獣吼の咎者:~第一幕~潜む牙 Chapter.1
「嗚呼、御待ちしてました! 〈怪物抹殺者〉様!」
「……冴子でいいわ」
感極まって玄関先へ出迎えるシスター・ジュリザに、満身創痍の夜神冴子はフランクな対応を要求した。
ニューヨーク市クイーンズ区画──。
かつては宗教施設の建ち並んだ大通り〈ホーリーアベニュー〉の路地裏に、ひっそりと構えた教会──。
此処へ辿り着くまでに、どれほどの〈デッド〉とやらかしたかは語りたくもない。
普通の人間なら五秒と保たない逆境を、冴子は半日以上孤軍奮闘し、そして生還した。
代償として煤け汚れまくり、ゲンナリと鋭気を憔悴しているが……。
「どこから御話すれば良いのか。私が、この脅威に曝されたのは、もう一年前に──」
「ストップ! ストーップ!」
「はい?」
「ま、細かい話は後で聞くわ。それよりも、とりあえず──」
「は……はい」
真剣味を帯びた〈怪物抹殺者〉の瞳に、シスター・ジュリザは緊張を呑む。
「──濡れタオルくんない?」
これが今回の依頼主〝シスター・ジュリザ〟と怪物抹殺者〝夜神冴子〟の初対面となった。
本来ならシャワーぐらいは浴びたいものだ。
さりながら、闇暦では〈水〉は貴重である──健常体の水は。
魔気〈ダークエーテル〉の浸食力は水さえも汚染した。黒インク宛らに変質した水質は、浴びる程度なら問題無いが、飲食を目的とした生活用水としては機能しなくなる。健常体の水は優先して飲食用途に回さねばならない。
だから、冴子は濡れタオルで我慢した。
樫製の長椅子に腰掛けて顔を拭く。
タオルから覗く正面に祭られているのは、奇妙な異形の獣神像。悪趣味だ。
軽い嫌悪感を好奇心と転化し、改めて室内を展望する。
どうやら礼拝堂であった。
「……獣神崇拝?」
背後に接近した気配に投げ掛ける。
「〈モロゥズ神〉ですよ」
ジュリザの抑揚は穏やかな憂いを感受させた。
「ふ~ん? 〈牙爪獣群〉とやらから強制された?」
「まさか? 宗教は、魂の自由です」
「宗教の自由……ねぇ?」
辟易気味の感情を抱きつつも、冴子は情報分析を巡らせる。
(どうやら〈キリスト教〉からの分派……か)
彼女のような〈修道女〉などという形態を継承している以上、そう捉えた方が自然と思えた。
顔拭きから盗み見るに再認識したが、この修道女は豊かな金髪を実らせている。
(本来、修道女は頭髪を隠さねばならない……ま、それは旧暦の仕来たりだけどね。そもそも、彼女は〈キリスト教徒〉じゃないし……)
しかしながら、こうした踏襲点を鑑みても、どうやら原型は〈カトリック〉に間違いないだろう。
そもそも旧暦時代のクイーンズには、数多くの〈カトリック信仰〉が根付いていた。それらがベースと考えれば不自然ではない。
とはいえ、積年の闇に進化した形態は原型を留めない程に歪んではいる。もはや〝別物〟だ。少なくとも〈モロゥズ神〉などという〈神〉は、古代神にも聞いた事が無い。
と、遅ればせながらジュリザは、冴子の風采に気付いた。
タイトスカートのフォーマルスーツ姿というのは何とも異彩だが、それ以上に気になるのは全身煤けている事だ。
「あの? その御姿は?」
「ん? 墜落した」
「はい?」
「ヘリコプターで」
「はあ……」
平然と返ってくるトンデモ発言に、ジュリザは呆と固まる。状況が呑み込めない。
「ええ?」
ようやく思考が追いつき面食らった。
「つ……墜落って?」
「アリー川にボッチャーン!」
「アリー川って……東のベイサイドじゃないですか! 此処から大きく外れてますよ!」
「おまけに、そこからは無尽蔵なデッドを相手取ったデスレース……ウケる」
自虐ながらに肩を落とす〈怪物抹殺者〉。
そもそもデッド云々以前に、ヘリコプター墜落という大惨事から生き残ったのだ。
それ自体が奇跡である。
暴れ抗う機体を何とか目的地付近に誘導し、その後、わざわざ川面へと乗り捨てた。墜落被害を避けての配慮だ。
着地に際して〈戌守さま〉の力添えを得られたとはいえ、パラシュート無しのスカイダイビングをする羽目になろうとは……人生、何があるか分からない。
「で、適当な投棄車を乗り継いで来た。経年劣化で動かなくなったのもゴロゴロだから、物色だけでも大変」
「単身で此処まで生き残れたと? ですが、防壁外には無数のデッドが群がっているでしょうに?」
「ま、ね。ハイウェイを抜けてクイーンズ市街地へ入ってからは、さすがに防壁が建てられてたけど」
多くの〈領地〉には対デッド用防壁が建造され、その周囲を囲っている。
闇暦に於ける政策の常だ。
そうでもしなければ、デッドの自制無き飽食によって〝人間〟が絶えてしまう。
それは〈怪物〉としても望ましい流れではない。
何故ならば〈怪物〉の糧も、また〝人間〟の存在に依存するからだ。
吸血鬼に対する〝生き血〟や悪霊に対する〝恐怖〟等……形態こそ様々ではあるが、総じて〈怪物〉の糧は〝人間〟という存在に他ならない。
故に〝人間〟を隔離保護する必要があった。
この脆弱種が絶えるという事態は、そのまま〈怪物〉自体をも絶滅させてしまう。
食用を兼用した領民制度である。
もうひとつの理由は、魔気〈ダークエーテル〉の浸食防止だ。
この魔気は不思議な事に〝壁や柵などに囲われた人工領域内には侵入できない〟という性質を宿していた。
これを防止するだけで領地内に於ける〈デッド〉発生を防ぐ事が出来、また仮初めながらも領民の生活心境からは恐々とした鬱積が軽減される。
いずれにせよ〈怪物〉主観のメリット確保に過ぎないが……。
「だから、時にはビルや店舗を渡り繋いで移動した。屋内構造を巧く利用した方が〈デッド〉をやり過ごすには効率がいいしね。無論、いざ襲われても排除する自信はあるけど、無駄弾と労力負担は避けたかった」
「……は……はあ」
あまりのスゴさに閉口した。
斯くも〈怪物抹殺者〉とは、これほどまでに人間離れしていたのか?
噂には聞いていたが、ジュリザの想像を軽く凌駕していた。
「んで? 依頼は『獣退治』でいいのよね?」
ブラウスの胸ポケットからヨレヨレの封筒を出し、冴子はヒラヒラと振り示す。
「無事に届いたのですね、その封筒は」
「死んだけどね、配達人」
「……嗚呼」
悲嘆に染まるジュリザ。
反して、冴子は特に感慨すら抱かない。
闇暦では、いまさらだ。
「ベルゴさんは、本当に今回の件を愁いてらして……」
「ベルゴ?」
「貴女への封筒を届けた方です」
「ああ」と、関心薄い納得。
冴子にしてみれば「それで?」である。
出会い頭には瀕死で、そのまま手紙渡しに息絶えたのだから、単なる〝一見さん〟でしかない。共感に嘆けと言う方が無茶ぶりだ。
もっとも、彼を死へと追いやった〈怪物〉は撃ち殺した。
それだけでも仇花としては充分だろう。
「んで? 獲物の情報は?」
話題を依頼内容へと戻す。
ジュリザは隣席へと腰を下ろすと、粛々とした抑揚に切り出した。
「獣です」
「それは聞いてる。その詳細。単に〈獣〉じゃ、私だって分からないわよ。まさか〈牙爪獣群〉そのものを壊滅しろって言うんじゃないでしょうね? 言っておくけど、私は〈怪物抹殺者〉であって〈革命軍〉じゃない。一国の情勢を覆すなんて出来ないし、何より御免被るわ」
「いいえ、単体です。ですが、それ以上の事は解らないのです」
「は?」
「あの〈獣〉が現れたのは、一年程前に遡ります。最初は、この周辺に徘徊の痕跡を残す程度でした。敷地内に足跡があったり、植え込みに〝獣の毛〟が引っ掛かっていたり……。しかし、此処最近は、子供達を襲い喰らうようになっていったのです」
「子供達?」
言葉の端に、冴子は眉を潜める。
「此処は、孤児や捨て子を保護している養護施設でもあるのです」
「なるほど……ね」
一応は平然とした納得を示すものの、胸中は穏やかにない。
だとすれば、もっとも好かぬケースだ。
「被害者は? 何人ぐらい?」
「先日の児童を入れて、既に八人……」
「目撃情報は?」
「いいえ。常に巧妙で、人知れず……」
「手口」
「子供を誘拐するか、或いは独りとなった瞬間を狙いますね」
「犯行場所」
「礼拝堂や裏庭、植え込み、屋根裏……様々です。時には、子供自身の部屋である事も……」
「いずれにしても、此処の敷地内……ね?」
「ええ」
「警備体制」
「この状態が多発化するようになってからは強化しています。基本、子供達は独りで行動させないようにし、大人達による巡回も行っています……ベルゴさんも、その一人でした」
一頻り欲しい情報を得たのか、冴子は「フム?」と思索を巡らせる。
と、不意に黙考が邪魔立てられた。
「ジュリザ、その方は?」
厳かな声音に振り向けば、入口に修道女が佇んでいた。
長くも艶やかな黒髪だ。
依頼主よりも一回り年上のようである。
すかさず席を立ったジュリザは、畏まった会釈を捧げる。
その様を傍目に、冴子は言わずもして悟るのであった──「ああ、格上の人間ね」と。
「申し訳ありません、マザー・フローレンス! 後程、御挨拶を思っていたのですが……その……あの……こちらの客人は到着したばかりでしたので」
萎縮しまくったジュリザの言い訳。
その傍らで、冴子は含まれている情報を拾った。
(マザー……ねぇ?)
肩書が〝マザー〟という事は、少なくとも指導者か……下手をすれば、このカルト宗教の教祖であろう。
どちらにせよ、ジュリザの上に立つ人物だ。
働く観察眼。
形容するならば、ジュリザもマザー・フローレンスも同じ方向性の美女である。
肌は白く、眼差しは憂いを帯び、鼻筋は繊細に細く、薄い唇は花弁のような魅惑を彩っていた。
が、少なくとも冴子が受ける心象は異なる。
ジュリザの方は健康的な美貌に在ったが、対してマザーは何処となく儚い影を帯びている。年齢による妙……というだけでもないだろう。
(まるでコスモスと月下美人……)
率直な比喩が思い浮かぶ。
対象と観察視が重なった。
値踏みを孕む眼差しに、冴子は砕けた破顔でヒラヒラと掌を振り返す。
「そうでしたか……」と、マザーは伏せる憂いに毒気を希釈した。「御客人、御名前を伺っても宜しいですか?」
「冴子……夜神冴子」
交わす言葉に牽制が織り混ぜられているのは、当人達にしか判らぬであろう。少なくとも、ジュリザは感受していない。
「ようこそ〝ミス・ヨガミ〟……こちらへは何用で?」
「冴子でいいわ」長椅子の背凭れへの弛緩浸りながらに返す。「ま、仕事でね」
「仕事?」
「そ、これでも〈怪物──」「い……行き倒れた方です! 先日、知り合いました!」「──そうそう★ 聞くも涙、語るも涙の……って、ちょっと!」
突っ込んだ。
寝耳に水とばかりに突っ込んだ。
慌てて割り込んだジュリザの方便に。
「そうですか。行き倒れの……」と、マザーの一顧。
あ、通ってしまった……。
「それは、さぞ御困りでしょう」
「いや、あの……」
「はい! とても!」
迷い無く隣から肯定されたし。
「そ……それで、暫くは此処へ置いてもらえないかと御願いされまして……行く宛も無いとの事ですから」
「そうですか……」
マザーからの慈しみ。
いや「そうですか……」じゃない。
勝手に〝不幸な身の上〟が完成されていく……。
もはや〈怪物抹殺者〉の沽券は地に堕ちた。
「マザー、彼女へ暫しの滞在を御容認願えませんか? 誓って、御迷惑は御掛けしませんので……」
「本当は望ましい現状ではありませんが……分かりました、いいでしょう。困窮している方を見捨てるわけにもいきませんから。」
「有難うございます!」
「ですが、ジュリザ? あくまでも〝貴女の客人〟として、もてなすのですよ? 他の者達に迷惑が掛からぬように……」
「はい!」
いや、元気に「はい!」じゃないから。
返せ、私のアイデンティティー。
斯くして、夜神冴子の滞在は容認された。
立ち去るマザー・フローレンス……と、徐に足を止めると、肩越しの美貌が示唆を向ける。
「ミス・サエコ、行き倒れた時に襲われなかったのは幸いでしたわね」
「ああ、デッドに?」
「いいえ、獣に」
「──ッ?」
予想外の過敏ワードを口にされ、一気に警戒心が呼び起こされた!
「この〈ニューヨーク〉は〝獣の巣窟〟……獣人達の狩場ですから」
「〈牙爪獣群〉……ね」
「これも〈モロゥズ神〉の御守護でしょう。貴女にその気があれば、いつでも信徒として迎え入れますよ」
「あ~、ゴメ~ン? 宗教勧誘は間に合ってるから★」
「……そうですか」
「っていうか、既に〈信仰〉を持っているしね」
「……それは?」
「……戌守さま」
マザー・フローレンスが立ち去った後、礼拝堂には再び閑寂が支配した。
「誰が〝行き倒れ〟だって?」
恨みがましい抗議。
ジュリザは申し訳なさそうに消沈する。
「スミマセン……あの場は、ああ取り繕うしか…………」
「秘密って事?」
「……はい」
「ふ~ん? マザーを信用していない……ってトコ?」
「まさか! そんな?」
血相を変えた否定は、そのまま心酔の表れだ。
だから、それ以上の立証は必要ない──冴子の職業病が、そう判断する。
ややあって己の感情が加熱した事を自覚したか、ジュリザは普段の抑揚へと戻って吐露する。
「寧ろ、マザーへ御迷惑を御掛けしたくないのです。それに、子供達に余計な心配を与えたくもない。出来れば、人知れず内密に解決してくれたら……と」
「正体不明の〈正義の味方〉を演じろって?」
「……スミマセン」
軽く皮肉めいた冗談のつもりであったが、ジュリザの反応は思いの外に生真面目であった。
だから冴子は「ま、いいわ」と、それ以上の詮索を止めた。
事情や心持ちは人それぞれだ。
況してやジュリザには〈宗教〉という面倒臭い背景がある。
偏に〝仕事〟の邪魔でなければ構やしない。
それだけでいい。
礼拝堂に繋がる渡り廊下を抜けると寄宿舎が在った。
貧相な木造建築だ。
その一階角の大部屋は、大食堂として使用されていた。
食堂内には長い樫卓が幾つも連なり、奥の厨房ではコックが腹減らしの為に勤しんでいる。
冴子は一番隅の席へと陣取り、頬杖ながらに光景を観察した。
(見渡す限りにガキんちょ……もとい、子供達が支配しているわね)
ザッと二〇人程度。年齢幅は広い。上は一〇代前半といったところか。下は……赤ん坊であった。
幼稚園宛らの喧騒は、元気がいいと言うよりはやかましい。耳障りにやかましい。正直、神経が休まらない。
配膳を受け取り、白いテーブルクロスの上へと供える。それだけの作業に、何故ここまで雑多に盛り上がれるのか。
(いつの時代もガキんちょ……もとい、子供の本質は変わらないって事か)
それもいい。
闇暦以前には日常的な光景こそ、闇暦では貴重な稀有だ。
さりとも──。
(この子達が喰われている……)
静かに沸き立つ激情。
それを平静に抑え、冴子は周囲を観察した。
(壁は薄いモルタル材か……嗅ぎ付けられたら、ひと溜まりも無いわね。芯材に何を使っているかは知らないけど〈怪物〉は疎か〈デッド〉ですら防げやしない)
と、不意に視線を感じた。
気がつけば、いつの間にか傍に幼児が居た。
まだ二歳程度の男の子だ。
不思議そうに冴子の顔を見つめている。
だから、優しい温願に砕けて話し掛けた。
「どうした? ボク?」
「おばたん、だれ?」
ピキィ……と強張る笑顔。
いやいや待て待て、夜神冴子。
悪気は無い……悪気は無いのだ。
こんな子供の無礼に目くじらを立ててどうする?
そうだ、そうとも。
このぐらいの幼児にしてみれば、皆〝おばさん〟だ。
この場合〝おばさん〟は〝おねえちゃん〟と同義だ。
ただ言葉を知らないだけだ。
うん、そうだ。
そう決めた。
「ねえ? おばたん、だれ?」
間髪入れぬ追い討ちに石となる。
「アハハ……お姉ちゃんが気になるか?」
「うん」
「お姉ちゃんはね? 〈怪物抹殺者〉なんだぞぉ? 強いんだぞぉ?」
「う~ん?」
理解してない頭を笑顔で撫でてやった。
渾身にグリグリと。
「……おばたん、いたい」
(コ・ノ・ヤ・ロ・ウ!)
力一割増し。
そんな憤慨を内包に圧し殺した時であった。
「アントニオ、何をやっているの?」
年長組の少女が、クソガキ……もといアントニオを引き取りに来る。
野暮ったい眼鏡とそばかすが特徴的な子であった。内向的な性格は風采と物腰にも汲み取れる。
見た目に、十二~十三歳程度か。
「ごめんなさい、お客さん。この子、好奇心が強くって……」
「アハハ……気にしないでいいのよ~? お姉ちゃん、子供好きだからね~?」
さりげなくアピっておく。
「アイス、おばたん〈もんたーすれた〉」
チョイ待ち、アントニオ!
二ヶ所程ツッコんでおきたい!
「あなた〝アイス〟って言うの?」
「あ、いえ。私の名前は〝アニス〟って言うんですけど、アントニオはまだ言えなくて……」
「あ、そういう事? いや、変わった名前だとは思ったけれど……ねぇ?」
脚の傍らへジロリと視線を戻すと、当の問題児はニコニコニコニコと無垢な笑顔で仰ぎ見ている。
「この子──アントニオは、この教会の礼拝堂に捨てられていた子なんです。だから、母親が恋しいのか……女の人を見ると、いつもこんな感じで……」
「捨て子……か」
ある意味では珍しい。
そして、ある意味では幸運だ。
この闇暦では、親に見限られた子供が生き残る事など、まず無い。
多くは親と共に死ぬか、或いは捨て子とされても生き残れない。警戒心皆無に生命を示せば〈デッド〉か〈怪物〉へのボーナスフードだ。
礼拝堂へ捨て去っただけでも、親の愛情が汲めるというものだろう。
「よかったね~? おまえ~?」
小さな頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
じゃれつかれたのが嬉しかったのか、幼児は満面の笑顔を向けてきた。
ふっくらと軟らかい笑顔。
だから、自然と冴子の母性も微笑みを染めた。
ベッドへと身を休めながらも、冴子の意識は労働を止めなかった。
「獣人……か」
宛がわれた客室は、滞在中、自由に使っていいとの事だ。
気兼ねは要らない。
四畳程度の狭い部屋だが。
壁際のベッドからは小窓が覗け、薄暗くも中庭の様子が観察できた。石畳の路地に区切られるように植え込みが陣取り、四方分岐となる中央部は噴水を据えた広場と整備されている。ベンチも見えた。憩いや遊び場としての用途であろう。
灯りを消した室内には、青暗い寂寥が満ちている。
それが急き立てた。
早く真相を導け……と。
「……不確定要素が多過ぎるなぁ」
正体不明の〈獣〉──子供達を狙う凶行──闇暦では稀有な養護施設──特定できぬ容疑者──怪しげな獣神信仰────頭の中を情報の圧がグルグルと巡る。
そもそも、今回の〈獣〉が〈獣人〉とは限らない。
それに、もうひとつ気になる存在が在る。
「〈牙爪獣群〉……か」
刺客は言っていた──「アンタを襲撃するように指令を受けた!」と。
つまりは〝目を付けられていた〟という事だ。
「こんな生業やってりゃ、そりゃ目の敵にされるけどね」
神出鬼没に闇暦世界を渡り歩き、その地の〈怪物〉を葬り去る〈怪物抹殺者〉──その悪名は〈怪物〉の間では都市伝説と化している。
だから、行く先々は〈敵〉だらけだ。
命を狙った襲撃や狡猾な罠とて初めてではない。
が──「行動を起こす前から警戒を張られていた」──これは初めてのケースであった。
「……本当に無関係なのかなぁ?」
件の〈獣〉と〈獣人の獣群〉──因果関係を疑うには充分過ぎる共通項だ。
現状のところ、断定は出来ないが。
「はてさて、何処から手を着けたものかしらね」
仰向け故、窓には墨色の夜空を覗けた。
浮かぶ黒月が、黄色い単眼で見つめ返している。別段、冴子個人を観察しているわけではないが、巨大な視線は正直落ち着けるものではない。
暫し視線を交わした後、冴子は横臥に背を向けて逃げた。
ふと小さな温もりを思い出す。
「おばたん……か」
人懐こい無邪気な笑顔が、柔らかな誘眠を覚えさせた。
「……お姉ちゃんは強いんだぞ?」
明日からは忙しい。
毎日が勝負だ。
ややあって疲労感から生まれる寝息。
ベッド脇で休んでいた霊獣は、警戒に四足を起こした。
無防備となった彼女を護るべく……。