輪廻の呪后:~第一幕~はじまりの幻夢 Chapter.3
エレン・アルターナが見る幻夢は、日々鮮烈になっていった。
そこが何処なのかは判らない。
闇だ。
何も無い虚無だ。
見渡す限り染める暗闇は貪欲に視線を吸い込む。
ただ、霊気漂う閑寂に呑まれた空間という事は把握できた。
古の呼び声と流れる大気は不穏な涼感を幽白の吐息に泳がせる。
己が身は鎮まる心境と同時に対極の恐々たる早鐘を刻んだ。
矛盾した心理は〈自分〉が二人いるからだ。
実行動を起こしている〈自分〉と、それを内側から客観視している〈自分〉と……。
だから、エレンは怯えた。
これから起こる展開が予見できればこそ。
目を背けたい!
然れど、それは叶わない!
何故か?
おそらく、もう一人の〈自分〉が見据えているからか。
眼前にひざまずく命乞いを冷やかに眺める〈自分〉が……。
はたして相手は誰であろうか──父のようでもあり、イムリスのようでもあり、または見知らぬ顔のようでも……姉のようにも思えた。
しかし、誰であろうか……。
認識が働かない。
感慨も興味も涌かない。
煩わしく纏わり飛ぶ羽虫であり、路傍の雑草でしかない。
やがて、右掌をスッと相手の頭へと翳した。
恐怖に彩られた瞳が愁訴に喚く。
鬱陶しい。
だから、破裂させた。
躊躇も呵責も無い。
必用無い。
何故ならば〈自分〉は特別なのだから。
黒と赤のコントラスト!
肉の西瓜が大量の赤汁を弾かせた!
それでも感情は湖面と鎮まる。
そして、だからこそ感情は戦慄と絶叫する!
「ひ……ぃ!」
エレンは、わなわなと固まった!
そうするしかなかった!
胃の下から混み上がってくる不快な吐き気を辛うじて抑え込むしか!
目を背けられない!
直視するしかない!
エレンに許された選択肢は、ひとつ──悲鳴を上げる事だけであった!
「ィ……ィャ……イヤ……イヤァァァーーーーッ!」
絶叫が木霊する!
拒絶が響き渡る!
誰にも聞こえぬ無力が!
それは〈自分〉にも届かぬ幻であった。
「ッ! ハァ……ハァ……」
詰まる息に叩き起こされ、エレンは目を覚ます。
最近は、こうした夢を見る頻度が高まっていた。
その度に体感は鮮明さを克明としていく。
寝るのが怖くすらなってきていた。
時計を見れば早朝六時台。
父に朝食を用意して、その食後処理をしている内にイムリスが送迎に来る。
「シャワー……浴びないと……」
やるせない倦怠感のままに身を起こし、バスルームへと向かった。
全身を湿らせる脂汗は熱帯には殊更気持ち悪い。
洗い流さねば日常へと戻る気も失せる。
血腥い不浄と共に……。
変わらぬ閉塞の日常が暮れ、やがて現世魔界の夜が下りる。
闇は濃度を深め、曇天を漆黒へと染め上げた。
暗幕に鎮座するは巨大な単眼を据えた黒き月──。
異形の円月は奇怪な事に冷たい白を輪光と発する。夜間ともなれば仄かに強まった。自らを核とした月光こそが現世魔界に於ける夜間叙情。これぞ夜の理とばかりに淡い月明かりで情景を照らしつつも、その黄色く淀んだ眼は俯瞰視に地上の混沌を愉しんでいるかのようであった。
これが夜──。
闇暦の夜────。
異常な常識────。
とりあえず今日の仕事は終わった。
進展は無い。
そもそも一朝一夕で進むものではないのだ。碑文解析というものは。
ともあれエレンは家路へと着く。
当然ながら付人も一緒だ。
寂しさ漂わす博物館通路を並び歩いた。
コツリコツリと硬い靴音。
蒼の寂寥と射し込む月光。
囃しに先導するかの如く小柄な影と背高い影が育っては縮んだ。自身の影とはいえ恰も魔界への人拐いのようで不気味にも感じる。
