輪廻の呪后:~第一幕~はじまりの幻夢 Chapter.7
エレン・アルターナが見る幻夢は、日々鮮烈になっていった。
自らが住まう宮殿は荘厳な造りに在り、それはそのまま王族威光の象徴でもある。巨大な石柱は逞しさに天を支え、重厚な石造りは〈神格〉の威風貫禄を讚美した。広大な敷地に造られしは自然の息吹も豊かな庭園──その中に据えられた人工の湖面はオアシス模倣の清涼を醸し流す。繁る緑は色とりどりに派手な花弁を主張させ、そうした幻想美は夕陽を反射するナイルの河面すらも霞と殺いだ。
これら総てが、彼女だけのものであった。
彼女だけに与えられた個人所有物であった。
贅の極みである。
王族の特権である。
然れど、それらが彼女の心を春と芽吹かせる事などありはしない。
虚無感。
セピア色の虚無感。
慢性的な虚しさ。
母はいない。
父もいない。
姉妹も……宰相も……神官も……従者すら、いない。
誰一人として駐在しない。
自分独りだけだ。
ただ悪戯に広いだけの牢獄である。
そして、それは比喩ではない。
実際に外界へは出向けない。
不可視の結界が張られていたからだ。
エジプト神総出の封印であった。
アメン神のみを崇拝対象と定めたした一神教の矜持すら折り曲げ、父王自身が敷いた強大な神力結界である。
そこまでして封じたい存在が、彼女──実の娘であった。
だから悟る──
自分は存在を喜ばれぬ者──
忌み嫌われし者──
そして、史実から封殺されし魂────。
いつしか憤りは憎炎と盛り、傷心は氷皮と心を殺した。
──憎い。
それだけが存在理由となった。
──父は……母は……この世の総ては〈敵〉だ。
それだけが生きる目的と化した。
──ならば、覆すまで……己の実力を以てして。
そして、それだけが彼女であった。
そう、この処置を強いた父王が……母が……神々が……世の総てが、彼女にとって〈敵〉なのだ。
夜風を浴びに庭へと赴く。
沸々と募る激情が鎮まる事など無いが、沈着冷静な考察力は保たねばならない。
それが〈武器〉となる。
いつか、この結界を出た暁には……。
強大無比な〈呪力〉と共に……。
それまでは研ぎ澄ませねばならない。
虎視眈々と……。
見上げれば〈月〉が見えた。
黄色い単眼を据えた異形の黒月が……。
どうやら万人には見えぬ。
自分だけだ。
だからこそ、生まれながらにして強大な〈呪力〉を授かっていた。
だからこそ、生まれながらにして声を贄と奪われた。
そして……だからこそ、此処へと封殺された。
総ての元凶にして現状の起因──なれど不思議な事に、この異形に対して憎しみという感情は起きなかった。
寧ろ〝絆〟を強く感じる。
明確に〝何か〟は分からなかったか、漠然ながらに選ばれたという因果性は感受していた。
だとすれば、自分は〈黒月の使徒〉として生まれ落ちたのかもしれぬ。
その意志の代行者として……。
いいだろう。
どのみち世に義理は無い。
思うがままに蹂躙するまで。
その為に与えたのであろう?
この禍々しくも強大な黒き力は……。
彼女が夜風に浸るのは、はたして静かなる憎悪か……孤独の哀しみか…………。
それを体感に共有するからこそ、エレン・アルターナは無自覚に涙するのである。
数年後、国王アクエンアテンは逝去した。
病死である。
それが〈呪い〉でないのならば……。
彼等の集会場は領地支配勢力〈ギリシア勇軍〉すら知らない。
いや、それどころかエジプト領民ですら知らない。
知っているはずがないのだ。
何故なら、知られないように徹底していたのだから。
邪教徒集団〈黒き栄光〉の拠点は!
では、何処か?
在るではないか!
彼等〈エジプト神〉を崇拝する者達に相応しき神聖なる場所が!
其ぞ〈ピラミッド〉也!
