輪廻の呪后:~終幕~輪廻の呪后
暗黒の空に黒い月が浮かぶ。
黄色い単眼に地上を眺める異形の月が……。
闇暦三〇年──。
ギリシア本国の軍勢は、満を持してエジプトへの侵攻を開始した!
砂漠に繰り広げられる混線模様!
旗頭と猛威を吼えるは、ギリシアの巨獣!
獅子の体に蛇の尾を踊らせる人頭の有翼獣!
畏れよ! その名は〈スフィンクス〉!
金字塔に匹敵する巨体に敵は無し!
その一足を踏み出せば敵味方隔たり無く巨槌と潰し、凪ぎ払う前足は敵兵を砂塵の荒波に砕き散らした!
圧倒的な存在を前に、エジプト勢は抗う手段無し!
もはやギリシア勢の圧勝は確定したかにも思えた!
いや、待て!
なれば、アレは何だ!
同等の巨体を誇る石獣は!
同じく獅子の体に人頭を据えた守護獣は!
嗚呼、讃えよ! その名は〈スフィンクス〉!
やがて砂嵐のヴェールに阻まれた両獣は、因縁を乗せた反目に牽制を交わし合うのであった。
砂塵を上げて走る車影──。
黄色い単眼が見下ろす砂漠に、新たな旅立ちを告げた者達がいた。
背後には英雄と怪物が入り乱れた混戦を繰り広げ、夜闇に聳る金字塔を戦火の朱へと照らし染める。
だがしかし、もはや拘わる事も無いであろう──後部座席のエレン・アルターナは不毛を眺めてそう思う。
「……姉さん」
感傷的な想いが去来する。
だが、前を向かねばならない。
過去の自分を祓うかの如く頭を振ると、抑揚一転に運転席へと声を掛けた。
「あの……ヘラクレスさん?」
「クリスでいい。この姿の時はな」
運転集中に答える粗暴。
「じゃあ、あの……クリスさん? 何故、わたしに?」
「姉貴との約束だ。オマエさん独りじゃ心許なさ過ぎる」
「だけど……」
「何だ? 俺が騎士じゃイヤか?」
「いえ、だけど〈ギリシア勇軍〉は?」
「心配要らねぇよ。そもそも俺は放蕩癖の〝鼻つまみ者〟だ。いまさら居ようが居まいが変わらねぇだろうさ」
そう嘯きながらも、祖父の右往左往を想像すると込み上げてくる可笑しさは噛み殺すに必死だ。
「で? 何か心当りはあるのか?」
「いいえ……それは何も……」
「はぁ? ノープランか?」
「ごめんなさい……けど!」
「けど?」
「必ず何処かにある! 姉さんを元に戻す方法は!」
「根拠は?」
「え……っと──」ふとエレンは思い立ち、らしからぬ小悪魔的な微笑を飾る。「──女の勘じゃダメですか?」
思いがけない懐かしい茶化しに頓狂な顔を浮かべ、ややあってクリスは吹いた──「まったく、オマエ達はホントに〝姉妹〟だな?」と。
「闇暦ですもの。超常的存在は〈呪后〉だけじゃない……きっと何処かに〈呪后〉さえも下せる〈力〉は在るはずです!」
「可能性……あるんだよな?」
「わたしは信じています。世界は広いんですから」
「……上等だ。覚悟だけ聞けりゃあな!」
荒々しく切るハンドルに砂塵が一際歓喜を上げた。
エレンは胸元に強く握り締める。
黄金の羽根を……。
その決意を込めるかのように……。
(姉さん、待っててね……必ず……必ず!)
一途清廉ながらも誇り高い強さ。
それを感受できるからこそ、羽根の中に微睡む〈霊〉は安心に眠るのだ……。
もう心配は要らない。
小鳥は鳥籠から巣立った。
誰の墓かなど感心すら無い。
所詮〝歴史〟など〝未来への礎石〟に過ぎぬ。
肝心なのは、どのように役立つかだ。
そうした意味では、なかなかに理想的ではある──この金字塔は。
外界の戦場が天地を揺るがすほどの喧騒を繰り広げようとも、重厚なる石造りは防音遮断に殺した。
一際大きな喧騒のみは石廊に迷い込んだが、翻弄に彷徨う冒険者の如く微かな反響と堕ちて減衰に絶える。
稀に侵入者自体もいたが、幾重に待ち構える死罠をやり過ごせるものではない。
それらは到底〈王の間〉を脅かすほども無いから、真に根城とするには丁度良い。
彼女〈呪后〉の拠点としては。
松明のみを光源とした室内は仄暗い。
そのか細さを貪欲に照り返すは煌びやかな黄金装飾。
明かりが明かりだけにまばゆさは沈黙したものの、逆に静かな息吹とのみ機能する光沢は不気味な妖しさを孕んでいた。
その中央奥に威風が据える。
玉座──座するは、絶対支配者たる禁忌の女王。
肘着きの黙想に委ね、彼女は今後の在り方を探っていた。
──復活は叶った。
──我が内に力強く盛っていた〝ヴァレリア〟なる魂も、悠久の微睡みへと呑み込まれた。
──もはや我を阻害する枷は何も無い。
下準備は整っている。
ともすれば続けるは、いよいよ本分……世の覇権だ。
清涼の要求に指をスッと上げれば、雑用待機の〈ミイラ男〉がカルカデを差し出した。
──はて、小奴は何者であったか……ああ、そうだ……確か〝アンドリュー〟とかいう名であったか。
──どうでもいい。
──所詮は道具。
──消耗品の代わりなど幾らでもいる。
闇暦──それが彼女の息づくべき新たな時代。
この異形戦乱ならば、持て余す呪力も存分に奮えよう。
興には事欠かさぬ。
然れど、気になる事がある。
星だ。
己を示す宿星が燦然と瞬く分には善い。
だが、それに匹敵する星が幾つか存在するとは如何なる理由なのか?
とりわけ気になるのは、あの紅星だ。
アレだけは己の宿星と同格にさえ輝いている。
使役虫を世界中に送る。
偵察だ。
その目が感知した情報を、己が知覚と共有するべく。
青き星は〝人間〟であった。
霊獣を連れた女であった。
その白銀の銃は如何なる〈怪物〉であろうと下せるだろう。
だが、それだけだ。
然して関心は惹かぬ。
成程、脅威には違いあるまい──並の〈怪物〉であるならば。
さりながら、我は〈呪后〉也。
いつでも潰せる。
緑の巨星は〝死を克服した大女〟であった。
どうやら〈科学〉とやらで生み落とされた生命らしい。
だが、脅威も戦慄も抱かなかった。
成程、警戒は必要であろう──だが、それだけだ。
所詮は〈呪術〉も〈妖力〉も宿さぬ死体。
労せず潰せる。
問題なのは、コイツだ。
紅き光星──根なし草と彷徨する吸血姫。
たかだか〈吸血鬼〉など取るに足らぬ。
無造作に潰すも容易かろう。
だが……コイツに内在する〈力〉は何だ?
何故、我に匹敵する魔力を感じる?
そして、その〈魂〉の強さは何だ?
静かに見開く眼。
黙想を噛み締めて〈輪廻の呪后〉は低く呟く。
「カリナ・ノヴェール……〈孤独の吸血姫〉────」
最大の障害にして、最大の好敵手となる者の名を、闇暦の申し子は強く心へ刻み込むのであった。
そして、ハイビスカスは揺れる……。
琥珀の湖面に…………。
[完]