獣吼の咎者:~第三幕~銀弾吼える! Chapter.5
外界を染める夜闇から黒月が覗く。
これから起きる悲劇を享楽に味わわんと……。
石造りの部屋であった。
その面積は、教会内の人数が入れば限界ではある。
もはや立ち入る者など存在しないが……。
埃塗れの室内は帷の如き暗闇に呑まれ、連なる天窓から射す月光が淡い光源であった。
石床へと雑多に積まれた荷物の中身は、毛布や衣類といった日用品。簡易的な調理道具や防寒具も有る。
奥に据えられた簡素な木棚にもダンボール箱が陳列されている。中身は非常食だ。とはいえ、闇暦に於いて既製品は入手しづらい。全て自家製である。
そんな一室に、罪人は隠れていた。
償えぬ黒い重圧に、嗚咽を零して……。
「ぅぅ……ぅぅぅ……どう……して……こんな…………」
シスタージュリザは、ひたすらに泣き濡れた。
青い瞳から大粒の涙が落ちる。
麗しい美貌を自責の糾弾に歪め、垂れる金糸は罪悪の羞恥を隠すベールの如く……。
「何で……あの子達を……私は…………」
血肉の味──吐きたくても吐けなかった。
卑しい本能が拒否した。
その理不尽な苦痛は如何程か……。
おぞましかった。
憎かった。
哀しかった。
悔しかった。
情けなかった。
その内に潜む〈獣〉が……。
「な~るへそ、隠し部屋が在ったか?」
「ッ!」
慄然と振り向く!
聞き慣れた声へと!
「冴……子?」
「はぁ~い★」
驚愕の瞳孔に映り込む揚々。
扉の前に立つ処刑人は、ヒラヒラと掌を振る。
その弛緩した笑顔は、普段と何ら変わらない。
処刑直前の対面だというのに……。
さりとも自然体のおおらかさは、闇暦の地に降り立った〈太陽〉にも思えた。
罪人の自分には優しすぎる。
「マザーの部屋に在る柱時計……まさか、それが隠し通路になっていたなんてね」
「殺しに……来てくれたのですか?」
「……うん」
憐憫を染めた〈怪物抹殺者〉の愁いに、ジュリザは感謝を微笑んだ。
頬を伝う雫を拭う事も無く……。
「……ありがとう」
嗚呼、慈悲を授けられる。
殺してもらえるという慈悲を……。
「……いつ知った?」
一転して引き締まった抑揚が、尋問を投げ掛ける。
「先日〈牙爪獣群〉の人質とされていた時に……」
「ヤツラから教えられた?」
「……はい」
「此処で覚醒した時には?」
「自覚は、ありませんでした」
「私に依頼した時にも?」
「はい」
「……そっか」
気まずい間を持て余すかのように、夜神冴子は銀銃の具合を再チェックした。
もうじき使う。
「あと二つ、訊いてもいいかな?」
「はい」
「この部屋は、何?」
「避難部屋ですよ。万ヶ一〈牙爪獣群〉等の強襲を受けた際に、子供達を匿えるように……」
「ふぅん?」
軽い相槌を置いて、周囲を見渡す。
「掃除は下手みたいね」
「掃除は何年もしていません。着手途中で放置されたままでしたから」
「そ」
ジュリザの説明を流しつつ、冴子は胸中に確信を噛んでいた。
違う。
此処は避難部屋などではない。
晩餐室だ。
周期的な飢餓感に於いて、誰にも気付かれず貪る為の……。
縦しんば、教会の子供でなくても好い。
適当に拐った贄で好い。
そうして、ヤツは欲望を満たしてきた。
そうして、ヤツは獣性を抑制してきた。
荒れ猛る衝動を……。
事実、此処は使われている。
縁や目地へと微かにこびりついた黒いシミが物語っている。
アレは血痕だ。
「もうひとついい?」
「はい」
「〈ベート〉は、何処?」
乾いた苦笑に、愁いが首を横に振る。
嘘ではないだろう。
彼女を知っている。
良心の前に於いて、嘘はつかない。
憐れなほどに愚直過ぎる。
「私からも、ひとついいですか?」
ジュリザからの訊い掛けであった。
「……あの子達は、やはり私を怨んでいるのでしょうか」
「知んない」
興味皆無とばかりに弾数を確認して、装填弾層を再セットする。
「……だけど、ひとつだけ分かった事もある」
「…………」
「あの子は……アニス達は〈獣〉を激しく憎んでいる」