冥府聖地たる〈王家の谷〉の金字塔群から彼等が選んだのは〈ツタンカーメンの王墓〉──その内部に設けられた充分な広さを有する地下石室こそが、彼等〈黒き栄光〉の集会場である。
もちろん表立って見つかろうはずもない。
此処へは通常手段では立ち入れぬ。
隠し部屋というやつだ。
例えピラミッドへと潜入したところで、易々とは看破できぬ。
唯一の往来経路は延々と続く地下通路であり、それは街内からの直通となる隠し通路と造られている。そうした入口が市内の至る箇所に点在し、その存在は構成メンバーにしか知られていない。無論、発見されぬように巧妙な偽装に隠してある事も隠蔽に於いては大きい。
一堂に集会した面々は皆、正面に据えられている祭事舞台へと注目を注ぎ、組織指導者の威厳に平伏す。
仮面の男であった。
漆黒の仮面で素性を隠す男であった。
異質の獣頭である。
それは〝山犬〟と〝鰐〟の混合ようにも映り、到底、既存の動物とは合致しない。その口元からは素が露出していた。
もしも、この者を領主ペルセウスが見たら何と言うであろうか?
信じ難い現実に「生きていたのか!」と驚愕するであろうか?
それとも「何故だ! 何故、キサマが?」と狼狽の色に染まるのであろうか?
宿敵〈スメンクカーラー〉の生存を前にして……。
「聞け! 我が同朋達よ!」
羽織る黒外套を翻し、仰々しい叫びを反響させる。
「我等が追い求めし〈霊〉が見つかった! 加えて、喜ばしい事に〈霊〉は〈肉体〉への干渉を始めている! 喜ばしい! 実に喜ばしい! それは即ち『復活の意志』を顕現させんと下準備を始めたという事だ!」
オオォォォ……と波が湧く。
が、獣頭は一転した怒気に水を差した。
「しかし! その復活の障害となる者がいる! ヴァレリア・アルターナ……恥知らずの泥棒猫だ! 彼女は先頃〈王家の墓〉へと無礼にも土足で踏入り、事もあろうか〈羽根〉を盗み出した! 復活の悲願を見据えて、我々が探し求めていた〈羽根〉だ!」
「スメンクカーラー! では、ソイツは見つけたというのですか? 我々ですら長年探し当てられなかった〈羽根〉の在処を?」
「如何にも」
「ですが、ミイラ男は? アレが守人に宛がわれていたはず! こうした不審者を排斥するために!」
「左様。古代王家はエジプト神による厳重な封印を施した……あの〈忌まわしき者〉が二度と復活出来ぬように。そして、その封印が不心得者によって解かれる事を危惧して、あの呪怪を各王墓へと警護に据えたのだ」
「そうですとも! だからこそ、我々ですら、おいそれと手出しが出来なかった! いくらなんでも、たかだか〝人間〟が、あの〈呪怪〉を相手になんか出来ない!」
「そうとも! そして、アイツにしてみれば、相手が〝墓荒し〟だろうが〝エジプト神信仰者〟だろうが関係無い! 見極めすらもしない! 王墓内の封印に手を出そうとする者なら等しく排斥対象だ!」
「だから、我々ですら王墓内の探索には手を焼いたのです! 実際、幾人かは犠牲となっている! その呪怪を? たかが〝墓荒しの女〟風情が?」
「信じ難い事だが倒された……あの女は〈呪怪〉すら倒したのである! 我々ですら手を焼いた〈呪怪〉を!」
「馬鹿な!」「有り得ない!」
動揺にざわめきたつ!
