獣吼の咎者:~第二幕~獣達の挽歌 Chapter.2
マンハッタン拠点〈エンパイアステートビル〉──標高三百八十一メートル、全一〇二階建ての超高層ビルディング。
その九〇階窓越しにて、眼下の夜景を眺める女性の姿が在った。
外界の暗さが下地代わりに機能し、窓硝子へ微弱な鏡面反射を帯びさせる。
己が亡霊と写り込む美貌は、くっきりとした鼻筋に、憂い孕む眼差しを添えていた。
黒に呑まれた地表で映える繁栄の光彩。
それは、おそらく旧暦以上の美しさであろう。
然れど、その息吹を眺めていると、女性幹部〝スターシャ〟は虚無感の陰を帯びるのであった。
「……箱庭」
ひたすらに空しい。
道化舞台にすら思える。
この華々しさは〝人間〟の為ではない。
総ては〈獣人〉の為──支配層の奢りによる自己顕示欲だ。
その為だけに貴重な電力は、生産と浪費を繰り返している。
たいした意味など無い。
ただ贅を貪る事で実感したいのだ──「自分達こそが〝絶対的な権力層〟なのだ」と。
その虚栄に気付けばこそ空しい。
他の〈獣人〉ならば、目を背けるであろう現実だ。
「どうした〈ブルックリン区長〉?」
背後からの呼び掛けが、虚噛む意識を現実へと連れ戻した。
誰かは振り返らずとも判る。
黒く透き通る鏡面が、彫りの深い男臭さを浮かび上がらせていた。
人間体としての年齢は四〇代といったところか。
実齢は知らない。
「別に……どうもしないわ〈ブロンクス区長〉」
半ば、皮肉のように肩書返しを向ける。
「その割には浮かぬ顔だな」
「今日に始まった事じゃないわ」
さりげなく肩へと回された手を、スターシャは軽く流し外した。
いい気分ではない。
正直、汚らわしく感じさえもする。
軽い男性嫌悪だ。
「……〈ベート〉は?」
夜景に瞳を投げたまま訊ねる。
重なり写った渋い顔は、浅い苦笑に転じて肩を竦めた。
「もうじき指定時刻だ。現れるだろうさ。召集した本人なんだからな。もっとも、また遠隔通信だろうがな」
「……そう」
感慨を含まぬ納得に踵を返すスターシャ。
そのまま淡々とリングテーブルの席へと着く。
「脈無し……か?」
後ろ姿へと独り言を被せたブロンクス区長〝トレイシー〟は、自嘲浸りに続くのであった。
会議が始まると、部屋の明かりはブルーライトへと切り換えられた。
薄暗さは然ほど変わらぬが、否応なく神秘的な沈着感が演出される。
酔狂でやっているわけではない。
冷静さを促す為だ。
そもそも〈獣人〉という種は、血の気が多い。
潜在する野性のせいであろう。
だから、興奮を触発する情報でも挙がろうものなら、頭に血が昇って使い物にならなくなる可能性は否めない。
末端なら、それもいいだろう。
さりながら〈幹部〉が、それでは些か困る。
故に、微力ながらも沈静化効果を期待したのである。
盟主たる〈ベート〉からの発案であった。
輪環形状のテーブルは、幹部同士が互いの顔を見渡せるように配慮された代物だ。対等な立場を暗に強調する打算もある。
とはいえ現在、座するのは二名のみ。
ブルックリン区長〝スターシャ〟と、ブロンクス区長〝トレイシー〟だ。
クイーンズ区長〝アナンダ〟とスタテンアイランド区長〝ジャスプ〟の姿は無い。
「時間にルーズね」
内心、若干の軽視を込めてスターシャは零した。
固より〈スタテンアイランド区長〉は好かぬ相手であった……オドオドとした〈クイーンズ区長〉はともかくとして。
上座には〈盟主〉が座るのが当然であったが、肝心の〈ベート〉の姿も無い。
代わりに卓上へ置かれているのは、金色に照る〝魔獣の彫像〟だ。大きな物ではない。せいぜい全長六〇センチ程度の代物だ。しかしながら精巧に刻まれた躍動感は、恰も〈ベート〉が憑依しているかのような威風を醸している。
それにしても奇妙な像だ。
スターシャにしてもトレイシーにしても、こんな奇獣は見た事も無い。
狼の頭部に逆立つは、獅子の鬣。虎の胴体には蝙蝠の翼を雄々しく広げ、蛇がそのまま尾と踊る。前脚を斜に構え、獲物を睨み据えるかの如く下方から視線を投げている。その足に踏み敷く〈悪魔〉は、はたして『闇暦制覇』の暗喩であろうか……。
その瞳が赤く点ると、魔獣像から声が発せられた。どうやら見た目の美術品的印象に反して、内部には通信機械が盛り込まれているらしい。
『皆、揃ったようだな』
