獣吼の咎者:~第三幕~銀弾吼える! Chapter.3
はぜる音に朱が踊る。
妹が崩れ逝く際に倒した燭台が炎の稚児を生み、それは家屋に嬉々と貪りついた。
貪欲な増殖はあれよあれよという間に育ち、いまや炎龍の鎮座ととぐろを巻く。
朽ち逝く生家──。
燃え盛る参堂──。
滅びの祭宴────。
その渦中に在りながらも、夜神冴子の心は死んでいた。
やがて、慌ただしい足音が襖を殴り開けた。
眼前の殺戮跡に……。
「早く逃げなさい! 火が──」
母である。
大方、火事の危険から妹を逃がしに来たのであろう。
無駄足だ。
「おお……おおぉぉぉ…………」
わなわなと崩れ落ちる。
当然だ。
展開しているのは、夥しい死体の陳列なのだから。
だが、はたしてどちらに悲嘆している?
残酷に希望と命を絶たれた信者達か?
それとも、やはり傀儡か?
「な……何て事を……」ヨロヨロと妹の亡骸へと縋り寄る。「冴子! あなたは何という事を! 自分が何をしたか分かっているの!」
どうやら殺人犯を見定めたようだ。
虚脱に項垂れ沈む死んだ心を……。
「この子が……巫女がいなくなれば、夜神家が滅びる! 滅びてしまう! 先祖代々受け継いだ伝統が! 信仰が! 分かってるの! 冴子!」
ああ、やはりそれか──冴子は薄く笑った。
可笑しかった。
鬼気迫る弾劾を浴びせられるも、それはこの上なく滑稽な下賤舞台でしかない。
「こうなったら……冴子、あなたが継ぐのよ!」
ピクリと細波が動いた。
「そう、あなたが継ぐの! この信仰を! そうすれば、夜神家が絶える事は無い! そうよ! そうだわ!」
「……まだ……続けるというの」
絞り出す歯噛み。
その呟きが母の耳へ届く事は無い。
「あなたは一族で最も霊感が強い! これ以上、理想的な形は無いじゃない! そうよ、この信仰を絶やしてはいけない! この有り難い信仰こそが人々の救済となる──」
銃声!
「ぃぎゃああーー?」
突如として刻まれた激痛に転げ倒れる!
冴子の哀しみは、母の右脚を撃ち抜いていた。
続けて二発目!
左腿を射抜く!
「ひぃぃ!」
これで、もう逃げる事は叶わぬ。
この煉獄からは!
ややあって、ゆらりと立ち上がる。
その挙動は幽鬼よりも悲しく、外界に蠢く死者達よりも虚しい。
だから、ハリー・クラーヴァルは見守った。
これから生じる展開を悟りながらも、介入しないと心に誓う。
これは〈夜神冴子〉自身が決着しなければならない試練と知ればこそ…………。
──〈戌守さま〉……もう、いいよね?
明答は無い。
ただ、傍らに居る温もりは寂しそうであった。
寂しくも受け入れてくれた。
巫女の想いを……。
何か耳障りな雑音が、ひっきりなしに掻き鳴らされ……嗚呼、母の戯言か。
何を言っているのか聞き取れない──聞く気も無い。
所詮は、妹を歪みに潰した共犯者だ。
覇気無き腕が白銀の銃口を向ける。
「……さようなら」
轟く銃声は、はたして冴子の心を再び殺した……。
「罪を……犯しました」
憔悴しきった吐露。
然れど、冴子の自責は独り言ではなかった。
「殺めた事だけじゃない……もっと早く気付くべきだった……あの子の重荷に! 心が壊れる前に!」
徐々に強まっていく感情を、霊獣は慈しみに沈んだ表情で見つめる。
「……宗教や信仰は、両刃の剣だ」穏やかに諭すかのような示唆は、ハリー・クラーヴァルからであった。「正しく在れば、絶望にても人の心を救う強固な添え木となる」
「……解ってる」
「しかし一度在り方を履き違えれば、その者の魂を奈落へと叩き落とす……一生、救いの見えぬ無限地獄へと」
「解ってる!」
激情が零れ溢れた!