その様に予想される混乱を、スメンクカーラーは威圧的な断言で封じるのであった。
「事実だ!」
唖然と鎮まる興奮。
沈静を見定めて仮面の指導者は続けた。
「特別な者ではない。ただの人間だ。〈魔術師〉でも〈怪物〉でもない。呪力も魔力も宿さぬ〝しがない墓荒し〟だ。しかし、この女は機転が利く上に実践的な経験が豊富だ。加えて、無鉄砲なまでの豪胆さも持ち合わせている。そうした卓越した素地が、あの忌まわしくも頼もしい衛兵を屠るに至らしめたのだ」
「どうするのです! スメンクカーラー! 貴方は言った──あの〈羽根〉は『復活計画』に不可欠な物だと! それを欠いては計画に狂いが生じるのでは?」
「無論、奪い返す。アレ無くして『復活計画』の完遂は有り得ぬのだからな。つい先日も、我が勅命により刺客を差し向けた……残念ながら返り討ちに遭ってしまったが」
「では、すぐに第二第三の刺客を? それを選抜するための緊急集会なのですか?」
「いいや、そうではない。斯様な追撃を行ったところで、おそらく結果は同じ。何せ三人掛かりでの返り討ちだったのだからな。そこで確実な手段へと移行する」
「移行?」
「まずは泳がせる。従って、今後は各人勝手に手出しする事を禁ずる」
「何故です? 何故、そのような処置を?」
「ローリスク&ハイリターンという事だ」
怪訝を浮かべる信者達を見遣り、獣頭は画策を含み笑んだ。
信者勢は立ち去った。
各々が帰路に着き、各々が家庭へと戻り、そして、各々が日常に溶け入る──エジプト領民という仮面を被って。
独り残ったスメンクカーラーは、そのまま石室に座して瞑想を行った。
いつものルーティーン儀式だ。
それこそ古代からの……。
「ふぅぅ……」
腹の底から不浄を静かに吐き出す。
「より多くの〈ピラミッドパワー〉を吸収蓄積して、かつての──いや、それ以上の──呪力を得なければならない……が、どうにも違和はある。かつてのような純度では招き入れられん。大宇宙の澄んだパワーに、微かながらも不純の気が紛れ込む」
イメージ的には、黒い霞のようでもあり粘着質の汚泥のような物だと捉えていた。
「……解っている。異質な〈魔力〉だ。この闇暦に於いて天空は慢性的な闇に閉ざされ、外界からの正常を遮蔽している。ピラミッドという巨大集積装置を使い、半ば力尽くのような形で貫通させたとしても、どうしても不純は纏わりつく」
忌々しさに新世界の法則を疎む。
「黒月か……現世転生を果たしてみれば、思わぬ障害が在ったものだ」
人の子として生まれ落ちてみれば、世は異常な環境に染められていた。
成長に連れ〝前世の記憶〟も甦ってきたが、照らし合わせても今生は混沌が過ぎる。
これでは四面楚歌だ。
「かつて〈呪后〉と刺し違えた際、我は消滅した。復活の元手と残したのは、この仮面に宿した〈霊〉のみ。現世転生の受肉にて〈肉体〉を得たものの、やはり呪力の低下は侭ならぬ。だからこそ、現状は蓄えねばならぬのだ。この闇暦は有象無象の〈怪物〉達が蹂躙する現世魔界……見据えるべき〈敵〉が多過ぎる。古代のように〈ギリシア軍勢〉だけを相手取れば善いわけではない。この怨敵を斥けてエジプト支配権を掌握したとしても、すぐさま他国勢の〈怪物〉と睨み合わねばならぬ。その為にも、強大無比な呪力は不可欠だ」
渋さに噛み締める。
やはり、あの〈羽根〉は奪取せねばならない。
「早々に引き戻さねばなるまい……大いなる災厄たる〈呪后〉の霊を」
改めて深き吐息に精神安定を委ねる。
「そして、真名……これも要する」
さりながら、こればかりは待つしかない。
己では、どうする事も叶わぬ。
待つしかない。
エジプト考古学博物館──。
よくやくにして〝真実〟のひとつを解析したアンドリュー・アルターナではあったが、代償として強いられたのは信じ難い衝撃であった!
「まさか! そんな? そんな事が……そんなバカげた事が!」
ワナワナと打ち震える!
蒼白に染まる!
