お姫様になれないことくらい、わかっていたよ
サンタさんは存在するから、今年もプレゼントが欲しいな。
今年で26歳になるわけだけど、大人気ないと笑われてもいいから、夢を持って生きていたいものだと思う。そうでもしないと、きっと脆く崩れてしまうから。
あんかけそばの下にある硬い麺くらい強ければ、握ったところで握った側は痛くて諦めるだろうけど、大抵は綿菓子のように、あのくらい柔らかくて繊細なはず。
だったら夢の一つや二つ、そこまで大きなものが持てないというなら目標の一つや二つ、誰に何を言われてもわたしはこれを貫くぞってものがあれば、人は少し強くなれるし、明日も生きたいって思えるはずだ。
小学生の頃のわたしは、休み時間になるとすぐに図書室に行くような子どもだった。クラスメイトと一緒に校庭で遊ぶことも、流行りのものを話題に出しておしゃべりすることもあったけど、何が一番楽しかったかと聞かれれば、図書室での読書を挙げる。
数えきれないほどの本を読んできたけど、とくに好んで読んだいたのは「エルマーの冒険」。次にどんな展開が待ち受けているのかを暗記できるくらいに没入していた。本の中に広がる壮大な空間に引き込まれて、一緒に旅をしている感覚が本当に好きだった。作品の世界に入っている時、わたしは何者にもなれるし、わたしを何者も邪魔してこない。現実を忘れてわたしだけの夢が見れる。だからわたしは本を読むのが好きなのだ。
けれどもこの頃のわたしは、現実と空想の狭間でよく迷っては、頭を抱えるようになった。
熱中して読書をしていても、ふと本から顔を上げるとそこに広がっているのは広大な大地でも、豊かな森林でもなく、猫と会話することもなければ、珍しい木の実も落ちていない、殺風景な教室。辺りをぼーっと眺めていると、頭の中の深い部分に聞き飽きたつまらないチャイムが響く。わたしは重い腰を上げて本を棚へと戻し、何かを言いたげにわたしを眺める図書室の先生を尻目にとぼとぼと教室へと帰っていく。
そんな日々を繰り返しながら、わたしは改めて、当たり前すぎるがゆえに自分が信じようとしてこなかった現実と、絶対に叶うはずなどない夢を、はっきりと区別するようになっていった。
小学6年生の冬の日。窓の外では雪が降りしきる中、校庭でたくさんの児童たちが雪と戯れて遊んでいた。
Mちゃんもと誘われたが、わたしは返却する本があったため後で行くと言い残して図書室へと向かった。
図書係の担当の子に本を返却し、見慣れた図書室内をぐるっと見回す。
わたしが卒業してからも、ここだけはいつまで経っても変わらないままでいてほしい、そんなことを考えながら、久しぶりにエルマーの冒険を読もうとすると、そのすぐ隣に「シンデレラ」の絵本が置かれていた。
誰かが適当に置いていったものだろうと思いながらも、わたしはシンデレラの絵本を手に床に座って読み始めた。
「誰もがシンデレラになれる瞬間が、きっとあるのかもしれない」
知っている話のはずなのに、なぜだかこの時は全く新しい話に感じられた。そして、読み終わったときに残ったのはたった一つ、希望だった。
小学校を卒業することがその頃のわたしの最大の苦痛だった。友達に会えなくなることも、大好きな図書室で本が読めなくなることも、全部全部、嫌だった。おかげで体重はみるみるうちに減っていったし、給食も家のご飯もなんにもおいしいと感じなかった。
まるでこうなることを分かっていたかのように、だからこそと言いたくなるくらいに、わたしは本の世界に入り込んでは、現実から逃げていたのかもしれない。でもこれは逃げなんかじゃなくて、肯定だったのかもしれないと、大人になった今ならわかる。
誰もが一度は思い描く夢がある。マーベル作品を見てスーパーヒーローを目指すし、ディズニー作品を見てプリンセスになりたいと願う。その夢は決して叶うことはないのに。
わたしたちはいつからか、真実に気づいていた。
お姫様になれないことくらい、わかっていた。
ずっと本の中にいることだって、できないとわかっていた。
でも、わたしが夢を見れていた瞬間は確実にあって、それは逃げなんかじゃなく、明日を生きるために必要なことだった。
今を生きるのは難しくて苦しいけど、夢見る気持ちだけは忘れたくないな、そんなことをふと思い出した、大人になった夜である。
わたしたちは皆、自分の人生を生きる、主人公でなくてはいけないんだ。