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獣吼の咎者:~序幕~モンスタースレイヤー
紅蓮の炎が舞った。
住み慣れた旧家造りの屋敷は忘却の舞踏に蹂躙され、茜色の虚無へと呑まれ逝く。新たに生まれ落ちるのは、完虐無きまでに燃え尽き煤けた残骸だけであった。
そんな理不尽な紅の中で、虚脱的に佇む女性の陽炎。
うなじから伸びた束ね髪が熱風に泳ぎ狂う。フォーマルスーツを着こなした美女である。タイトスカートから生える脚線美が艶かしい。
有も無も内包しない純粋な存在があるとするならば、それは現状の彼女かもしれない。
その意識はぼんやりと霞掛かった虚を彷徨い、自己というものを喪失していた。
しかしながら茫然自失といった感覚とは少しばかり違う。
何故なら、己の心底に潜む己自身が、冷静且つ客観的に状況を分析しているのをハッキリと自覚していたのだから……。
荒々しい崩壊音と共に、また思い出が燃え朽ちた。
こうして真綿で首を絞めるかのように、幸福の下で育んできた総ては残り数時間の内に灰へと帰すのであろう。
例え人生の大半を費やして築き上げたものであっても、それを失うに足る時間はほんの一瞬で充分なのだ……と、彼女は生涯分の教訓を学ぶ。その代償は大きい。
終焉を迎え入れようとしていたのは、この屋敷だけではない。自分が生まれ育った町全体が魔の宴によって、その歴史に終止符を打たんとしていた。
昨日まで当然の如く営んできた日常は、しかし、一夜にして阿鼻叫喚の地獄絵図へと光景を変えたのだ。
何故、このような事態が引き起こったか……。
それを理解している者など、誰一人としていないであろう。
ただ一つ言える事は、何の疑いもなく信じてきた約束されし日々が、かくも砂城の如き脆さを露呈したという事実だけである。
しかし、彼女にとっては、もはやどうでもよい事であった。
灼熱へと消え去る幸せの面影も、渇き疲れ果てた心を揺り動かす事など無い。
そう、眼前で哀れみを請う母の言葉でさえも……。
「や……やめて……あなたは私の娘じゃないの! そうでしょう? 愛しい……愛しい娘じゃないの! それが、どうしてこんな……嗚呼、神様!」
この期に及んで〈神〉などとは、空々しくて苦笑も湧かない。
精一杯の哀れみを請う母の姿は、無様な〈成れの果て〉としてしか瞳に映らなかった。
実娘の細美な指に硬く握り締められる銀光。
それは煉獄に相応しくも、女性には到底不釣り合いな白銀の銃……。
構造的にはオートマチック銃でありながらも、宿す武骨さは歴史の重みを噛んだリボルバー銃の如き鈍さに在る。
まるで鏡面の反射のように柔らかくも鋭利な輝きは、通常の金属が放つ鈍い光を一切帯びずに軽やかであった。さりながら、その中に静かなる威光を見せる金色の装飾群が、この銃の神々しさを暗に誇示している。極めて洗練された特異な外見は現存する如何なる銃器とも合致せず、本当にこの小道具で生命を殺める事など可能なのかと勘繰らせるような代物ではあった。
が、しかし、その秘めたる殺気にも似た鋭い不穏感は沈黙の内にあっても隠しきれずに醸し出されており、やはりこの銃が超一流の暗殺者である事実を見る者へと否応無しに確信させる。
総てが異様な要素で構築された光景であった。
燃え朽ちようとする屋敷──
阿鼻叫喚の如き無数の悲鳴──
儚い陰りに虚脱する美貌──
そして、その手に硬く握り締められた白銀の銃────
だが、それらは一つの共通要素によって難無くの結合し、完成された不条理へと形成されていた
即ち、退廃感という共通要素によって。
そうした負の要素によって新生した彼女の姿は、まるで地獄の業火を従えた幽姫の如き印象を主張する。
戦慄に凍る実母の瞳にすら冷徹な死神としてしか映らなかったであろう事は想像に難くない。
何故ならば、一片の慈悲を請うその目は、既に実の娘を見るものではなかったのだから。
狂気に踊る炎熱に囚われて対峙する親子──いや、親子だった者……か。
その全身を尋常ならざる発汗が不快に照り湿らせていた。
はたして、それは業火の責め苦によるものか。
それとも、逃れ難い〝死の運命〟を共に自覚したからなのであろうか。
視界の隅で、また一つ大きな炎塊が燃え朽ちた。
盛る炎は急いて晩餐を終わらせようと次々に贄を舐め、そのたびに灼熱は一際大きな喝采をあげる。
万事への関心を忘れ去り虚を漂うだけの意識にも、この舞台の終演が近い事だけは察知できた。
ならば、決着の幕引きを急がねばなるまい。
そう、この悲劇の核でもある自身の決着だけは……。
もはや煉獄の処刑人と化し、意思の疎通すら定かではない己が娘──。
それを警戒に見据えつつも母親は、その胸に抱くものを全身盾として必死に庇い続けていた。
母性に抱かれて眠る巫女装束は、彼女にとっても掛け替えのない存在──妹。
その愛くるしい寝顔が虚の瞳に映り込んだ瞬間、無へと鎮まったはずの暗い湖面がサワサワと小波を奏で始めた。
ささくれ剥ける心が、魂には堪らなく痛い。
──わたしも、お姉ちゃんみたいになりたいな。
妹の声が、まるで昨日までの日々のように脳裏へと響いた。その鈴の音のような心地よい声音が……。
無邪気に笑う癒しが木漏れ日へと融け、毒々しい赤の使者が再び酷な現実へと連れ戻す。
愛しい妹であった。
高校生になっても家族にべったりな甘えぶりが可愛かった。
その天真爛漫さに幾度と無く癒されてきた。
そして、現在、妹は眠り続けている。
まるで俗世間に渦巻く悪徳とは無縁であるかのように、穏やかな安楽の表情を浮かべ……。
二度と目覚める事も無い永劫の眠りへと……。
その左胸には撃ち抜かれた非情の痕が、まだ生々しく赤を垂れ流していた。
手を下したのは、他ならぬ姉自身!