「だから何だっての! 結局は全部、私のエゴじゃない! 何が〈正義の味方〉よ! 何が〝自由〟よ! 私が逃げたからじゃない! 全部、私の……私の…………」
滴り落ちる大粒の涙が、座り込んだ床板を濡らす。
その時、不意に聞き慣れた声が追い打ちを浴びせた。
「ああ、そうだな」
ハリー・クラーヴァルではない。
予期せぬ介入者が現れた。
振り向けば、いつの間にか玄関で佇む見慣れた姿。
「織部……さん?」
混乱に見つめる虚瞳を無視して、銜え煙草が惨劇の事後を品定めする。その表情は取引物を確認するかのように淡々としたものであった。
「これだけの贄が手に入れば、まずまずだろう」
「贄? 何を?」
見えぬ〈戌守さま〉が威嚇に唸る。
それを感受したからこそ、漠然ながらに冴子も悟るのだ──彼は悪意だと。
「なるほど……そういう事か」ハリー・クラーヴァルは醒めた観察眼に看破した。「この地に根強い〈戌守信仰〉……ともすれば、信者数も多い。本丸である〈戌守神社〉から発信したならば、此処以外にも〝自殺救済思想〟は広く伝染するはず──そういう算段だろう? 織部刑事?」
紫煙越しの一瞥に、織部は動ぜず肯定する。
「ああ。それにしても、よもや貴様が夜神刑事に肩入れしているとは思わなかったよ」
「どうやら銀銃が選んだようなのでね。放ってもおけなかった」
当の冴子を蚊帳の外に、牽制を交える両者。
「何を……何を言っているの? 何を言っているんです! さっきから!」
「負念はヤツの糧となる」
「……え?」
ヤツ?
誰の事を指している?
「負念が濃ければ濃いほど、ヤツは活性化して勢い付く」
……まさか?
まさか!
まさかまさかまさかまさか!
「黒……霧?」
「正しくは〈ダークエーテル〉──この世ならざる魔界の瘴気だ」
「そ……んな? 織部さんが……黒幕?」
「人聞きの悪い事を言うな。世界を蹂躙する〈ダークエーテル〉は、俺が引き起こしたワケじゃない。起こるべくして起きた──それだけの事だ。そして、お前の妹の凶行もな。もっとも利用はさせてもらったが」
「え?」
「まだ解らないか? 夜神刑事? とっくに歪んでいたんだよ……お前の家系は」
「な……何を?」
深く吐かれた紫煙は、宛ら罪の呪縛か。
「所詮、凡人には〝何〟を崇めているかなど見えはしない。それこそ〝路傍の雑草〟であっても、それらしい祭り上げで秘匿すれば有り難がるものさ。そして、その内に在る信者達は盲信に依存して判断力を放棄する……『嗚呼、自分達は〝特別な存在〟と認められて有り難い事だ』と。安い選民意識の現実逃避だ。カルト宗教が絶えない図式だよ」
「馬鹿にしないで! 〈戌守さま〉は、いる!」
「……だろうな。お前が言うのであれば。俺とて〈見えぬもの〉を否定などしていない。感受出来る者や合理的考察が出来る者は〝いる〟と確信を抱けるだろう。そうした連中は審美眼を見失わず、その上で〈精霊崇拝〉という概念を捉えるからな。だが、多くの凡人は、そうじゃない。口先三寸嘘八百で騙せる」
淀む暗さ──。
胎動する負念──。
信じられなかった……否、信じたくなかった。
まさか苦楽を共にした織部刑事から、このような〝穢れ〟を感受しようとは!
「な……何をしたの? 私の家族に……私達の信仰に!」
「見せただけだ」
簡潔に告げると、最後の一服を味わって放り捨てた。
見せた?
何を?
困惑する冴子の眼前で、織部は告げる。
「知っているか? 満月ではなくても変身はできる……充分な魔力さえ潤えればな!」
意味不明な誇示の直後、彼の体に異変が生じる!
「ガ……ァァァアア!」
野性に呻く吐気!
隆起していく体躯!
逆立ち伸びる体毛!
口は牙を生やして競り出し、爛々とギラつく金眼が獲物を睨み据える!
──獣人!
眼前の相棒は、いまや伝承に在る〈狼男〉そのものであった!
信じ難い現実を目の当たりにして、冴子の思考が止まる!