歴史の禁忌は急激な憔悴に気力を吸い、腑抜けた倦怠感に肩を押されてドサリと樫席へと沈んだ。
普段と変わらぬ独り没頭の解析作業が、こんなにも幸いに思えた事など無い。
「どうすればいい……こんな……どうすれば……」
虚空仰ぎに洩らす呟きは懺悔の吐露にも似て、それは到底、普段の彼からは想像も着かない程に合理主義の厳格さを剥奪していた。
現在そこに在るのは、一転して弱々しい高齢だ。
が、どうやら持ち前の考察力は、心底に於いて不屈であったらしい。
ややあって朧気な奇策を導き出す事が叶った。
「ヴァレリアだ……いざとなったら、アイツを使う……そうすれば万事巧くいくはずだ……」
非情な結論。
非道な画策。
だが、それが非難に当たろうはずもない。
もはや親子の縁は切った。
娘とも思わなければ、父親とも思ってもいない。
そして、この選択は父親ゆえだ。
「アイツを生んでおいて良かった」
初めて、そう思えた。
皮肉めいて上がる口角は、然れど自嘲ではない……。
いつもの〝密会〟を終えると、姉とは家の付近で別れた。
ぶっきらぼうな挨拶も漫ろにバイクは去る。
後ろ髪を引かれる寂しさを夜風に噛むと、エレンはとぼとぼと足を進めた。
数メートルも歩けば、すぐに自宅だ。
危険は無い……姉にしても、そう判断したからこそ此処で降ろしたのであるし。
無論、忌避対象である父親との鉢合わせを警戒しての事でもあるが……。
(にしても、このパターンにも慣れてきたなぁ)
首尾良くローテーションを回しているせいで、未だ父には気付かれていない。
爪先ほども姉の存在は嗅ぎ取っていないはずだ。
(今度は、その内に姉さんと御茶をしたいわね。ケーキ作るの上手くなったのよ? 昔よりも……)
淡い妄想にクスリと含み笑い。
すぐ先の角を曲がれば、住み慣れた邸宅が貫禄に出迎える。
後は父の帰宅を何食わぬ顔で待つだけだ。
「……え?」
家屋を見るなりギョッとした。
煌々と点く灯りが示す現実に……。
「……遅かったな」
ダイニングの食卓に腰掛けたまま顔すら向けずに父が声を掛ける。
背中越しの抑揚は重暗く、そして、肌に感じる……威圧を。
「あ……ごめんなさい。すぐに夕飯の支度するから」
「……何処へ行っていた?」
「あ、どうしても欲しい資料があったから古本屋に……」
「独りで……か? 物騒だな」
「まさか? イムリスも一緒よ」
「……会ったぞ」
「え?」
「イムリスには会った……偶然だったが、帰り道でな」
「……ぁ」
「全部聞いた」
思わず後ずさる!
サァと血の気が引いた!
それは、つまり!
次の瞬間、烈火の如き憤怒が席を立った!
「ヴァレリアに会っていたのか! アイツに! 私の目を忍んで!」
「待って父さん! 話を聞いて!」
「いいか! もうアイツに会ってはならん! アイツは、もうアルターナ家の人間じゃない!」
「なっ!」
「親子の縁を切った! 他人だ! 勘当したんだ!」
「それは……それは父さんの勝手じゃない!」
「何だと!」
自分でも意外であった。
まさか、あの父親へと喰って掛かるとは……。
初めての事である。
しかし、彼女にとっては、あまりにも酷い暴言であった!
到底、看過する事など出来ない!
こうなれば腹を括るしかない!
エレンは真っ向から対立する姿勢を選んだ!
退く気は無い!
今回ばかりは!
「わたしにとって、姉さんは姉さんよ! いつでも! 何処でも! そうよ! 片時だって忘れた事は無い! 切れた覚えは無いわ!」
「逆らうのか! 親である私に!」
「そうやって強制する! 自分の意の儘にならないと怒鳴って! 威嚇して! 親の立場を盾にして! 父さんは自分の事だけ! 子供の……家族の事なんか見ていない!」
「持てる知識を教示してやった! 私の後継者となれるように! ヴァレリアにも! オマエにも!」
「それは父さんのエゴイズムよ! 自分中心の自己満足! 愛情なんかじゃない! そんな事だから、姉さんは出ていった! 嫌気が差して!」
「結構な事だ! アイツには、ほとほと情愛も尽きておる! いいか! もう二度と会うな! 絶対だ!」
「イヤよ! わたしも……姉さんも、父さんの人形じゃない!」
「こ……この!」
カッとなった平手打ちが頬に熱さを叩き込む!
「キャッ?」
衝撃にバランスを崩して足がもつれた!
はっきりとは分からないが、何処かに頭でもぶつけたのであろうか……分からない……染まる。
エレンの意識は、強烈な勢いに降ってきた黒に呑まれ落ちていった……。