「そう……ですか」
当然だ。
憎まれて当然。
怨まれて当然。
無自覚だったとはいえ、自分は偽善の大罪人。
それを今更、思慕へ逃避しようなどと……免罪符を得ようなどと……虫が良過ぎる。
噛み締める罪悪感。
そんな自責へ、変わらぬ抑揚が続ける。
「だけど、アンタの事は慕っている……母のように」
「……え?」
夜神冴子は、そう感受していた。
明言されたワケではないが……。
あの〈獣〉を討って……敵を取って──と。
そして、ジュリザを救って──と。
はたして、それは〈巫女〉としての素質に依るものであろうか。
それとも、利己的な自己弁護が作り出した幻聴であろうか。
どちらでもいい。
為すべき事は変わらない。
「ジュリザ、ひとつ謝っておく」
「……何でしょう」
「私は、戻す方法を知らない」
「……はい」
死刑執行を前に麗女が辞世としたのは、儚くも優しい微笑みであった。
覚悟は定まっている。
せめて〝人間〟の内に死ねるのなら──
彼女に裁かれるのであれば──
これほど温情的な刑罰は無い。
「……さよなら」
簡潔に告げて〈怪物抹殺者〉は銃口を定めた。
呪われし聖女の左胸へと……。
(ありがとう……)
受け入れた表情は静かに瞼を綴じ、虚空を仰いだ。
執行の数秒──ドクン──鼓動!
ジュリザの内に胎動を刻み始める邪心!
死にたい──
──死なぬ!
もう充分──
──まだ足りぬ!
私は罪人──
──我こそは真理!
私は──
我は──
──喰らう側だ!
呑まれた!
狡猾なる潜在意思は、砂粒程度の〝弱さ〟を糸口と利用した!
生きる者ならば万人が持ち合わせる「死にたくない」という深層意識を!
「か……ぁぁァァァアアーーーーッ!」
美しき肢体が醜い獣毛に覆われ始める!
しなやかな女体は筋肉を増し、繊細な骨は強靭な支柱と育った!
「ジュリザ!」
悲痛な想いを叫び、冴子は白き閃花を轟かせる!
獣化はさせない!
未完了な段階で射止める!
が──「跳んだ?」──避わされた!
まさかの対応であった!
自らの獣化途中で跳躍するなど!
基本的に〈獣人〉が変身中に即興対応する事は無い!
こんな大胆な奇策は初めて体験する!
「並じゃないって事か!」
続け様の発砲!
獣の爪は天井隅を足場と噛んでいる!
またも跳躍!
今度は冴子を目掛けて!
「クッ?」
寸でに右へと逸れて、軌道から外れる!
鋭い爪が裂く空気流動を左頬に体感した!
「洒落にならないっつーの!」
連鎖的に左肩が疼く!
トラウマに再発する傷み!
獣弾は、そのまま荷物の雪崩へと呑まれた!
すかさず銀銃を向け構える冴子!
一息の間すら無く、咆哮が姿を現す!
「ゥオオオォォォーーーーン!」
狩りの邪魔と云わんばかりに切り裂かれる毛布!
その端切れが、祝福喚声の如く舞い降った!
獣化は……完了していた!
いつの間にか教会前へと構える武装集団。
爆弾処理服に防弾ジャケット、肩にはライフル銃を携える。科学感をディティールとしたフルフェイスは、おそらく多機能的な役割を果たすのであろう。
見るからに〈特殊部隊〉である事は明白であった。
それが二〇人前後集っている。
やがて部隊長と思われる者が整列陣形の前へと進み出た。
毅然たる口調が、作戦指揮を誇示する。
「いいか! 情報によれば〈怪物抹殺者〉は、この施設内へと潜伏している。目標は、未だ我々の動向を察知してはいない。速やかに発見し、連絡を取れ。連携にて確実に仕止める。尚、やむなく発見された場合は、発砲及び交戦を許可する。これは、我々〈牙爪獣群〉の沽券に関わる一戦だ。ヤツの遺体を以て、失墜しかけた威厳を──ぐわぁ!」
予想外の奇襲に殴り飛ばされた!
不敵な襲撃者は、臆する事も無く自然体に警告する。
「あんま無粋な真似すんなよなぁ? いま、アイツは決着に向かい合ってんだよ……自分自身と」
「キ……キサマは!」
風にそよぐ揉み上げの黒房。
鹿革のジャケットから露出を覗かせる褐色の肢体。
アメリカン・インディアンの娘〝ラリィガ〟であった!
