獣吼の咎者:~第三幕~銀弾吼える! Chapter.4
(私は、死んだの?)
暗闇の仰臥に、彼女の意識は自問自答を投げ掛ける。
長い走馬灯を味わった。
(確か、背後からの奇襲を喰らって……銀銃を構えるのが間に合わなくて……獣の目が爛々と…………)
真っ赤に開いた口腔を思い出してゾッとする!
「獣ッ!」
身の毛もよだつ戦慄に叩き起こされ、夜神冴子は覚醒した!
「ッ!」
左肩の痛みが、不安定な意識を手荒く現実へと投げ飛ばす。
「噛まれた……か。だけど、喰い千切られていない? 何故?」
傷の手当てが施されている。
先の左肩を押さえる形で、包帯が豊かな胸を締め付けていた。まるで〝晒〟だ。
「感染は……するはずもないか」
通常〈人狼〉に噛まれた者は〈獣の呪い〉に感染し、自らも〈人狼〉と化してしまう。
が、それは常人に限った話。
夜神冴子は、こう見えても〈戌守の巫女〉──神力の加護下に在る。
加えて、衣服だ。
ハリー・クラーヴァルの錬金術によって新生したこの衣服は〈魔性依存による感染〉を防いでくれる。
だからこそ〈デッド〉戦に於いても、平然と身を晒せるのだ。
「……何処よ? 此処?」
滲む汗ながらに周囲へ目を滑らせれば、質素ながらも整った生活環境であった。さりながら、かなり香木臭い。
テントであろうか?
民芸的で簡素な造りではあったが……。
その中で寝かされていた。
「……まったく!」
疲労感が吐かせる溜め息に、前髪をクシャと握り締める。
まだ思考が本調子ではない。
再起させる観察力を以て荒げる動悸を調えている間に、入口の布幕が開いた。
「あ、目が覚めたか?」
知った朗々が顔を覗かせる。
「ラリィガ?」
「いやぁ、心配したぜ? それなりに」
「このテント、あなたの?」
「テントっていうか〈ティピー〉だな」
「……ああ」
軽い納得に至った。
つまりは〈インディアン〉の簡易住居だ。
見た目には〈テント〉に酷似しているが、やや民芸的な素朴な造りである。
そもそも〈アメリカン・インディアン〉とは、複数の部族を統括した総称であり、特定の単一民族を指すものではない。
そうした構図故に、一部には〈農耕民族〉から〈狩猟民族〉へと推移した部族もおり、夏期に於いて遊牧民としての生活を基盤と敷いた。
その仮住居としての役割を果たすのが、この〈ティピー〉である。
要するに映画などでステレオタイプの〈インディアン〉として描写される〝あのテント〟だ。
「……何処から持ってきたのよ? こんな大きいの?」
「有り体の材料集めて即興。布と木材さえ有りゃあ何とか作れる。此処は、それには事欠かさないからな」
「……何処よ?」
「フラッシング・メドウズ・コロナ・パーク──身を隠すにも丁度いい」
「……ああ」と、二度目の軽い納得。「私、どうしたんだっけ?」
「血溜まりでぶっ倒れてた。アタシが駆け付けた時にはな。だから〈ワキンヤン〉との憑霊変身で、空から運んだ。有象無象の獣達が群がる下層からは逃げきれないしな」
「そうか……ッ!」
戦慄の記憶が──真っ赤な口腔が、偏頭痛と化して冴子を襲う!
「アイツは!」
「アイツ?」
「私を襲った〈獣〉は──」
興奮の激情を鎮めるのは、あの獣影が身に纏っていた修道衣の襤褸。
──間違いない、アレは。
「……〈獣〉は何処よ」
抑揚は噛み締めに沈む。
「獣ねぇ?」と、薬草を煎じながら、ラリィガは関心薄く答える。「いなかった」
「え?」
「獣どころか人っ子一人いなかった。ただ血溜まりに倒れ込んだオマエ以外は」
(見逃した? 何故?)
芽吹く疑念。
貪るに格好の好機だったはずだ。
確かに冴子が無意識下の際には〈戌守さま〉が結界と化して守護していてくれる。
そして、その際に於ける〈神力〉は、通常時とは比較にならないほど強くなる──冴子自身の霊力も還元されているのであろうが。
だからこそ、多くの〈怪物〉達も、夜神冴子の寝首には易々と手が出せなかったのだ。
が、そうとはしても、あの状況ならば如何様にも殺り方があった事は想像に難くない。
掌中の雛鳥だったのだから……。
それを、何故?
(まさか……)
良心の呵責──。
人間の残り香──。
そう結論付くに時間は要さなかった。
何故なら、普段の〝ジュリザ〟を知っているから……。
その強き博愛を…………。
(けれど、それも時間の問題……このままでは本能に呑まれるまま堕ちる!)
疼く。
堪らなく痛みが疼く。
傷口などではない。
心が!
「ラリィガ! 私は、どのぐらい寝てた!」
「一日半……いや、もうすぐ二日か」
バカが!
何をこの程度で、のうのうと昼寝してんだ!
怪物抹殺者!
──お願い、冴子! アイツを……あの獣を殺して! 貴女にしか殺せない! 〈怪物抹殺者〉である貴女にしか!
脳裏に甦る愁訴。
思えば、あの段階でジュリザは自覚していたのだ……朧気ながらにも。
だとすれば、あの異様な忌避嫌悪も納得できる。
「そうだ! 〈戌守さま〉は!」
ふと気付いた。
常に傍らに居る波動が、何故か微弱になっている。
いつもの力強い波動が感じられない。
まるで憔悴に苦悶しているかのように……。
「〈戌守さま〉?」
「力を疲弊しまくっている」煎じ汁が入った木椀を差し出しつつ、ラリィガが分析を伝える。「おそらく、オマエを守るために惜しみ無く〈神力〉を開放したんだろうな……自分自身の〈存在〉そのものすら消費してまで」
「そんな? 何故……」
「そりゃ、オマエが好きだからだろ?」
「え?」
「その〈戌守さま〉だけじゃない。アタシも、シュンカマニトゥも、ワキンヤンも……オマエが好きなんだよ。だからきっと、アタシだって同じ事をした」
「どうして?」
「ん?」
「どうして、私なんかを!」
「理由要るか? それ?」
歯を見せるインディアン娘。
その屈託の無さが、常に自棄的だったモチベーションを溶かし剥ぐ。
(ああ、そうか……私は──)
意識的に投げていた。
自分は闇暦の不条理に喘ぐ人々の希望〈怪物抹殺者〉だ。
一縷の希望となるべき〝都市伝説〟だ。
そのためには、強くなければならない!
頼られる存在でなければならない!
そして、いつしか失念していた。
誰かを頼るという事を……。
その大切さを……。
(──私は、頼ってもいいんだ)
独りではない。
独りで強く在る必要はない。
心を更迭していた鎖枷の重さが、スッと紙細工のように軽くなった。
だから、自然と口に出せたのであろう。
「御願い、ラリィガ……力を貸して」
「……分かった」
ラリィガは淡い心地好さを含んで頷いた。
事情は知らない。
詳細も知らない。
さりとも夜神冴子の巌とした正視は、それを上回る理由に値した。
車道を爆走するスポーツカー!
運が良かった。
然ほど無駄な時間を掛けずに、機能する投棄車をゲットできたのだから。
(お願い、間にあって!)
逸る焦燥を唇に噛む冴子!
ジュリザは何処へ向かったのか?
その足掛かりは無い。
少なくも〈エンパイアステートビル〉には、もういない。
ラリィガの話では、死に体の自分を放置に転がしていたのだから。
では、何処へ?
ひとつだけ……夜神冴子には、たったひとつだけ有力な判断情報があった。
──最近、夢を……悪夢を見るのです。あの〈獣〉の惨劇……今度は子供達が皆殺しにされていました。
彼女は、そう吐露した。
(アレは悪夢や予知夢なんかじゃない……深層意識が見せた未来像。つまり──願望!)
ハンドルを握る手に力が入る。
曇る眉根が残酷な運命への嫌悪を刻んだ。
(それに、イクトミ。まさか……というか、やはり敵に通じていた。いつから監視されていたのかは判らないものの、少なくとも日本を発つ直前からはヤツに把握されていた。ううん……もしかしたら、それ以前からかもしれない)
だとすれば、大なり小なりシナリオ修正を謀られていた可能性もある。
ヘリコプターでの襲撃は、その一例だろう。
つまりは、そういう展開になるように根回しをされていた。
面白くはない。
手玉と転がされていたのだから。
(だけど、目的は何?)
少なくとも、ラリィガ達は〈牙爪獣群〉を、心底から敵と見定めている。
ともすれば、それはダコタに陣取る〈インディアン勢力〉の総意と見て間違いない。
でなければ、彼女が〈刺客〉と乗り込んで来る流れにはならない。
(金? 買収された裏切り? ううん、そうは思えない。インディアン達が〝白人〟へ抱く不信感は、そんなに安くない……もっと根深いものよ)
フロントガラスから、上空の雷鳥娘をチラリと盗み見る。
(これまでの様子からは、思い詰めた感じなど微塵も窺えなかった。気づいていない……か)
はたして伝えるべきか──冴子は思案した。
が、やはり頃合いを見る事と結論する。
最悪の場合、自分自身が裁いても良い。
無垢な魂に同胞殺しは残酷過ぎる。
(どちらにせよ後回し……現状はジュリザが最優先!)
小者など、いつでも殺せる。
だがしかし、そんな瞬間は訪れないであろう──夜神冴子は、何故かそう感じていた。
無自覚にも〈怪物抹殺者〉としての直感であった。
クイーンズ行政区・ホーリーアベニュー……。
焦れるほどに遠い…………。
教会用務員〝パトリック爺さん〟は、齢八〇歳となる。
雑務が仕事とはいえ、正直、老齢には酷しい。
とはいえ、腰も曲がらず寝たきりにもならずに、こうしてハキハキとした健康を維持できているのだから、その恩恵には感謝している。況して生きていく事自体が逆境となる〈闇暦〉なる世界で、こうして寝食の確保と繋がる仕事へとありつけた。幸運である。感謝こそすれ、不平不服など零そうものなら罰が当たろうというものだ。
スタート地点だった裏庭をゴールとし、パトリックは「う~ん!」と腰を伸ばした。
軽い疲労感の解放と同時に、宿舎を仰ぎ眺める。
「しかし、ワケの分からんイタズラをするもんだ。マザーの指示通り、建物中の窓枠やドア枠が何かの粉やら液体やらでザラザラじゃないか? 普段の清掃よりも手間が増えて仕方なかったわい。どの子のイタズラかは知らんが、きっちりと叱ってもらわんとな」
背後の繁みに潜む生温かな息遣いは、欲望に濡れる瞳で見定めていた。
忍び迫る黒。
その存在に老人が気付くのは、赤の悲鳴を上げる瞬間であった。
教会へと到着した!
逸る気持ちのままに飛び降りると、冴子は一目散と礼拝堂へと駆け出す!
遮る樫戸!
渾身を乗せた美脚が蹴り開ける!
開かれた光景を前に、冴子は愕然とした!
「こ……これは!」
血!
夥しい血!
四方を染め尽くす血痕!
充満する血臭が鼻腔の拒絶を強いる!
無造作に散乱する衣服は剥ぎ裂かれ、その内に包まれていた未成熟な身体は何処にも見当たらなかった!
僅かに血溜まりへ紛れた肉片が、総てを暗に物語る!
「そ……んな?」
呆然自失とした足取りに、堂内へと吸い込まれて行く。
信じ難い……否、信じたくない現実に、冴子の心は慟哭を染めた。
見渡す事後は寂寥の蒼に晩餐の赤を散らし、その陰惨な光景を擬似的な体感に味わせる。
子供達は──無邪気な笑顔は、一人として生き残っていなかった。
「どうやら無理してでも喰らい尽くしたみたいだな……普通なら、いくら何でもこんな飽食はしない」
背後に追い付いたラリィガは、淡々とした口調に分析した。
さりながら、その声音は彼女らしからぬ沈痛を帯びてはいたが……。
「救えなかった……また…………」
「……冴子?」
虚脱に崩れ落ちる膝。
赤いビロードカーペットを悔しさに握り締め、冴子は大粒の涙に吐露する。
「今度こそ護るって誓った! 心を! 魂を! その未来を! だからこそ〈怪物抹殺者〉なんて汚れ役を続けてきた! 辛くても! 苦しくても! 逃げ出したくても!」
「オ……オイ、冴子!」
弱さであった。
これまで心底に封殺し続けてきた〝自分自身〟であった。
「結局、護れてないじゃない! 旧暦から、何も成長していない! ただ〈殺しのテクニック〉を身に付けただけじゃないの!」
狂ったように床を殴り荒れる!
悔しさを……悲しみを……自分への怒りを、その拳へと憑依させて!
「フ……フフ……何が〈怪物抹殺者〉だ……何が〈闇暦の都市伝説〉だ…………こんな物ォォォーーーーッ!」
癇癪に支配されるまま、かぶりを振った!
役立たずの〈銀銃〉を叩きつけんと!
その瞬間、腕を掴み止める力強さ!
ラリィガであった。
「そいつを捨てたら、もうオマエじゃなくなる」
「ッ!」
「……まだ、あるだろ? やるべき事は」
「……ぁ……」
潮と引いていく力……。
揺るぎない意志力を宿す瞳は楔と化し、冴子の心を現実へと繋ぎ止めた。
この救いの無い現世魔界へと……。
教会内を隈無く探索した。
何処もかしこも血の海だ。
血の臭いが立ち込めている。
一人……また一人と遺骸を見つける毎に、冴子の脳内では〈人員ファイル〉へ赤バツが増えていった。
「生存者無し……か」
「だな。片っ端から喰い散らかしている。子供も大人も関係無く」
「そうね」
一人いない。
が、そこは問題では無い。
予想通りだ──腹立たしくはあるが。
だが、おかげで容疑は確信へと推移した。
問題と見据えたのは、何処へ逃げたか……だ。
(のうのうと逃がしゃしないわよ……脳天をブチ抜いてやる! 絶対!)
胸中に荒れ狂う憤怒の炎を閉じ込め、冴子は冷静な考察を続けた。
現状は〈ジュリザ〉だ。
「追うぞ、冴子。コイツは、人肉の飽食を覚えちまった。もう歯止めは利かない。次々に〝人間〟を襲い始める」
「分かってる。けれど、何処へ?」
「それは……」
「手掛かりも足掛かりも無い。かといって、闇雲に行政区を駆け巡ったところで、遭遇できる保証は無い。そうなりゃ時間と労力の浪費。最悪、その擦れ違いのまま他行政区にドロンされる可能性もある」
「だけど、このままじゃ!」
「だから、考える」
「冴子?」
顎線をトントンと刻む指先。
「おそらく、この付近か……或いは、まだ教会内へと潜んでいる」
「何で?」
「時間経過。然程経っていないはず……下手をすれば、半日も」
「何で言える?」
「血……まだ乾ききっていない。それから、厨房。床がビシャビシャだった。アレは寸胴鍋の煮え湯……おそらく襲撃された際に引っくり返した。それが乾かずに残っている」
「どうして調理の煮え湯だって言える?」
「床には、浸した具材が疎らに散乱していた」
「……ああ」
「加えて、腕」
「腕……って、裏庭で見つけた喰い残しか」
「そ。アレは〝用務員のパトリック爺さん〟に間違いない。皺枯れていたもの。この教会に男性老人は、あの爺さんだけ。ついでに言えば、だから喰い残した……肉付き悪くて、食べ応え無いもの」
「グルメ気取りかよ? で、それが?」
「死後硬直ってね、始まるのは凡そ二時間後なの。最初は後頸部や顎──続いて、肩や肘──股と膝──手指──足・踵──って具合に広がっていくのよ」
「ふぅん? それで?」
「切断されている上に末梢部位とはいえ、多少の力を込めれば指を折り曲げる事が出来た。つまりは死後硬直が始まって、然ほど時間は経過していない」
「……もしかして、やったのか?」
「やったわよ?」
サラリと告げるトンでもない肯定に、ラリィガは苦虫顔へと染まる。
同時に思うのだ──コイツ、抜け目が無い。
もっとも冴子にしてみれば、拾える情報は遠慮無く収拾するだけだ。
この闇暦では、別に〈鑑識課〉に義理立てる必要も無いのだから。
「もちろん死後硬直後に筋肉は再び弛緩するから、関節が軟らかくなる現象もある。けれど、先の条件と照らし合わせれば、まだそこまでは経過していない」
「なるほどな」
「アレが、どの程度の駿足かにも依るけれど……少なくとも自動車より速いはずは無い。二時間弱での活動範囲は限られてくる」
「だから、クイーンズ行政区内……か?」
「そ。けれど、それ以上に教会内の可能性が高い──私は、そう見ている。理由は、ふたつ。ひとつは〝満腹〟って事。これだけの飽食をすれば、否が応でも満腹感は生じる──もっとも、これだけでも異常な飢餓感だけどね。となれば、腹ごなしの時間ぐらいは欲するわよ」
「もうひとつは?」
「それは──」
そこまで言い掛けて呑み込んだ。
それは〝ジュリザ〟だからだ。
この教会に……宗教に依存した献身な魂だからだ。
だが、それでも──。
夜神冴子は〈怪物抹殺者〉としての使命を噛み締める。
「──ともかく、まずは教会内を徹底的に洗いたい」
「そうは言っても、これまでに全部回ったろ?」
「それは……そうなんだけど……」
釈然としない思いに黙考を刻んだ。
まだ引き上げてはいけない──直感が警鐘を掻き鳴らしている。
と、その時であった。
──さーこおばたん。
「ッ!」
一瞬にして湖面は乱れた!
「アントニオ?」
「え? 何だって?」
どうやらラリィガには聞こえていない。
──さーこおばたん。
──冴子さん。
いる。
すぐ近くにいる。
アントニオも……アニスも…………。
ならば、迷う必要は無い!
あの子達が導くのならば!
「あ、オイ? 何処へ行こうってんだ?」
フラリと歩き出した冴子に、ラリィガは困惑を向けた。
返事は無い。
宛ら夢遊病者の如く不確かながらも、刻む意志力は確固たるものであった。
愛しい声に誘われるまま、夜神冴子は決着の場へと歩き出した。