「まだ〈クイーンズ区長〉と〈スタテンアイランド区長〉が来ていないわ」
『あの二人が現れる事は、もう無い』
「どういう事?」
『〈スタテンアイランド区長〉は屠られた』
「何ですって?」
『二日前の事だ。そして、先頃には〈クイーンズ区長〉が消息不明……これは由々しき事態である」
「何故?」
『いずれも〈怪物抹殺者〉による襲撃だ』
「〈怪物抹殺者〉? それって、あの?」
「確か〝ヨガミサエコ〟とかいう人間か? ただの都市伝説だろう? たかが〝人間〟が、俺達〈獣人〉を──いや〈怪物〉を倒せるわけがない」
「どうかしらね」と醒めて紅茶を啜り、スターシャの持論を呈した。「実際、旧暦では私達の方が〝伝説〟だった。けれど、こうして〈怪物〉は実在する。そうした固定概念による驕りが、人類衰退の一端を担ったという事実は軽視できないわ。その教訓を踏まえなければ、私達〈怪物〉だって人間達と同じ……二の舞とばかりに、予期せず足下を掬われる可能性がある」
「う……それは……そうだが……」
意気消沈ながらに自席へと鎮まるブロンクス区長。
どうやら無自覚にも先入観へと染められていた──その短絡ぶりを達観した正論で指摘されてしまった。
気まずさを自覚したトレイシーは、転嫁とばかりに組織の穴を責める。
「しかし、仮にも〈区長〉ともあろう者が……揃いも揃って、不甲斐ない話だ」
『そうではない〈ブロンクス区長〉よ。あの二人は、決して〝弱き獣人〟ではなかった。おそらく〈怪物抹殺者〉の姑息な戦術に陥れられ、思いの外、本分を発揮出来なかったのであろう』
「姑息な戦術?」
スターシャが怪訝を染める。
『つまりは、奇襲だ。暗殺を主体とした奇襲によって群勢との交戦を避け、一対一の図式を強制させられたようだな。そのせいで虚を突かれ、苦戦を強いられたのであろう。加えて、彼女に味方する者も現れた』
「味方? 何者なの?」
『ネイティブ・アメリカンの娘──〈霊獣の巫女〉だ』
「ああ、例の〈ダコタ〉の小娘か」
「都会へ?」
『そのようだな。それが〈怪物抹殺者〉の策かどうかは不明だが』
「だとしたら〈ダコタ〉を陥落させる好機だろう?」
「無理ね。あの憑霊獣人が不在となれば、迎え撃って出て来るのは、伝説の〈ホワイトバッファロー・ウーマン〉──こちらも本意気で侵攻しなければ下せない難敵。最低でも一区画相当の兵力を注ぎ込む必要がある」
『その通りだ。況してや、現状は近隣国との均衡に加えて〈怪物抹殺者〉が潜伏している。下手に国内を手薄にすれば〝獅子身中の虫〟によって、内部より食い荒らされてしまう可能性が高い』
「外も内も〈敵〉だらけ……か。一転して窮地じゃないか。あれほど盤石な優位に在った〈牙爪獣群〉が?」
「残るは、私達だけ……。今回の緊急会議召集は、そういう事?」
『うむ、このままでは後手後手……好ましい流れではない。よって今度は、こちらから仕掛ける』
「仕掛ける?」
『オマエ達には連携をしてもらい、誘き寄せた〈怪物抹殺者〉を葬ってもらう……確実にな』
「罠……って事?」
「貧乏クジだな」
「だけど、条件的には悪くないわ」
「スターシャ?」
「前以て計画性を立てられるのなら、こちらに有利な体制は幾らでも敷ける。戦力にしても、戦場にしても……」
『戦うべき場所は、こちらに考えがある』
「私達の優位に働く場所って事? 何処?」
『それは此処──この〈エンパイアステートビル〉』
「っ!」「っ?」
さすがに意表を突かれ、両区長は息を呑んだ。
よもや拠点を罠とするとは……。
それだけ〈ベート〉にしても腹に据え兼ねている……という事であろうか。
『言うなれば、これは我々〈牙爪獣群〉と〈怪物抹殺者〉の決戦。ならば、これほど適した場所も無いであろう』
「ハッ! ソイツァ、ドラマティックだ」
投げ遣りめいた皮肉に、トレイシーは両手を仰ぎ開いた。
「デメリットが多くなくて?」
『葬れなければ、どのみちニューヨーク内部から瓦解する』
「そのぐらいの腹積もりで挑めって事か……アンタ、エグいな?」
奇獣へと向けられた上目遣いの値踏みに、策謀の〈市長〉は含み笑いを返す。
『フフフ……我にとっては、褒め言葉だよ〈ブロンクス区長〉』
そう、だからこそ歴史の闇を生き残れて来れたのだ……この〈ベート〉なる〈獣〉は!