この最愛の存在を殺めた瞬間から感情は静止した。
それは恐怖と絶望すら凌駕させる狂行であった。
「嗚呼、お願い……お願い! どうか……命だけは!」
またもや試みられる懇願。
聞き飽きた。
懐かしむ思い出に耳障りだった。
どうやら、微かにざわめき始めた感情の機微を目敏く嗅ぎとったのであろう。
だが、そのあざとさは逆に彼女の心を凍てつく虚無へと再投獄し、果たすべき使命を呼び起こす皮肉へと結実したに過ぎない。
ようやくユラリと細腕が上がると、白銀の銃口は標的へと静かに定められた。
「や……やめ……お願…………っ!」
「……さようなら」
掠れ漏れた別離と共に、深い哀しみが頬を伝う。
──銃声!
何もかもが無へと還って逝く中で、赤い意識が黒く暗転した。
一九九九年七月──日本という島国から、とある町が消失した。
取るに足らない小さな町であった。
「っ!」
自らが引いた銃声を耳に、彼女は跳ね起きた。
全身を湿らせる脂汗が不快な目覚めを強調し、なんとも心地悪い。
(……まったく)
やりきれない憤り。
幾度となく体感する悪夢は呪縛の如く彼女の魂を捕らえ、終わりなき責苦に傷つけては悦を味わう。
この時代には浮いた出で立ちの美人であった。
否、些か童顔めいた愛らしさは〝美少女〟と形容した方が相応しいやもしれぬ。しかしながら瞳に宿る凛とした気丈が、成人として培った人生経験を物語っていた。
項から流れるのは、銀の髪留めで束ねた長い一房。
フォーマルスーツ姿ながらもラフに着こなし、窮屈さを嫌ってブラウスの首下はボタンを外していた。タイなど論外だ。
そのはだける白さから覗く地肌の健康美は、豊かな胸の谷間と相俟って扇情的な禁忌を誘発する。タイトスカートから生える脚線美も然りだ。
とはいえ耽美な印象を封殺するのは、内包する明朗な性格が陽のオーラと滲み出ているからであろうか。
彼女自身の容貌は、あの惨劇の夜から何一つ変わらない。
つまりは二〇代前半のままであった。
あの時から、三〇年近く経過しているにも関わらず……だ。
細かい年齢は、流れる歳月に都合よく忘れ去った。
女特有の小賢しさとも言える。
ともあれ、瑞々しい肉感を宿す肢体は健康的な魅惑を実らせながらも一切変化していなかった。
無論、老化は言うに及ばず……だ。
歳月を無視して維持される〝若さ〟というのは、当人にしてみれば忌まわしい呪いでしかない。
これでは、はたして自分は〝人間〟か〈怪物〉か……。
「お目覚めですか? ミス・ヨガミ?」
前席の操縦士が苦笑いに声を掛けてきた。
「ええ」
対話を現実認識への糸口として、彼女は取り繕う。
さりとも、体感的な悪夢は不快な鼓動を鎮まらせてはくれない。
荒げた心拍数を整えるべく、現実逃避の現実認識に視線を滑らせた。
閉塞的な暗室の中で細い呼吸を見せているのは、青や緑の微弱な蛍灯だけ。電子計器類が発する無機質な癒し。
ヘリコプターの後部座席だ。
芋虫を想起させる丸みを帯びた長細い機体には、上部前後に設けられた大きなヘリローターが空気を裂いて回転している。荒ぶる回転音が、疲弊した精神状態には神経質に耳障りであった。
いわゆる〈輸送ヘリ〉と呼ばれるタイプだ。
元来、兵士や物資を輸送する目的に使われた機体なだけに、本体内部は一人では多少持て余す。
そうは言っても機内は暗い。
外界が闇夜なのだから無理からぬ。
それも単なる闇夜ではなく常闇の世界だ。
側面ハッチの窓越しに覗けば、巨大な漆黒の怪球が高空に〈月〉と鎮座していた。黒き月ながらも環光は白い月明かりと化して夜を演出する。存在の核として据えられた巨大な単眼は明確な意思力で地上を見下ろし続け、この黒月が〈怪異存在〉そのものである事を否応なく立証していた。
闇暦────。
それが、この異常な世界の年号だ。
旧暦一九九九年七の月──即ち、大予言者〝ノストラダムス〟によって啓蒙された〝人類滅亡の日〟は、はたして終末予言の的中として顕現した。
俗に〈終末の日〉と呼ばれる未曾有の大災厄である。
彼女〝夜神冴子〟が渡米を決行したのは、闇暦二十九年の事であった。
目的地はニューヨーク──。
「ところで、ミス・ヨガミ?」
「冴子でいいわ」
「じゃあ、サエコ? 遙々日本から渡米するのに、どうして空路を? それも飛行機ではなく、ヘリコプターで?」
「あなた、名前は?」
「シオン……〝シオン・バンデラス〟です」
シートへ深く腰掛けた冴子は、懐中から愛銃を取り出して軽く確認を始めた。
白銀の銃だ。
件の一夜以来、命運を委ねる相棒と化している。
「オーケー、シオン。まず『空路について』だけど、事故遭遇率──いえ〝怪物遭遇率〟と言い直した方が良いかしら──が低い方法を考えれば、実は航空手段こそが一番手っ取り早いからよ。海面は〈怪物鮫〉や〈人魚〉〈半魚人〉などの活動領域だし、そうした中には大型船ですら力尽くで沈没させてしまうほどの大怪物も存在する──巨大烏賊〈クラーケン〉や海竜〈リヴァイアサン〉などは好例ね」」
そう説明しつつ、携帯していたラベンダーの香水を噴霧に浴びた。
この現世魔界の支配者は、もはや〝人間〟ではない。
旧暦時代から人類が空想存在と一笑に伏してきた〈怪物〉達である。
彼の〈終末の日〉顕現時に、魔界より一挙多勢に押し寄せて来た異形達である。
そうした背景故に、地上には雑多な〈怪物〉達が我が物顔で跋扈していた。
安全な場所など無い。
「次に『ヘリコプターを選択した理由』は、離着陸の利便性」未塗布の四肢に香水を噴霧する。「飛行機の場合は滑走路が必要となり、結果として着陸場所もそれを要する設備に限定されてしまう。そうなれば、そこから目的地への移動は陸路でしょ? けれど、陸路には陸路で面倒な怪異が存在する。余計な苦労は負いたくないもの」
「ああ、つまり〈デッド〉ですか」
納得の苦笑を含むシオン。
地上には〝生ける屍〟が徘徊している。
便宜上〈デッド〉と呼称される喰人屍だ。
特定の場所に限った話ではない。
地上の至る場所で、奴等は彷徨していた。
その原因となっているのが、地表に蔓延する魔気〈ダークエーテル〉である。
一見には〝漆黒の霧〟に思えるが、実質には〝魔界の瘴気〟だ。
コレが死体の脳に干渉して〈デッド〉として再活動させている。
しかしながら、腐敗や損傷が著しい死脳には高度知性や人間的感情の再現は不可能──故に、最も原始的な本能である〝捕食本能〟のみが刺激されるのである。
「でも、何だってアメリカへ?」
「あら? それが、あなたの仕事じゃないの? だから、依頼したのだけれど?」
「そりゃ、こちとら〝運び屋〟だ。報酬さえ受ければ、どんな物でも運びはしますがね──」
「需要あるでしょうね」
多少皮肉めいた苦笑に浸る。
「おかげさまで」
共有に口の端を上げた。
闇暦の世では、国境を越えてまでの移動や輸送は命懸けだ。殊に〝人間〟には。
故に、彼のような職種は繁盛もする。
尤も、そうした人材自体が稀少ではあるのだが……。
「で? 何故です?」
「こちらも仕事だからね。依頼があれば、何処へでも行くわよ」
「ボランティアみたいなものでしょう? 〈モンスターハンター〉なんて?」
「……〈怪物抹殺者〉ね」
「どちらでもいいですよ、呼び名なんて。結局は依頼を請けるも請けないも貴女個人の胸の内ひとつだ」
「だからこそ、信頼第一なのよ」
「それだけ?」
「さて……ね」
冷めた自嘲にはぐらかす。
実際のところ、割に合う個人業ではない。
この闇暦の世に於いては、女独りの〈反乱分子〉でしかないのだから。
おまけに報酬は、法外な大金というワケでもなかった。
精々〈食糧〉と、使用分+アルファの弾薬程度だ。
もっとも、仮に高額報酬であっても意味など無い。
世の支配者が〈怪物〉達である以上、人間の価値観でしかない通貨等は前時代的な遺物だ。コレクターズアイテムの価値すら帯びない。
それでも冴子が〈怪物抹殺者〉を続ける理由は……偏に〈憎悪〉なのかもしれない。
或いは、この銀銃に踊らされているのか。
どちらでもいい事だが……。
「ところで──」愛銃のチェックを終えると、冴子はシオンの背中へと質問を投げ掛けた。「──ニューヨークの実状は、どうなっているのかしら?」
「御存知ない?」
「ええ。闇暦ではブロードバンド的な情報網は無いもの……せいぜいクチコミでしょ? 況してや海を隔てた島国じゃ、リアルタイムに海外事情を知る術なんて無いわよ」多少の自棄感情を乗せて肩を竦める。「せめて上陸前に、最低限〈領主〉と〈主要勢力〉だけは情報を押さえておきたいところね」
地上の支配権を剥奪した〈怪物〉達は、続けて各国各地の〈領主〉として収まった。
無力化した人類は、そうした地に於ける〈領民〉として子飼いとされているのが実情だ。
何故、人類を庇護するのか?
目的は簡単である。
食料確保だ。
形態が何であれ、総じて〈怪物〉達の糧は人間に依存する。血肉の場合もあれば、憎悪や恐怖といった抽象的感情の場合もある。
だからこそ〝人間〟という脆弱種が絶えてしまえば、彼等自身も自己存在を維持できない。
故に最低限の食料を保護する必要があった。
本能のまま飽食する〈デッド〉から……。
歪んだ共生の在り方ではあるが、闇暦という異常には相応しい。
「ニューヨークを支配している勢力名は〈牙爪獣群〉──〈獣人〉によって構成された群勢ですよ」
「ふ~ん? つまりは〈狼男〉の勢力?」
「とは限らない。種々様々な〈獣人〉を傘下へ加えて、此処数年で急成長した勢力です。例えば〈狼男〉〈呪豹の血族〉〈蛇女〉〈蜂女〉──実態は多種多様ですよ」
「広義過ぎるわね……節操の無い」
「ああ、でも最低限の共通項はあります。それは〝人間〟になれるという事。つまりは〝変身体質〟ですね。だから〈ミノタウロス〉や〈ケンタウロス〉なんかは含まれない」
「成程……ね」
形式ばかりの納得に締めた冴子は、軽い悪戯心か、虚空に香水を噴霧した。
続けて装填用弾層を確認──装填用弾層個数二ヶ。弾数はフル装填で各八発。銃本体にも込められているから、総計二十四発。
当面は充分だ。
「〈領主〉は?」
冴子の質問に、シオンは苦笑に首を振った。
「〈市長〉と呼んだ方がいい。怒られる」
「気取るわね」
「ニューヨークの構成は御存知で?」
「旧暦での市構成? ま、月並みにはね。俗に言う〈ニューヨーク市〉は、五つの行政区から成る──つまり〈マンハッタン〉〈ブロンクス〉〈ブルックリン〉〈クイーンズ〉〈スタテンアイランド〉……ね」
「ええ。で、それは闇暦に於いても踏襲された。各行政区は〈区長〉が統治し、その連体を束ねているのが〈マンハッタン区長〉──つまり〈ニューヨーク市長〉兼〈牙爪獣群盟主〉なんですよ」
「ただの〈ラスボス〉と〈中ボス〉の図式じゃない」と、興醒めに呆れる。「で、何者?」
「市長? さて? 何せ、表舞台に出て来ない。如何なる〈獣人〉なのかすら解りませんよ。名前は、確か〈ベート〉とか言う……」
「ベート?」
聞き覚えのある名前に、少々厄介な相手と直感した。
相対した事は無い。
だが、こうした事柄に精通すれば、必ずと言っていい程、遭遇する名だ。
何が厄介なのか……それは冴子にも判らない。
そう、判らないという事自体が厄介なのだ──この〈ベート〉なる〈獣〉は。
危険視すべき難敵と分かっていながらも、対抗策の手が打ちよう無い。
(最悪時、事を構える流れになれば、死闘は必至……か)
窓の外へ視線を投げる。
眼下には、まだ黒い潮騒が荒れている。
一瞬、黄色く淀んだ単眼と交差した気がした。
この黒月が、混沌育む地上から〝人間〟如きへと注視を向ける事など無い。
錯覚だ。
青暗い闇に呑まれる礼拝堂──。
うら若き修道女〝シスター・ジュリザ〟は、今宵も祈りを捧げ続けた。
百合のような白肌に、豊かな金髪が映える。
繊細さな美しさは、芸術彫刻の如き存在感を主張した。
彼女は愁い、そして怯える。
今日も何処かで生命が奪われる──そんな現実に。
「主よ……昨日、アントニオが逝きました……まだ三歳です……どうか、御守護を……穏やかなる世界へと導きたまえ…………」
眼前の祭壇に飾られた神像は、膝折の祈祷を何も語らずに受け入れる。
それが、はたして憐れな魂の〝救い〟となるのか……シスター・ジュリザには分からない。
それでも縋るしかなかった。
祈るしかなかった。
自己満足の免罪符と笑されようとも……。
「熱心ですね、シスター・ジュリザ……善い事です」
不意に呼び掛ける声に、意識は現実へと還った。
立ち上がって振り向けば、入口に柔和な物腰の修道女が立っている。
ジュリザよりも、一回り年上だ。
月光を黒艶に返す長い髪。
常に憂慮を孕む柔和な眼差しは、同時に聡明さと慈母性を感受させる。
少女としての印象から脱せないジュリザと比べて〝大人の女性〟と呼ぶに相応しい理知的美女であった。
「マザー・フローレンス……」
視認を受けた女性教祖は、粛々とした所作にジュリザの傍へと歩いて来る。
その横に並ぶと、二人して〈信仰神〉へと見入った。
奇異なる〈神〉である。
真に奇妙な容貌の〈神〉であった。
隆々とした筋肉美に、狼の頭部──しかも、獅子の鬣が憤怒に逆立っている。下半身は直立した虎であり、背中に大きく生えるのは蝙蝠の翼、宙を踊る尻尾は蛇。
威嚇を吠える獣相で、足蹴に〈悪魔〉を踏みつけている。
正直、ジュリザにしても禍々しい印象は拭えなかった。
さりながら、本心は自戒に呑み込んでいた。
それを口にするという事は、信仰心の否定に繋がってしまう。
その行為は自分自身の否定と同義だ。
とかく〈宗教〉とは、そういうものである。
「大いなる〈モロゥズ神〉は、闇暦に降臨された〝新たなる神〟にして〝強き神〟です」
ややあって語りだすマザー・フローレンス。
まるで己の心象を見透かされたかのようなタイミングに、ジュリザは内心ドキリとした。
しかし、それでも質問を呈したのは、心の何処かで好機を感じたからであろうか。
「〈獣神〉と呼ばれる御方ですか?」
「ええ。その風貌が〈獣〉である事は、実質的な〝力〟が備わっている事の証です。この闇暦では、理念や理想だけで美徳を貫く事は不可能。確固と顕示するには〝力〟が不可欠。ですから〝力無き神〟は旧暦の流れに消え去り、こうして〝力有る神〟が降臨なされた」
新興宗教〈モロゥズ教〉──闇暦時代に発足された一神教である。
そもそも〈怪物〉が現実に顕現した闇暦に於いて、古今東西の神仏宗教は求信力を失った。
明日の生死すら定かにない現世魔界には、邂逅すら不確かな〈神〉など意味を為さない偶像だ。
だがしかし〝絶対的な救済力〟へと依存するのも、また人間の性ではある。
人間の〝心〟というものは、それほど強くない。
残酷な現実を前に〈神〉を偶像盲信と唾棄しようとも、その一方で救済や免罪が無ければ希望に心を保てない。
だから〈宗教〉は求められる。
矛盾していない矛盾であった。
「アントニオは……」 神像へと傾視を注ぐジュリザは、思い詰めたかのように暗い声音を紡ぎだした。「……アントニオは、まだ二歳でした。ヤンチャでしたが明るい子で、おおらかによく笑う子でした」
熱く込み上げてくる悲嘆を押し殺そうと、心が苦しみ足掻く!
だが、抗えば抗うほど激情はうねりを昂らせる!
「衣服しか残っていなかった! 破れ裂かれた衣服しか! 後は、周囲に散乱した夥しい血痕のみ! 肉片ひとつ残っていなかった! 面影の片鱗すらも!」
「貴女には、よくなついてましたね?」
「……はい」
マザーの穏やかな抑揚に、辛うじて平静を取り戻した。
「祈りましょう。あの子の魂の為に。それしかないのです、魂が救われる道は……」
「…………はい」
何故、あの子が死ななければならなかったのか?
何故、あの子が酷い殺され方をされなければならなかったのか?
世を席巻する理不尽──さりとも、それが〈闇暦〉だ。
「アントニオを……召された魂を〈モロゥズ神〉は御救い下さるでしょうか?」
迷い孕む純真なる横顔を優しく見つめ、マザー・フローレンスは希望を説く。
「もちろんですとも。ジュリザ、あの足下を御覧なさい? あの踏みつけられた〈悪魔〉は、闇暦に蔓延る〈怪物〉達の象徴です。即ち〈モロゥズ神〉は、力を以て〈悪〉を裁き、私達〝弱者〟を救済される為に降臨されたのですよ」
「如何なる〈怪物〉をも下されるのですか? あの子を殺した〈呪われた魔獣〉でさえも……」
「ええ。如何なる〈怪物〉であっても、必ずや神罰を下されます」
「嗚呼、モロゥズ様」
深く……深く……祈りへ沈んだ。
威光を噛み締めるように…………。
差し込む月明かりに融け映える白肌──。
繊細な線に形を与えられた清廉──。
溢れる金糸越しに伏せた眼差しが美しい────。
彼女の清廉なる純潔は、マザー・フローレンスにとって何者にも代え難いものであった。
「さあ、もう行きましょうか。今宵は冷えますから……」
マザーに促され、黙想を切り上げる。
並んで退室する際、ジュリザは天井を仰ぎ見た。
ステンドグラスだ。
黒月が発する白い輪光を透過源とし、色とりどりの虹彩を映えさせている。
赤が多い。
蓮獄の情景──。
現在の彼女には、鮮血の赤にも思えた。
「そう言えば〝日本〟の様子は、どうなんです? 確か〝日本〟では、旧暦時代から〈ヨーカー〉とかいう怪物が平然と生息していたんですよね?」
会話の種に尽きたか、シオンが好奇心で質問してきた。
「……〈妖怪〉ね」
醒めて訂正する冴子。
「ああ、それそれ」
「似たり寄ったり……ではあるけれど、西洋諸国よりはマシかもね。そもそも日本人は〈妖怪〉と共存してきた……旧暦時代からね。だから、パワーバランスが逆転しただけ」
「日本人ってのは、旧暦時代から〈怪物〉の奴隷だったんですか?」
「共存よ。根本的だけど、日本と──って言うか〝東洋〟と〝西洋〟だけど──では〈怪異〉の概念が違うのよ。西洋に於いて〈怪物〉は〝排斥悪〟だけど、日本に於ける〈妖怪〉は〝共生存在〟としての側面が色濃い」
「冗談よして下さいよ? 怪物と人間が共存ですって? そんな事が有り得るはずがない。アイツらは〝人間の害敵〟だ。銃弾を浴びせる価値はあっても、同情や共感を寄せる価値はありませんがね?」
「恩恵もくれるわよ?」
「まさか?」
「例えば川に棲む妖怪〈河童〉なんかは矮小な悪戯をする反面、時として〝万能薬〟を授けてくれたり〝水害の危険〟を警告した例がある。山棲の怪〈天狗〉なんかは現世転覆を謀る悪党もいれば、悪しきものから人間を守護してくれる者もいる。他に獣霊である〈妖狐〉なんかは人間に取り憑いて気狂いさせたりもするけど、高位存在〈天狐〉は神格化されていて人間を守護してくれたりもする」
「人間を守るですって? 怪物が?」
「……〈妖怪〉ね」
「どっちでもいいですよ、呼び名なんて」
相手の興醒めを嗅ぎ取り、冴子は講釈を再開した。
「確かに害悪も為すけれど、同時に友好にも興じる。要は私達〝人間〟と同じで、個人の性格に左右されるのよ。日本人にとって〝隣人〟なのよね、彼等〈妖怪〉は」
「そいつぁ頼もしい味方だ」
この能天気な概念には、さすがのシオンも皮肉たっぷりに首を振る。
冴子にしてみれば、今更な反応だ。
西洋人との感覚差は、もう慣れた。
同時に思うのだ──いつから西洋人は〈自然神〉への畏敬を失ったのだろう……と。
(そもそも〈妖怪〉とは〈精霊崇拝〉の具象化なんだけどね)
〈精霊崇拝〉──森羅万象のあらゆる物には〈霊魂〉が宿り、その恩恵と実害の狭間にて我々は生かされていると考える信仰概念。
その尊大なる影響力へ畏敬を抱いて崇め奉る鎮魂概念が〈精霊崇拝〉の根だ。
(そして、それは〝日本〟に限った話ではない。いえ、なかったと言うべきかしらね)
確かに〝日本人〟は、そうした概念への依存が顕著ではあるが、かつては西洋文化とて同じであった。
大いなる自然の猛威を畏れ、豊かな恩恵には感謝の念を抱き、そうした両極端な性質を同一の存在として神格化したものだ。
しかし、旧暦史実に於ける〝一神教の布教活動〟が、そうした〝曖昧な異神〟の存在を許さなかった。
斯くして、それらは〈邪教〉のレッテルを貼られて矮小化し、減衰した求信力と共に心中の運命を辿ったのである。
また等しく冴子は思うのだ。
(おそらくアメリカを始めとした先進国では〈科学〉という新たな唯物論信仰が拍車を掛けていた背景も大きく影響しているんでしょうね。その証拠に文明洗礼の影響が薄い牧歌的地域では、脈々と土着神が息づいている。そして、それは〝日本人〟の〈精霊崇拝〉とまったく同じもの……)
軽く刻んだ夢想から現実へと返ると、冴子はミントタブレットを一粒含んで確認した。
「ところで、シオン?」
「何です?」
「本当に着くの?」
「…………」
操縦士は、急に押し黙る。
何故、冴子は「どれくらいで着くの?」と訊かなかったのか?
それを推察すると、シオンは腹立たしさすら覚えるのであった。
「心配せずとも着きますよ……ニューヨークには」
「〝州〟じゃなくて〝市〟を御願いしたんだけど?」
後頭部にチャキリと向けられる金属音。
銃口だ。
視認せずとも判る。
「……危ないですよ」
深刻な声色に警告するも、彼に焦燥の色は見られない。
まるで想定内のアクシデントといったかのように落ち着き払っている。
「どのみち墜ちる」
背後に立つ冴子は、動ぜずに標的の後頭部を睨み据え続けた。
「いつから?」
シオンの沈着な訊い掛け。
冴子も冷静を以て答える。
「目覚めてから」
「上手く演っていたと思っていましたが?」
「あなた、口臭が臭いのよ。喋るとね」
「フッ……ひどい言い種だな」はたと思い当たった。「もしかして、だから香水ですか?」
「鼻に突いたのよ。微かな血臭が……それに生臭い獣臭もね」
「成程……本番直前に欲は出すものじゃないな」
「いつから?」
今度は冴子が同じ質問を向ける。
無論、異なる意味合いだ。
しかし、それをシオンは理解していた。
「一回、中継施設へ着陸したんですよ……給油にね。御気付きにならなかった?」
「私が仮眠している時?」
「ええ」
「その際に喰った……と」
早い話、その着陸時に本物の操縦士は襲われ、そして人知れず喰われた。
後はシャアシャアと〈怪物〉が入れ替わっていたワケだ。
「本当に喰いたかったのは、貴女だったんですがね」
「悪趣味ね。無抵抗な乙女を襲おうなんて」
「乙女は脳天に銃口なんて向けませんよ」
「襲えなかったでしょう?」
「ええ、何故か」
「……〈犬神〉」
「何ですって?」
「私を守護してくれている。あなたが襲えなかったのは、私が無防備な時には結界と化して威嚇してくれているから」
「ああ、さっきの〈ヨーカー〉とかいう腑抜け共ですか」
「……〈妖怪〉ね」
ガクンと機内が揺れた!
何喰わぬ顔で高度を上げる暴挙に出たからだ!
「クッ!」
体勢を崩された冴子は、後方へと尻餅に沈む!
乱暴に機首を上げられたのでは、立ち堪える事など出来ようはずもない!
「小細工を!」
すぐさま立て直そうと身を足掻くも、操縦席では既に変身が始まっていた!
メキメキと骨肉が軋む音を隠らせ、体毛生やしに膨れ上がる!
フロントガラスから射す月明かりの逆光に、山が隆起していく様を演出した!
「満月でもなしに!」
発砲!
が、しかし、今度は大きな横揺れに弄ばれ、瞬間に照準が反れる!
意図的に操縦幹を横弾きにした妨害工作であった!
横崩しに投げ倒される冴子!
無駄弾がフロントガラスを貫く!
敵は無傷だ!
そして、先程まで〝人間〟であった男は、僅か数秒で〈獣〉と化した!
狭い操縦席を埋めるかのように、前屈みの猫背にてどうにか収まっている巨躯!
のそりとした重い動きに、獲物へと身を向ける!
腹立たしさも露骨に冴子は獣を視認した。
「狼男……か」
「満月でもなしに……か? クックックッ……必要無いんだよ、この〈闇暦〉ではな! 何せ〈黒月〉が在る!」
「魔力で変身するって? 便利な世界になったものね」
無様に伏した体勢ながらも、毅然とした敵意に向け据えられる銃口!
然れど、獣人が畏縮する様子は無い。
絶対的な優位性に酔うかの如く、眼前で這い崩れる艶かしさに舌嘗めずりを示していた。
繊細に括れる女体は、恰も大皿に盛られた上質の馳走。タイトスカートからスラリと生える肉感が、かぶりつきたくなる程の魅惑を扇情する。
両者の間を邪魔立てる操縦シートを鷲掴みに引き抜くと、進路障害の塵とばかりに機外へと投げ捨てた!
それは側面ハッチをブチ破り、遥か眼下の海面へと沈む。
耳障りに破水音が狂騒するのは、はたして海妖達が好奇心に群がって来たからであろう。別段、興味は無い。
魔獣の関心は、この愛らしい贄だけだ。
ズシリと体重が乗った一歩を踏み刻んだ。
さて、どのように嬲り喰らおうか?
機体上昇は、この展開を楽しむ為でもある。
落下までは宴の時間だ。
更に一歩。
冴子は軽い焦燥を噛みながらも、冷静に状況を把握した。
煽り入る暴風がうざったい──その煩わしさに誘われるまま、大口開けた機体側面を一瞥する。
(気は進まないけどね……下手したら一蓮托生だし)
すぐさま正面へと注視を戻した。
見定めるのは獣人ではない。
その背後に見えるものだ。
更に踏み込む人狼!
無力に床這いの体勢ながらも、冴子は銃口を構える!
「無駄だ! 普通の銃弾如きで〈獣人〉が死ぬか!」
「……うん、よ~く知ってるわよ」
構わずに弾かせる閃光!
銃声の三連奏!
連発であった!
が、弾丸は狼男の脇腹を掠めて滑り抜ける!
喜悦に牙が覗いた。
「ヘタクソが!」
不充分な体勢で放った銃撃だ。当たらぬも不思議ではない──と言いたいところだが、至近に立ちはだかる巨躯を眼前にして、この結果は御粗末過ぎる。ズブの素人もいいところだ。
「所詮、女如きが実践射撃をこなせるかよ!」
獣人シオンが侮蔑の嘲笑に浸ろうかという瞬間、予期せずして機体が大きく暴れた!
「な……何ィ? うおおおっ?」
強い横回転が荒れ狂う!
まるで暴れ馬の胎内だ!
「生憎だけど、あなたを狙ったワケじゃないの」
「な……何ィ?」
では、狙いは何であったのか?
肩越しの獣眼が見定めたのは、本機の操縦幹!
それが不自然にも傾斜に固定されている!
不可解な事象ながらも、シオンは〝何〟が生じていたかを瞬間的に察した!
「テメェ? 最初からアレを?」
「うん、弾いて止めた☆ 」
軽く茶目っ気でおどける愛顔。
つまりは、こういう事だ──最初の二発で操縦幹を直撃に傾かせ、三発目は根本へ楔として撃ち込み固定した!
その機転と腕前に、微々たる慄然が獣にチリつく!
(コ……コイツは〝ズブの素人〟なんかじゃない! 寧ろ、逆だ! 実戦経験に培われたエキスパートだ!)
制御皆無に暴れ狂う閉鎖空間!
巨大な暴力に保ち堪えようと、シオンは体幹バランスを模索する!
中腰に膝を落とした瞬間を、冴子は見逃さなかった!
スライディング紛いの床滑りで一気に間合いへ飛び込むと、間髪入れずに膝裏へ美脚を叩き込む!
「ぐぁ! テ……テメェ?」
獣人が動揺を孕んだ次の瞬間、更に渾身の両脚蹴りで獣体を跳ね飛ばした!
ブリッジジャンプの要領で至近から放つリバースキックは、彼女の全体重を加味した大砲弾である!
力業の奇襲とはいえ、繊細な肢体で魔獣の体躯を吹っ飛ばすには充分だ!
「グアッ!」
後方ベクトルに圧され、足裏が地を離れる感触!
宙を舞う!
眼下に拓けた黒い海面!
蹴り出されたのだ!
大口開いた側面ハッチから!
刹那、脳が危険信号を迸らせた!
即座に対応せねば……落ちる!
海妖達の贄だ!
「クッ!」
機内縁に鋭爪を咬ませる!
寸でのところで踏み留まった!
とはいえ、宙空吊るしの晒し者だ。
無様ではある。
腕力任せに這い上がろうとするも、それを実践させじと刺客が立ちはだかった。
夜神冴子だ。
煽りに見えるタイトスカートからの脚線美は、やはり扇情的肉感であった。迂闊に見惚れれば、状況すら失念させてしまう。場違いな情欲が口惜しい。
向けられる銃口。
斯くして戦況は、力関係の逆転を決定的に強いた。
「背後は誰? やはり〈牙爪獣群〉とかいう勢力?」
「言うと思うか!」
威嚇発砲!
肉食の顔脇を掠め、僅かな獣毛が弾けた!
「フッ……フフッ……だから何だって言うんだ! 普通の銃弾如きで──」
「──〈ルナコート〉」
「な……何?」
「この銃の名前──そして、名前の由来となった性質」
銃声が獣の左肩を射抜く!
「グアッ!」
走る激痛に、堪らず縁から手を放した!
(ダメージ? この俺が……不死身の獣人が? あり得ない!)
得てして〈獣人〉は高い生命力を内包する。
それに起因する再生能力も……だ。
それらは生物学に準拠した性質ではなく、人知範疇外の〈魔力〉に起因するものであった。
だからこそ〝通常の銃器〟では殺せない!
よほどの代物ならばダメージを負わせられるかもしれないが、所詮、それすらも一過性。
並の銃器による射撃など、蜂に刺された程度のダメージに過ぎない。仮にマシンガンで五体バラバラに吹き飛ばされようと、肉片は繋がり再生する。
それが〈魔〉たる特性だ!
にも拘わらず、この女の銀銃は〝痛み〟を植え付けた!
不死身の獣人たる自分に……だ!
が、真に驚愕すべき現実は、そこではない!
「回復しない?」
「銀弾だからね」
「なっ?」
血の気が引いた!
彼等〈獣人〉にとって致命的な切り札だ!
唯一、不死身の肉体を殺せる武器だ!
「普通の銃弾を装填しても、発砲時には〈純銀〉へと自動コーティングされるのよ。砲身通過の段階でね。つまりコイツが放つのは、常に〈銀弾〉ってワケ。弾丸さえ有れば、それでいい」
「そ……そんな超科学を〝人間〟風情が?」
「科学じゃないわ。錬金術よ」
現状になって、ようやくシオンは理解した。
何故、たかだか人間の女如きが過剰に警戒視されているのか!
何故、こんな小娘が〈怪物〉から忌避されているのか!
闇暦の都市伝説〈怪物抹殺者・夜神冴子〉──コイツは〈天敵〉なのだ!
殊に、彼のような〈獣人〉にとって!
ともすれば、それはそのまま〈牙爪獣群〉の天敵という事でもある。
「ちなみに、私の残弾数は二〇発……アンタをベニヤ板にしても御釣りが来る」
非情が改めて銃口を定め直した。
今度は眉間だ!
「ま……待て! 待ってくれ!」
「言う気になった?」
愛らしい温顔が、腹立たしい自信の裏打ちをにっこりと傾げる。
まったく厄介な死神が来てくれたものだ。
「ア……アンタを襲撃するように指令を受けた! 〈牙爪獣群〉だ! 俺は末端に過ぎない!」
「私が渡米するのを察知した? 耳聡いわね。で、だから事前に始末しよう……ってトコ?」
「あ……ああ。闇暦に名を馳せた〈怪物抹殺者〉が領地へ来訪するとなれば、さすがに〈領主〉にしてみれば看過できない」
「……要らない有名税ね」
冴子が軽く思考を刻んだ瞬間を、狡猾は見逃さなかった!
好機!
艶かしい色香に生えた美脚を、粗暴な獣掌が鷲掴む!
「ちょっ?」
沸いた慄然を押し殺した冴子は、すかさずハッチ縁の鉄手摺へとしがみついた!
女の華奢さで耐え凌ぐには、全身でしがみつくしかない!
と、いう事は……銃口を向ける体勢にはいられないという事だ!
「放せっての! このスケベ!」
「銃を捨てろ! 然もなきゃ一緒に落ちるか! ああッ?」
「こ……ンの!」
渾身に身を寄せて引き落とされないように踏ん張る!
巨躯の全体重に野外放置の引力が加わり、その重石は冴子の肢体には酷な拷問と化した!
おまけに横荒れに狂喜するヘリの慣性が、無慈悲にして無責任な暴力と乱れ狂う!
正直、下半身から千切られるかとさえ思えた!
「戌守さまッ!」
妖名を吠えた!
途端、呼応に不可視が空間を躍り舞う!
そう、不可視だ!
視認出来ない存在だ!
しかし、確実にいる!
(な……何だ!)
鋭敏に感じ取る狼男!
野性の直感が警鐘していた!
空気中に示される力強さは獲物を捜すかのように流動を狂う!
そして、ややあって己が襲うべき〈敵〉を感知した!
勢いが外へ飛び出す!
ゾクリとした感触を背筋に咬みながらも、獣人には正体を見極める事が叶わない!
(だが、いる! そして、来る!)
確信に怯えた直後、隆々とした背中が切り裂かれた!
それが〈爪〉によるものか〈牙〉によるものかは定かにない!
「グァァァッ!」
赤飛沫の苦悶に悲鳴を吠えた!
その僅かな力の乱れに、冴子は脚を引き剥がして体勢を整え直す!
構える銃口!
狙いを据えるは、邪な獣眼の間に拓いた部位!
「コレ、キャンセル代ね」
破裂音に非情の閃火が花開く!
「ガッ?」
眉間に穿たれた穴から赤と脳脂が散った!
その刹那、ようやく狼男には見えた──夜神冴子の傍らに憑き従う〈妖怪〉の姿が!
(な……何故だ?)
それは冴子の腰丈程もある大きさで、幽鬼の如く透き通った白き〈狼〉であった。
何故〝人間〟などに加担するのか?
それも、己と同じ〈狼〉が!
到底納得できない不服を辞世に、遥か数十メートルの眼下へと落下していく。
黒い海面が潮の白を激しい撹拌に暴れさせていた。
とは言え、海面へ呑まれるまでもなく〈獣人〉は消えた。
一呑みで喰われたのだから……大きな潮騒を轟かせて跳ね上がってきた〈怪物鮫〉に。
冴子にしてみれば、些か寝覚めの悪い餌付け体験となった。
「さて……と」
強引且つ淡白に気持ちを切り替えると、冴子は暴れ狂う操縦幹へと振り向き直る。
そして、淡い苦笑いを楽観的に浮かべるのであった。
「どうやって墜落しようか?」
呆れたかのような嘆息を吐く霊獣の姿は、然れども冴子には見えていない。
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