「ホントはさ、アタシの方が加勢したいんだよ……アンタ等なんかよりも。だけど、我慢してる。この決着だけは、アイツ自身で決めなきゃいけない……〈怪物抹殺者〉として。だから、誰も邪魔しちゃならないんだ……アタシも……オマエ達も」
一斉に構えられるライフル銃!
「撃て! ヤツも指定ターゲットだ!」
「我に繋がる総てのものよ!」
憑霊!
頭上を〈雷鳥〉の獣精が舞飛び、霊翼が雷撃の猛雨を降らせる!
その無差別攻撃に銃撃が足踏む隙に、少女の身体へと〈シュンカマニトゥ〉が駆け込んだ!
完了する獣化!
「一匹足りとも、冴子には近付けさせない。生憎、露払いは慣れてるんでな」
人狼──否〈金狼〉であった!
二足歩行に直立する金色の狼!
それが〝ジュリザ〟と呼ばれし者の本性!
「ウォォォーーーーン!」
煌めく獣毛をサワ立たせる遠吠えは、神々しくさえ映るも哀しい。
同時に冴子は覚るのだ……。
「……もう伝わらないんでしょうね」
眼前の獣へと注ぐ憐憫。
野性へと染まった姿からは、人間的な知性は感じられない。
或いは、ジュリザ自身が〈現実〉を拒絶した。
自ら、自身を殺した。
冴子の想いを切り刻む悲嘆。
すぐに封殺したが……。
「これ以上は奪わせない!」
発砲!
またも横跳びに回避する金獣!
しかし〈怪物抹殺者〉とて無駄弾を消費したワケではない!
「ギャウ!」
獣の右肩から血飛沫が噴いた!
「跳弾──アンタ自身が避けようと、背後の壁を利用した跳ね返りで一手先を撃つ。ま、後は先読みの化かし合いよね」
「グルル……」
忌々しさのままに睨み据える獣瞳。
「だけど、アンタの不利には違いない。避ければ何処から来るか判らない跳弾、正面からの正攻法では格好の的」
「グオオオーーッ!」
憤怒に溺れて特攻して来る!
間髪入れずに左腿を撃ち抜いた!
「ギャフ!」
「間合いは詰めさせない」
非情な声音による宣言。
が、この魔獣は知恵がある。
戦況を分析して考察する知能が……。
ジリジリと後退る獣。
処刑具を警戒しながら、ゆっくりと距離を開いた。
数歩……数歩と、にじり足が擦る。
そして、目的へと辿り着いた!
背後の木棚から鷲掴みに投擲するは、非常食と備蓄された太缶!
それを次々と投げつけた!
「悪足掻きを!」
迎撃に総て射抜く!
が、それは、らしからぬ失態であった!
中空で破裂した缶は、濛々たる白煙を拡散した!
「粉ミルク?」
甘い煙幕が視界を殺す!
次の瞬間には殺気が急接近した!
「こ……ンの!」
鋭敏に察知した〈怪物抹殺者〉は、咄嗟に後方跳躍!
間合いを保たんと試みる!
しかし、敵の小賢しさは、冴子を上回っていた!
「毛布? うわっと!」
着地と同時に足を取られ、無様に引っくり返る!
足首を引っ掛ける障害物をも計算に入れていた!
自ら強いた好機を逃すはずも無い!
すぐさま襲い来る餓狼!
「狭いのよ! この部屋!」
癇癪の毒に、銀を鳴かせる!
埋もれたままの即行では、さすがに捕捉が甘い!
微々たる体勢推移に避わしつつ、金狼は距離を詰めた!
瞬発力は殺さぬ!
冴子の傍らで、霊気が蠢いた!
弱々しく減衰した霊気が!
それでも〈戌守〉は、決心を固める!
護る!
この娘を護る!
弱者の希望を!
例え己が消滅しようとも!
だが──(ダメ!)──夜神冴子の意志が、それを制止した。
(もしも〈戌守さま〉がいなくなったら、私は本当に独りになっちゃう……そんなのはイヤ)
──しかし、冴子よ。
(私、独りぼっちじゃ生きられないよ? この世界を……これからも独りきりでなんて…………)
──…………。
(傍に居てよね? ずっと……ずっと……)
柔らかくも温かい思慕に当てられ、霊気は鎮まる事とした。
こうなれば信じてみよう……己が見初めた〈巫女〉の力を。
頭上へと振り翳す鋭爪!