「織部……さん?」
「なまじい〈犬神〉などを信仰していたからな……実に楽だった。この姿を見せつけただけで、勝手に〈犬神〉の眷族と勘違いしてくれた! 恐々と敬ってくれたよ!」
「接触していたの? 私に気付かれないように……妹に……家族に!」
「ああ。不幸なのは、お前以外の家族は凡人だったという事だ。時間を掛けて思想を浸食すれば、行き着くレールを無自覚に変更させる事も出来る!」
「そして、洗脳した! この卑怯者!」
「お前が継げば、この流れにはならなかったはずだ!」
「──ッ!」
理不尽な叱責に言葉を呑んだ。
負い目を突かれては、返す気丈も陽炎と掻き消える。
刻まれたばかりの傷口へと付け入る狡猾さ──そうと看破しながらも、冴子に抗弁の気力は死ぬ。
現状の彼女に対して、呵責を突く弾劾は無敵の刃であった。
「妹に重荷を負わせて、家族から目を背け、のうのうと自己方便へと逃げた! 何が〈正義の味方〉だ! まったく幼稚な……笑わせる!」
「私の……せい? 私は……私は……」
悄然自失とする冴子。
何が何だか解らなくなってきた。
織部の本性──。
妹の狂気──。
信仰の歪み──。
世界の破滅────。
あまりにも脳内整理を強いる特異情報が多過ぎる。
「もうじき世界は変わる。我等〈怪物〉による新世界が始まる。その為には、より多くの〈ダークエーテル〉を活性化させねばならん。下準備だよ、コレは。来るべき新時代へ手向けた礎だ」
「実に狡猾な戦略だな」
不意に割り込む皮肉は、それまで静聴していた第三者であった。
「ハリー・クラーヴァル……」獣の牙が忌々しさを噛む。「貴様の存在は誤算だった。よもや〈薔薇十字団〉に与する者が介入して来ようとは……。おまけに同胞が次々と狩られた」
「与する……とは心外だな。もはや袂は別った」
向けられる敵意を涼しく流し、ハリー・クラーヴァルは悠々と矢面に進み出た。
夜神冴子を──新たな時代の希望を庇うかのように……。
「本来ならドイツから出る気など無かったよ──私にも為すべき事があるのでね。だが〈ルナコート〉の意思が導いた。そして、君達〈人狼〉の暗躍を知った。放っておけば新世界幕開けと同時に、この地は〈獣人〉の拠点と制圧されてしまう。だから、久々に狩りへと興じさせてもらったのさ」
「偶然にも、我等〈獣人〉の潜伏を知った……か。巧く化けていたと思ったんだがな」
「化けていたさ。事実、夜神冴子嬢は気付いてもいなかった。ただ、君の不運は、私の介入があった事だ。君と同じ〈人外〉の……」
「何?」
「死ねないというのは、永遠の牢獄だよ」
ようやく織部にも思い当たる。
「そうか。魔術秘密結社〈薔薇十字団〉──そして〈永遠の生命〉への探究────オマエは錬金術による〈人造生命体〉というワケか」
反目が牽制し合う。
「始めようか」
ハリー・クラーヴァルは身構えた。
「貴様、武術を?」
「これも来日の目的だよ。即ち〈気〉の習得さ」
超常的な戦闘が繰り広げられた!
ハリー・クラーヴァルの〈気〉が体術に繰り出されれば、狼男の野性が猛りに家屋を破壊する!
炎の躍り舞台は闘技場の熱気とばかりに涌き狂い、両者の攻防を喜悦に堪能した!
足下に転がる死体の放置は、どちらにせよ動き辛い障害だ。
「なん……なの? これは?」呆然と座り込んだまま、事態の認識に戸惑う冴子。「いったい何なのよ! これは!」
あまりにも常軌を逸脱した情報が多過ぎる!
常人の介入を排斥する戦い!
その余地すらも無い死闘!
人外同士による衝突は、あまりにも現実離れした現実であった!
忍び寄るかの如く、炎害がジリジリと彼女に迫る。
然れど、冴子を襲う事は叶わない。
彼女の周囲は、拓けた安全地帯と保護されていた。
霊獣〈戌守〉による結界であった。
その加護に包まれている事を、現状の夜神冴子は自覚出来ていない。
「何故だ! ハリー・クラーヴァル! 何故、あんな小娘へと肩入れする!」
厳つい巨爪が空気を切り裂く!
ハリー・クラーヴァルは滑るかのように後方へ推移し、紙一重の間合いに流した。
「私の意思ではない。錬金銃〈ルナコート〉の意思だ」
「同じ事だ!」
更に来る!
流す!
「アレが邂逅を望んだという事は、彼女は〈希望〉という事だ。来るべき〈闇の時代〉に於いて、君達〈怪物〉へと抗える唯一の〈希望〉──人間達に生きる道標と成り得る魂という事だ」
「あんな凡百な小娘に……何を夢見ている!」
突き伸びる餓爪!
後方跳躍に大きく避わすと、着地の屈伸を突進力へと転化させる!
繰り出されるは、霊気を帯びた手刀!
今度は織部が大きく跳んだ!
後方の欄間へと足の爪を踏み刻み、天井の梁へと左手の爪を刺し刻む!
宛ら、蜘蛛の如く頭上に留まる魔獣!
敵意の熱と涼しい慧眼が、再び反目する。
「彼女は、その心に〈咎〉を刻んだ。生涯を以てしても償いきれぬ〈咎〉を……ね。そして、それを背負って地獄を生きていかねばならぬ」
「……何が言いたい」
「自責──使命──贖罪──憎悪──正義──そして、優しさ────総てが、これからの彼女を築きあげる。その運命を〈ルナコート〉は感じ取った」
「買い被ったものだな……たかが無力な小娘に」
「君の策謀も一役買ったのさ。人類の希望たる〈救世主〉の新生にね」
「底無き闇には微弱な蛍灯だ!」
獣が跳ぶ!
「瞬きは道標となり、大きな輝きと育つ!」
ハリーが迎え討つ!
擦れ違う影!
刻まれる鋭爪と手突!
噴霧に咲く血飛沫!
両者の……だ!
「くっ!」
「チィィ!」
互いの右腕が血肉を裂いた!
「クッフフフ……だが、残念だったな? ハリー・クラーヴァル? 我々〈獣人〉は回復力に長けている」
宣言通り、人狼の傷は塞がり始めていた。
が──「君だけではない」──ハリー・クラーヴァルもまた、同様に驚異的再生を見せつける。
「……〈人造生命体〉か。さすがに〈永遠の生命〉探究に造り出しただけあって〈怪物〉に違いない。その人間的容姿に反して……な」
焦れる獣。
この特性同士では堂々巡りだ。
「生憎、心は〝人間〟のつもりだが? 少なくとも君達よりかは」
「そうか」
掴んだ活路に、ニタリと牙を覗かせた!
「だったら、コレでどうだ!」
野蛮な獣掌が、足下の頭を鷲掴みにする!
無作為に盾と選ばれた死体──それは、夜神冴子の妹!
「……堕ちたものだな」
「どうした? その手刀で俺をブチ抜いてみせろ! 出来ないよなぁ? お前に〝人間の心〟が有るなら!」
「ああ、そうだな」素直に認めながらも、ハリー・クラーヴァルの態度は醒めていた。「だが〝人間の心〟を持つが故に、撃ち抜ける者もいる」
「何を負け惜しみを──」
轟く!
獣に弾劾を刻み付ける銃声が!
「──ガハッ?」
吐血に目を落とせば、腹部からは濁々と血が流れていた。
肩越しに振り向く先には、予期せぬ処刑人がユラリと立っている──忌まわしき銀銃を向けて!
「夜神……冴子?」
信じられなかった!
有り得ないはずであった!
よもや妹への貫通を厭わぬなど!
「……何が〝正義〟かなんて知らない」
伏せた顔が揺れる体幹に踏み出す。
「……〝希望〟だの〝選ばれた〟だのなんて興味も無い」
虚脱に絞り出す声は、然れども固い意思力が込められていた。
「……だけど、ひとつだけ確実な事がある」
「ま……待て」
解けていく獣化に、織部は訴えた。
自発的に戻ったわけではない。
維持できなかったのだ!
はたして、銀弾が及ぼす効力のせいか!
それとも、夜神冴子の呪怨か!
「貴方は……私は……〈大罪人〉だ!」
そして、冴子は迷い無き刑罰を撃ち込んだ!
眼前の織部刑事へと!
「うわあああぁぁぁぁぁあああーーーーーーっ!」
撃つ!
撃つッ!
撃つッッッ!
狂える激情を吐き出す!
己の魂が空になるまで……。
朽ちて逝く。
紅蓮の宴に朽ちて逝く。
盛る喝采の中心で、夜神冴子は死んでいた。
その心は……。
妹を殺した──。
母を殺した──。
同僚を殺した──。
数多くの人々が命を絶つ元凶となっていた────。
ハリー・クラーヴァルによってドイツ・ダルムシュタッドへと保護されたのは、それから暫く経ってからの事である。
世は〈闇暦〉を迎えた。