「残る問題は、どうやって誘き出すか……ね」
『その点についても、此方で手筈を整えよう。オマエ達は〈怪物抹殺者〉の抹殺にのみ傾倒しておれば善い』
会議室を後にしたスターシャは、黙々とビル内通路を歩く。
コツリコツリと硬く刻まれるヒールの足音。
ランタンを模した電灯が機能美的な明るさに彩っている。
旧暦ならば一流ホテルを想起させる無機質な高級感が、単調な迷宮とばかりに奥へ誘った。
(それにしても……何故〈ベート〉は此処を決戦場に?)
痼る違和感を巡らせる。
会議の席では、一応、有利性を強調された。
かといって〈ベート〉の主張は説得力に欠く。
それは此処でなくても良い。
(拠点へと立ち入られるデメリットの方が圧倒的に大きい。そこまでして、私達の退路を断つ為? 覚悟を腹に据えさせる為?)
確かに葬れれば〝知られなかった〟も同然だ。
仮に葬れなければ〈牙爪獣群〉が壊滅するやも知れぬ──組織自体が消滅するならば、やはり〝知られても同じ事〟ではある。
しかし、それでも……。
(何を見据えているの? 〈ベート〉?)
聡明さによる共感か──或いは女の勘か──裏に何かが潜んでいる気がしてならなかった。
さりとも、それは根拠無き直感だ。
現状は、勘繰るしかない。
その別室が何処に在るのか──それは誰も知らない。
少なくとも〈エンパイアステートビル〉の内部に間違いはないが……。
暗い室内には赤色のライトが微息を喘ぎながらも、強く根を張る闇を殺す程にはない。
寧ろ極彩美の共存を生み、血塗れの耽美とも感じられる魔室を演出していた。
室内を飾り立てる装飾品の数々は、偏に権力誇示の自己主張……それ以外に価値など無い。酔狂な自己満足だ。
有閑なロッキングチェアに腰掛ける女影こそは、恐怖支配の象徴〈ベート〉────。
大布仕切りのヴェールに閉ざされ、越して映るシルエットのみしか確認出来ない。
会議の通信を終えた女帝は、モニターを遮断して黙想へと揺られた。
「〈怪物抹殺者・夜神冴子〉……か」
「イヒヒヒ……だから言ったろう? 近々〈怪物抹殺者〉が来る……って?」
不意に聞こえた声に、弛緩の入口から冷酷が還る。
いつの間にやら、ヴェールの前へ一人の男が居た。
小柄で卑俗な男──。
背中から伸び生えた奇怪な八本脚────。
あらゆる面で〈ベート〉の嫌悪感を誘発する者であった。
自然と眉間が曇る……が、それを差し置いても利用価値はある。
だからこそ、存在を許してやっているのだ。
「こう見えても〝情報屋〟としてのオイラは優秀なのさ。情報の確実性も、その伝達スピードも……な。例え海を隔てた島国の情報であろうとワケ無ぇさ」
事実である。
自分が知り得ぬ〈クイーンズ区長〉〈スタテンアイランド区長〉の顛末を把握したのも、その男の情報収集力に依るものであった。
「いいだろう。これからも我等にとって有益な情報を収集するが善い──情報屋とやら」
「ああ、任せてくれ。けれど〈牙爪獣群〉の方こそ約束を違わねぇでくれよ?」
「無論だ。我が牙に懸けて」
「そりゃ結構。イヒヒヒ……」
次なる暗躍へ移るべく退室に醜怪な背を向ける。
「……座頭虫が」
呪詛に吐き捨てた一言は、はたして〈獣妃〉には聞き取られなかったようだ。
夜闇は生き返った。
黒き魔月は黄色い単眼に、混沌への満喫を呼吸する。
そんな外界の異常に意識を訣別させ、聖女は礼拝堂で祈りを捧げ続けた。
ひたすらに……。
一途に…………。
(嗚呼、モロゥズ様……どうか御守り下さい……子供達を……弱き者を……私の弱き心を…………)
「精が出るわね?」
背後からの呼び掛けに、黙祷が邪魔立てられる。
振り向けば、入口には砕けた笑顔でヒラヒラと掌を振る〈怪物抹殺者〉の姿。
「ミス冴子?」
