありがとうございました。