獣吼の咎者:~第二幕~獣達の挽歌 Chapter.7
「ハァァァーーーーッ!」
地表擦れ擦れの滑空に迫り来る雷鳥!
その拳は電塊と繰り出され、野人の巨躯へと叩き込まれる!
「カハッ!」
腹筋を蝕む鈍さと、脳天までを貫く鋭敏!
拳の重さに乗せた雷撃の飽食が総ての感覚を殺し、白の鞭打ちを全身痛覚へと刻みつける!
刹那の拷問を堪えると、トレイシーはギロリと眼下の小娘へと狙いを定めた!
腹部へと潜り込んだラリィガは、攻撃の余韻に埋もれたまま──まだ間合い!
頭上に振り上げた両手を、筋肉の槌と組み固める!
「くたばれーーーーッ!」
振り下ろされるハンドハンマー!
隆々たる巨腕が生み出す破壊力は絶大!
足下のタイル床は粉砕の隆起に石礫を飛沫と噴き、無秩序のミニチュアへと姿を変える!
「いない?」
瞬時に悟る違和感!
標的の翼は、既にそこにはいない!
「チィ! またか!」
先刻から翻弄に惑わす機動力──地上に於いては〈獣精〉の俊敏さに離脱し、距離を置けば〈雷鳥〉の翼にて飛翔する。この二面性は、攻撃に転じても厄介であった。
「やりにくいんだよなぁ……」
声の出所を追えば、雷鳥獣姫は柱の上部へと畏まっていた。
まるで柱の側面を大地のように踏み締めていられるのは〈獣精〉の獣化によって足爪を引っ掻けているからであろうか……或いは〈雷鳥〉の為せる技であろうか。
「よっ……と!」
慣れたものとばかりに飛び降りるラリィガ。
「この部屋……だだっ広い方なんだろうけど、飛ぶには狭すぎるんだよね」
気負わぬ肩揉みに愚痴る。
先の戦闘に於ける劣勢が嘘であったかのように、ダコタの小娘からは自信しか伝わってこない。
いや、それはその通りなのだろう。
事実〈二重憑霊〉とかいう現形態になってから、苦戦を強いられているのはトレイシーの方なのだから。
「……小娘が!」
野人の原始が忌々しさに睨め付ける。
その暴力的視線にも臆せず、ラリィガは涼しい態度で訊ねた。
「に、しても……なかなか、たいした〈変身〉だよな。アタシの現形態を相手取って無事でいられたヤツなんて、これまでいない……必ず敵を仕止める〝必殺の姿〟だ。にも拘わらず、雷撃も拳撃も喰らっていながら堪えていない。どれだけ肉体を強靭化できたんだ?」
「そうでもない……ダメージは、しっかりと喰らっている。ただ〝肉体強化〟が、並の〈怪物〉を上回っているだけだ。それも当然──この魔薬〈スティーヴンソンの涙〉は、元来『闇暦の〈怪物〉共を駆逐するべく作られた』のだからな」
「うん? じゃあ、何で〈牙爪獣群〉に居座ってんだ?」
「クックックッ……作られたからと言って、馬鹿正直に準ずる必要もないだろう」
「ふぅん? 要するに『力に溺れた』って?」
「力は使う為に有る!」
「だよな」軽いストレッチに上半身をほぐす。「けど……使い方を間違ってるよ、アンタ」
「……何?」
そして、ラリィガは毅然とした瞳で正視し、迷い無く断言するのであった。
「冴子の方が、よっぽど正しい」
「ふざけるな! あのような小娘如きが! 所詮は自己満足な偽善! 『正義の味方ごっこ』だ!」
「正義の味方……ねぇ?」と、軽くしらける。「アイツは、そんな上等なモンじゃないよ。いつも自分本意だし、無計画無鉄砲だし、ヘラヘラとチャラけたごまかしで心を開かないし、平気で他人を利用するし……アタシなんか何回利用されたか……ああ、もう! 思い出したら腹立ってきた!」
「何を言っている?」
「けどさ、アイツは未来を護ろうとしている……護りたくて仕方ないんだよ、きっと」
「だから、何を言っている!」
「アイツは〈正義の味方〉なんかじゃない……どこまでいっても〝人間〟なんだよ」
「人間……だと?」要領を得ない主張に呆気としたものの、ややあってトレイシーは吹き笑っていた。「プッ……クックックッ……これは滑稽な道化話だ。闇暦の都市伝説──冷酷非情な怪物抹殺者──その〝夜神冴子〟の着地点が、たかが〝人間〟止まりだとはな!」
「何か、おかしいか?」
「あれだけの悪名と実績……改心に望めば、受け入れる勢力は数多あるだろうに? 例えば、この〈牙爪獣群〉とかな? いや、無理か? アイツは〈変身〉出来んからな。そう考えれば、俺はラッキーだったよ……グフフフ」
「望まないよ、アイツは」
「社会的弱者を見捨てられない……か? 結局は〝女〟特有の浅はかな情か? 慈愛とか言う? クフフフフフ……アーハッハッハッ!」
「ま、捨てちまったアンタには分からないか」
「ッ!」
──この〈魔法薬〉が完成すれば、人々を救える事ができる……この〈闇暦〉で苦しむ人々を。
黙れ! 愚かなる師よ!
これだけの〈力〉を、不毛に腐らせて何とする!
俺の生き様こそが正しい!
俺が正しいのだ!
「少なくともアタシは信じてる……冴子の真っ直ぐさな性根も……拈れた根性も……もがき苦しむ弱さも……どうしようもないぐらいに、アイツは〝人間〟だ! 覆そうと足掻く強さもな!」
力強い気高さを活力と変え、ラリィガは低姿勢に腰を落とした!
脇腹へと握り固めた拳が、雷撃の種火を生み始める!
「過去が見えぬか! 歴史の立証を!」
憤怒とも拒絶とも取れる気迫を滾らせる巨体野人!
「強化侵食!」
憤怒の如き叫びを決意の宣誓として、己が首筋に〈スティーブンソンの涙〉を注射する!
二本!
「な……何ィ?」
ラリィガの動揺も余所に、巨躯は更に膨れ上がる!
隆起する筋肉は密度を軋ませ、骨はそれに抗おうと強度を増していく!
「ガァァァアアアアアッ!」
怒髪天の威嚇が、周囲一帯の気流を乱し荒らす!
奥の手!
禁断の秘策!
魔薬に含まれる興奮物質と筋肉増強成分を過剰摂取し、一過的に肉体強化効果を極限まで上げた!
体内流動に荒れ狂う衝動は、正に〝魔薬の侵食〟である!
否〝破壊衝動の侵食〟である!
「光栄に思え、ダコタの小娘! 理論上は煮詰めていたが、実践は貴様が初めてだ!」
「最後の手段……って? 大丈夫か? そんな無理して?」
「我が師の基礎理論は〝アドレナリンの過剰分泌こそが潜在筋力のリミッターを解除する〟というものだった。では、その〈アドレナリン〉を過剰分泌させるものは何だ? 答は〈悪徳〉だ! 欲望への従順と高揚こそが〈アドレナリン〉を過剰に分泌させる!」
「難しい事は、アタシにゃ解んないよ……ただ、要は溺れたんだろ?」
「グフフフ……クソの役にも立たぬ倫理概念など要らぬ! 委ねようぞ! 悪心に!」
「ま、どっちでもいいさ」
深い睨め付けに物怖じもせず、ラリィガは自然体だ。
そして、静かな臨戦態勢が構えあう。
どちらともなく両者は覚悟を定めていた──次の一撃でケリをつけると!
「アタシ達が見据えているのは、未来だァァァーーーーーッ!」
「ほざくなぁぁぁーーーーッ! 旧暦の亡霊がァァァーーーーッ!」
白光の翼姿が滑り飛ぶ!
筋肉の巨塊が跳躍に地表を蹴り砕く!
拠と背負う対極が雌雄を挑む!
そして、染める白が決着を呑んだ……。
「先生、食事を御持ちしました」
盆膳を運んだトレイシーが呼び掛けるも、樫戸の向こうから反応は返ってこない。
居ないはずがない。
この偏執狂の化学者は、自ら屋外へ出向く事など無い。こちらが健康を気遣って引っ張り出さない限りは、部屋へ引きこもったままの研究三昧なのだから。
だから、居る。
大方、また研究へと集中し過ぎて、周囲への視野が遮蔽されているだけだ。
諦めの溜め息を吐いたトレイシーは「開けますよ」と軽い断りに扉を開く。
そこは雑多な書物が支柱と積まれる書斎であった。ただでさえ狭い個室は、文字通り足の踏み場も無い乱雑さを露呈している。
それでも知識の混沌を乱さぬように気を張り詰め、嵩張る樹林を身を捩りつつ拓き進んだ。
はたして奥に据えられた机には、筆記と黙考に勤しむ背中が見える。
「おそらく鍵は〈アドレナリン〉なんだ……それが正常な判断力を阻害して、筋力のリミッター意識を盲目にし……その分泌量……いや、或いは自発的にコントロールする術か──人間の平均的筋肉量から計算するに、それを〈怪物〉の平均値と比較すれば────」
師の背中は、脳内設計図を口に出していた。
弟子の存在には気付きもしていない。
トレイシーの師匠〝フレデリック・スティーブンソン〟は、無名の化学者であった。
そう、無名──。
さりながら、非凡────。
なればこそ、トレイシーも崇敬に従事する。
その才は、錬金術師による勢力組織〈薔薇十字団〉から再三の勧誘があった事でも明らかだ──たかだか時代錯誤な〈錬金術師〉風情が〈近代化学者〉を呑み込もうなどとは片腹痛いが。
奴等の目的は、どうせ現研究だ。
だから、流浪が始まる。
自らの研究に没頭すべく。
イギリス──ドイツ──ロシア──エジプト──海を渡り、アメリカ大陸まで渡った。
うまく消息を揉み消せたのか、以後〈薔薇十字団〉からの接触は無い。
好転だ。
この偉業たる研究ノウハウは、何人であろうとも知られたくはない。
下手に錬金組織に取り入れられれば、目敏く功績を横取りされていたかもしれない。
否、最悪、命すら奪われていたかもしれないだろう。
だから、好都合だ。
斯くして、此処カナダへと流れ着いた現状となる。
矮小な〈怪物〉による徒党が、我が物顔で蹂躙していた。
それが日々小競り合いに凌ぎを削る。
どうでもいい環境騒音だ。
研究に没頭できれば、それでいい。
この研究を逸早く完成させる事さえできれば!
(非凡の才でありながらも名声を欲せず隠匿に徹し、ひたすらに研究へと没頭する熱意……たいした人だ)
心底尊敬に値するストイックさであった。
(そして現研究が完成すれば、もしかしたら〈闇暦〉の構図すら変わるやもしれない……絶対的だったパワーバランスすら)
本当に凄まじい偉業である。
人類史が三度覆される程の偉業である。
仕えてきた歳月が誇らしい。
(そう、この〈魔法薬〉が完成すれば……)
滲み湧き出る黒──。
心中に泥濘し始める黒──。
無自覚な想いに呑まれそうになり、トレイシーは自戒めいて現実へと戻った。
乱れる心情を鎮静化させるべく、窓の外に描かれた常闇の情景へと視線を逃す。
黒月と目が合った。
闇暦とかいう異常世界になって久しい。
悪徳が正義と化す現世魔界だ。
稲光が惨劇の事後を浮かび上がらせる!
絶命の形相に横たわるは、己が師匠フレデリック!
その傍らに佇む巨躯の野人は、件の〈魔法薬〉によって変貌した愛弟子トレイシー自身であった!
その重暗い表情に刻まれるのは、はたして達成感か懺悔か……。
完成した研究成果を歓喜するフレデリックは、耳を疑う発言をした。
「いいかい、トレイシー? 私は、この〈魔法薬〉を〈薔薇十字団〉などに譲渡する気は無い! 無論、その他の勢力にもね! 彼等に受け渡したところで、私欲の為に量産する事は目に見えている──何たって〝不死身の軍隊〟を形成できるのだからね。私は、この〈魔法薬〉を以て〝人々の希望〟を生み出す! そう、闇暦の暴君と乱立した〈怪物〉達に一矢報いる戦士を! 絶望の人生へと虐げられた人々にとって曙となるような──『嗚呼、此処に正義の剣は在るのだ』と思えるような──象徴存在を送り出すのさ!」
「何を言ってるんです! 先生! たった一人の特異存在で、この闇暦世界の社会構図が引っくり返せるとでも? 現実的じゃない! それを成すには数ですよ! さっさと〈薔薇十字団〉辺りに手土産として増産するべきなんです! 先生の待遇だって、決して悪いものじゃないでしょう! 重鎮幹部だって夢じゃない!」
「幹部……ねぇ? 別段、興味は無いよ。それに、君の言う通りさ。たった一人で社会構図なんて引っくり返せやしない……それが現実というものだ」
「だったら!」
「花売り……」
「え?」
「全世界の人類よりも〝路傍の花売り〟なんだよ……私が守りたいものは」そう告げて虚空へと投げる遠い目は、然れど理路整然を帯びた理念を含んでいた。「そして、それは伝播していく……螢火も積もれば輝きを増し、道標を照らすだろうさ」
愚かしい。
実に愚かしい。
これだけの成果を以てして『正義の味方ごっこ』か?
幼稚!
幼稚幼稚幼稚幼稚!
何という幼稚な夢想!
宝の持ち腐れだ!
「残す問題は〝被験者〟だな。ある程度の臨床実験は、私自身で済ませてある……が、完成薬は初めてだ。それに、いざ目的を考えると、やはり身体的に若く、尚且つ運動能力に長けた者がいい……私のようなインドア老害よりもね」
「……私が、やります」
「トレイシー?」
「私が新薬の被験体になります」
「本気で言っているのか? いやいや、待ちたまえ? 私は別に君へと催促したワケじゃない。この新薬は未知数だ。私自身で臨床実験結果を得てはいるが、それは段階的な軽度のもの……完成薬では、その何倍もの数値データが動く。如何なる予想外が起こるか解らない。とても危険な賭けではあるんだ」
「この成果が立証されるなら、我が身の犠牲も厭みません」
「し……しかし?」
「大丈夫、長年付き添った先生を信じていますよ」
「ああ、君という男は……有難う! 当然、君に実害や後遺症が及ばぬよう尽力する!」
「ええ、御願いしますよ……先生?」
歓喜任せに両手を握り締める間、フレデリックは気付くべきであったのだ──愛弟子の瞳が深い闇に魅入られていた事に。
「力は使うためにあるのだ……己の欲求のままに」
野人の低い吐露。
屍は凝視に応えない。
怪力の前には脆い首であった。
「そうだ〈力〉だ! 力力力! 力こそが、闇暦の絶対的正義! この魔法薬が有れば、もう〈怪物〉共に恐々とする日々は無い! 否、寧ろ支配するのだ! この俺が! あの〈怪物〉共を! その下に組伏せられた人間共も、当然、俺の奴隷だ! 嗚呼、そうだ……俺は支配者だ! 支配する側だ! もう〝あの日〟には戻らぬ! 家族を〈怪物〉に殺された日には! これからは、俺が生殺与奪を選べる側なのだ! 〈怪物〉も! 〝人間〟も! 好きに!」
一頻りの興奮を自覚に鎮めると、巨体は卓上の研究書を持ち去るべくのそりと動いた。
軽く目を通す。
「コレさえあれば、俺でも増産は可能だな」
伊達に〝弟子〟に従事していたワケではない。
ふと名称に目を通した。
「フン、何が〈スティーブンソンの涙〉だ……女々しき名よ」
何を嘆く必要があるというのだ?
これだけの〈力〉を創造しておきながら?
「さらばだ、師よ……貴方が心血を注いだ〈魔薬〉は、本来在るべき意義へと還る」
踵を返す岩壁の背は、これから背負う業に悲しみを噛んでいるようにも映るのであった……見送る死人の瞳孔には。
いずれにせよ、数分後には焔が総てを呑み消した……。
またも流転が始まる。
だがしかし、今度は怯え逃げ惑う日々には無い。
思うがままに略奪し、思うがままに踏みにじり、そして殺した。
平等だ。
そこに〈怪物〉だの〝人間〟だのという選定は無い。
総てが等しく〝暴力の贄〟であった。
各地の勢力に睨み追われれば、満足な嘲りに次なる地へと逃走する。
力は思うがままの利己を授けた。
嗚呼、これぞ在るべき姿!
やがてニューヨークは〈ブロンクス〉へと流れ着く。
そこは〈ベート〉なる未知が、支配体制の胎動をしていた。
その支配下に在る大獣群が、我が身の駆除討伐と押し寄せる。
抗うも孤軍は無様に敗れた。
さすがに死を覚悟した。
さりながら彼の稀少性は、どうやら〈ベート〉の眼鏡に叶ったようである。
そして〈ブロンクス領主〉として歓迎された。
徐々に意識が戻ってきた。
「……私は……負けたのか?」
なけなしの気力を零すトレイシー。
大の字に床へと転がっていた。
巨躯は干からび、憔悴が活力を枯渇させている。
その満身創痍が、変身前よりもみすぼらしい印象を演出していた。
「フ……フフ……無様だな」
「でもないさ」気さくな態度のラリィガが、彼の横へと腰を下ろす。「アンタは強かった」
間食の天日干し肉を分けてやった。
「……慰めはいい」
「でも、独りだった」
「独り?」
「アタシには〈シュンカマニトゥ〉や〈ワキンヤン〉がいた。そして、何よりも〝冴子〟がいる」
「俺は……独り?」
嗚呼、俺は何をしていたのだ?
たった独りの愚かさを師へと説教しながら、自身の〈力〉に過信と溺れて……。
「ダコタの小娘、ひとつ教えてくれ……アイツは……夜神冴子は、何の為に戦っている?」
「さあ? アタシにも判らない。根には深い恨み辛みを敷いているみたいだけど、それが何なのかはアタシも知らない」
「そうか……」
「ただ、ひとつだけ確実なのは……アイツは〝目の前の人間〟を放っておけない」
「目の前の……人間?」
「言ったろ? アイツは〈正義の味方〉なんかじゃない。人類がどうたら以前に〝目の前の人間〟なんだよ、アイツは」
師の掲げた理想が、不意に脳内でリフレインした。
(そうか……あの女は……夜神冴子は…………)
かつて唾棄した象徴。
蔑笑に切り捨てた理想像。
そして、師が切望していた存在。
人生を傾けて創造しようとしていた運命の開拓者。
(同じではないか……師が思い描いた姿と)
本来ならば、この〈魔薬〉を以てして、己自身が歩むべきだった宿命。
さりながら、自分が依存したのは〝悪心〟であった。
私欲であった。
その尊厳とは程遠い。
「路傍の花売り……か」
「何だ? それ?」
「いいや、何でもない」
渇いた自嘲が零れた。
それが断裁となったか、止めどなく涙が溢れだす。
(嗚呼、それに引き換え……俺は何をしてきた? これだけの〈力〉を得ながら、俺は何をして生きてきた? どれほどの〈悪徳〉に溺れた? どれほどの〈暴力〉に酔い痴れた? そして……どれだけの〈命〉を奪った? 本来守るべき〝弱者の生〟を……)
歯牙にも掛けていなかった記憶が、脳の底から克明と浮かび映る。
老人を捻り殺した──渾身に子供を叩き棄てた──淀む欲望のままに女を襲った──果敢に刃を向ける男達は豪腕で裂き殺した────。
返り血──鮮血──嗚咽──号泣────。
彩られる黒き赤────。
呪怨であった。
叱責であった。
弾劾であった。
もう一人の〝自分〟からの……。
だから、いつしかトレイシーは泣きじゃくっていた……親に叱られた子供の如く。
「オ……オイ?」
唐突な急転に困惑するラリィガを余所に、ひたすら懺悔の念が吐露される──「ごめんなさい……先生、ごめんなさい……僕が間違っていました……ごめんなさい……」と。
〈呵責衰弱〉──強烈な欲求主導に抑圧鬱積した〈良心〉が、反動のままに一挙表層化する〈魔薬〉の副作用症状。
それが過剰摂取の代償として現れた。
蝕む罪悪感は常人には堪え難い黒き激流であり、身体の枯渇とばかりに生気が色褪せる。
こうした事後展開を見越したからこそ、師・フレデリックは名付けたのである──〈スティーブンソンの涙〉と。
開発者としての贖罪表現であった。
残酷な運命を強いられる被験者への……。
そして、次第に愁訴が抑揚を鎮めていく。
泣き疲れて眠るかのように……。
トレイシーの心臓は、免罪に鼓動を止めた。
亡骸へと淡い憐憫を注ぎ、ラリィガは手向ける。
「泣く事を恐れるな。心が解き放たれ、悲しみから自由になれる──か」
ホピ族の言葉であった。