毛布に埋もれた贄は、その柔軟な波間に囚われて起き上がる事も儘ならない!
獣の本能が、ほくそ笑む──殺れる!
「ほいっと」
冴子は飄々と瞼を綴じ、掌サイズのカプセルを放り上げた。
獣面の眼前に舞う異物──と、次の瞬間、眩い閃光を吐いた!
「ギャウ!」
視界が白に殺される!
「閃光手榴弾~★」
「グルゥ! ガウ! ガウ!」
よろめきながらに、獣は爪を振り凪いだ!
形振り構わず!
一転した闇の世界で、見えぬ敵を仕止めんと!
その無様さを悠に眺め、冴子は身を起こした。
「目潰しには、目眩ましってね」
再び間合いが開いていく。
猛る殺意に反して、獣は後退を始めていた。
脅えているのかもしれない……無自覚ながらも〝本能〟は。
だから、再殺の標準を定めるに不都合は無かった。
頭部に定める──いや、心臓へと変更した。
そうさせたのは、脳裏に浮かぶ白百合の微笑み。
せめても恩赦であった。
「さよなら、ジュリザ……」
白銀の銃が閃火を咲かせる!
射抜く銀弾!
それは哀しき決着であった。
夜神冴子が燻らせる〝獣人への憎悪〟さえも霞ませるほどに……。
教会前の交戦は、程無くして沈静化していた。
死屍累々と横たわる部隊兵達。
その惨状を見渡し、ラリィガは辟易と零した。
「並の〈獣人〉が、アタシに叶うはず無いだろ」
殺してはいない。
必要以上の殺生は好まない。
手近に呻くライオンを、胸元掴みに訊問する。
「おい」
「ひぃ!」
「オマエ等、何故、此処だって特定できた?」
「そ……組織の情報網だ」
「にしては、タイムリー過ぎる。少なくともアタシ達は〈牙爪獣群〉に勘づかれないように行動パターンを定めていたんだからな。それなのに、まるで発信器でも付けていたみたいじゃんか?」
「ホ……ホントだ! 我々〈牙爪獣群〉は──いや、盟主〈ベート〉は、腕の起つ〈情報屋〉を専属に抱えている! ソイツのもたらす情報は迅速で、信用性が確かなものなんだ!」
「情報屋……ねぇ?」
どうにも引っ掛かる。
直感的に……。
「ソイツ、何者だ?」
「す……素性詳細は知らない! 俺達は精鋭部隊とはいえ、組織末端に過ぎない!」
「ふぅん?」
拳を固めて、軽く振りかぶって見せた。
「ホホホホントだ! あ! だ……だが、名前は聞いた事がある! 確か〝イ──」
そこまで口にした瞬間、喉を裂き切られる!
「──クひゃいッ?」
奇妙な断末魔を洩らした噴霧!
赤飛沫は、貴重な情報を隠蔽した。
「おい、シュンカマニトゥ! 何すんだ! せっかく情報を得られたってのに!」
非情の裁き人へと食って掛かるラリィガ!
さりながら、コヨーテは深刻な面持ちに告げる。
「……危なかった」
「はぁ?」
「オマエは気付いていなかったかもしれないが……ソイツは後ろ手に凶器を準備していた」
不信に遺体を見れば……なるほど、手の近くにはアーミーナイフが転げ落ちている。
証拠を視認すれば、ラリィガとて渋々ながらに納得するしかない。
それが〈シュンカマニトゥ〉の転がした偽装とも疑わずに……。
一方で〈獣精〉は、沈痛な想いを噛み締めるのであった──「やはり」と。
的中してほしくない予見であった。
金色の亡骸は、やがて聖女の裸身と変わり果てる。
足下に転がる最期を虚脱に見下ろし、冴子は疲労感に包まれた。
身体ではない。
心が疲れ果てた。
「ジュリザ……アンタに罪は無い。例え黒き月が魅入ろうとも、その清廉なる魂には………」
依頼は完遂した。
皮肉にも〝依頼主の贖罪死〟を以て……。
…………違う。
まだだ。
まだ終わってはいない。
──御願い……〈獣〉を……〈獣〉を殺して……あのおぞましい〈獣〉を…………。
「……分かってるわよ、ジュリザ」
その瞳に決意の炎を滾らせて〈怪物抹殺者〉は寂寥を後にした。
逃がしはしない。