「あ~……そろそろ、その〝ミス〟っての取ってくんないかなァ?」
肩を竦めた苦笑は、赤い敷布を歩き進んだ。
「では、何と?」
隣に並んだ凛然さへ訊う。
「冴子……それだけでいい」
凛然は獣神像を見つめた。
「此処数日、見掛けませんでしたが?」
「ま……ちょっとね」
沈黙が刻まれる。
と、不意に冴子が訊ねた。
「何かあった?」
「……え?」
「いえ……あなたの祈り方、思い詰めた人特有のものに感じたのよね」
「……何故、そのように?」
戸惑う瞳に、一瞥が苦笑う。
「これでも〝神社の娘〟だかんね……一応」
「巫女……と呼ばれる者だったのですか?」
「うんにゃ、刑事」
正直、意味が分からない。
分からないが──「プッ」──思わず笑いが吹き零れた。
明るさに毒された美貌を盗み見、冴子は満足そうな微笑を携える。
ややあって、二人の正視は〈モロゥズ神〉へと注がれた。
「最近、夢を……悪夢を見るのです」
「夢?」
「あの〈獣〉の惨劇……今度は子供達が皆殺しにされていました」
「……そう」
「冴子、進展は?」
「無い」
「そう……ですか」
「でも、終わらせる」
「え?」
「相手が〈獣〉だろうが〈牙爪獣群〉だろうが終わらせる……約束したからね」
「約……束?」
冴子の胸中に棲み憑いた想い──。
──冴子さんは〈怪物抹殺者〉だから……きっと敵討ちをしてくれると思って…………。
──さーこおばたん、もんたーすれた……。
胸中に暴れ狂う慟哭を撃ち殺し、夜神冴子は修羅道への決意を確固とした。
礼拝堂上部に据えられたステンドグラス。
その前部に設けられた幅狭い通路に潜み、ラリィガは眼下の様子を観察していた。
「モロゥズ教……ねぇ?」
直感、胡散臭い。
もちろん、それは冴子とて百も承知だろう。
さりながら、自然神との疎通に身を置く彼女にしてみれば、この上無く歪な偶像でしかなかった。
「シュンカマニトゥ、どう思う?」
「さて……な? 少なくとも、オレからすれば何も無いな……アレは」
「だろうね」
「ま、内側に居る間は、そいつが〝本物〟か〝メッキ〟かなんて自覚出来ないものさ……殊に〈宗教〉ってヤツァな。教義めいて抱えさせられた価値観だけが〝真実〟になっちまう。審美眼の欠落ってヤツだ」
「盲目……か」
自分は──そして、冴子は──幸いだと実感する。
自分達が根としているのは〈信仰〉であって〈宗教〉ではない。
森羅万象に〈精霊〉を見出して、自発的に畏敬を捧げる理念が〈信仰〉だ。
つまりは、何処かの誰かに言われてやっているワケではない。
これが〈信仰〉と〈宗教〉の差と言えた。
自発的能動に崇敬する〈信仰〉は、総ての選択に於いて己自身の自由意思だ──善くも悪くも。
対して〈宗教〉は、似て異なる。
一見には自発的に見えたとしても、そうではない。
実際は〝教祖〟によって組み敷かれた教義や理念が、絶対的価値観と刷り込まれる。
正しく機能している分には道徳観念を促進させる素晴らしき群像だが、一度〈宗教〉自体が歪めば信者の一生を狂わせる両刃だ。
ありがちなのが〝美徳を偽装した私利私欲〟〝教義を盾にした主従強要〟だろう。
そこに根拠も正義も無いが〈宗教〉を盾にエゴイズムの免罪符と奮う。
そして、組織依存に従順化させられた信徒は、矛盾した苦しみのまま小飼にされるのだ。
とかくカルト宗教は、そうした偽善に栄える。
とはいえ、何を崇めようが、それは各人の自由だ。
口出しする気など無い。
だからこそ、ラリィガの眼差しは憐憫の想いを宿すのである。
「可哀想だな……あのシスターも、子供達も」
ふと背後のステンドグラスへと目を移す。
描かれた情景には、罪人も悪魔も釜で焼かれていた。
シスター・ジュリザが〈牙爪獣群〉に拉致誘拐されるのは、これより二日後の事になる……。