そんな不安を払拭するかのようにイムリスの方から口を開いた。
「御父様は?」
「また残業」
淡く困惑を滲ませて肩を竦めるエレン。
「精が出ますね。いつもの事ながら」
「あの人の頭には常に〈エジプト考古学〉しかない。その為だけに在り、その為だけに傾倒する……何事を引き換えにしてもね」
「学者としては鑑とも言えますが……」
「でも、その結果……」
言い掛けて悄と呑み込む。
口に出してしまえば戻れない気がした。
総てが瓦解するような気がした。
これまでしがみついてきたものが総て……。
だから、また呑み込む。
そうして生きてきた。ずっと。
伏せる視線に胸中を察したイムリスは話題転換の種を周囲に探した。
生憎、無い。
当然だ。
見渡す限り〈エジプト考古学〉に紐付いているのだから。
と、正面玄関を抜けた直後であった──「おや?」──ようやく明るい話題を発見する。
「エレン、あちらを」
「……え?」
促されて顔を上げれば、敷地内植樹の根本に停車しているオートバイ。
それに寄り掛かる黒髪は持て余す暇を紫煙に乗せて、魔月映える闇空を眺めていた。
「ヴァレリア姉さん?」
「よぉ」声に気付いて意識を向けると、ヴァレリアはシガレットを踏み消す。「ヘッ……やっぱな。此処にいる気がした」
「嗚呼、ヴァレリア姉さん!」
エレンは思わず駆け寄っていた!
自分を抑えきれないままに愛しい姉へと飛び付く!
「うわっと? 苦しい……苦しいって、エレン!」
「会いたかった!」
「二ヵ月前に会っただろうが」
「それでも! それでも会いたかった!」
「……ったく、相変わらずガキくせぇな」
性分の憎まれ口を叩きながらも、ヴァレリアは妹の頭を優しく撫で宥めてやった。
再会の歓びに零す一粒を……。
姉が家を飛び出して、もう六年になる。
闇暦とはいえ商売は成り立った。
少なくとも〈領主〉が〝人間〟を尊重した政策体制を敷いていれば……だが。
そうした面からは、此所エジプトは恵まれていたとも言えるだろう。
支配するギリシア勢力は〈怪物〉ではなく〈神話英雄〉であったから、当然ながら考え方は人間寄りが基準になっていた。
ダークエーテルに汚染されていない健常体の水も潤沢に確保されている。
便宜的とはいえ国内通過も流通する。
だから、商売は成り立つ。
飲食店も賑わう。
夜九時までと断定的ではあっても……。
レストラン〈アスーダ〉も、そうした恩恵下に在った。
自制ながらも弛緩に溺れた軽い酒気が陽気な喧騒に店内を賑わせる。
奥の一卓に陣取り、ヴァレリアとエレンは会食とした。イムリスも同席だ。
が──「何でテメェが居るよ?」──隣席の粗暴をヴァレリアが疎む。
「いいじゃねぇか? 俺とオマエの仲だろ?」
豪胆に歯を見せるクリス。
(どんな仲だ! この脳筋!)
不快を舌打ちに返したヴァレリアは無視してメニューを広げた。もっとも、このデリカシー欠落が気にした様子は無い。
「イムリス、オマエ〈宗教〉は?」
「一応は〈オリンポス信仰〉としておきましょうか。実際は無宗教ですが……あまり大声で言うべき事ではありませんし。何処に〈ギリシア勇軍〉が目を光らせているか判りませんから」
「じゃあ、ハラールじゃなくてもいいか」
独り納得に注文を告げる。
「何だ? その〝ハラール〟って?」
本気で無知なクリスにヴァレリアが嘆息を吐くと、フォローとばかりにイムリスが解説した。
「イスラム教に於いて禁忌食材である〝豚肉〟を回避した料理の事ですよ。豚は戒律的に〝不浄の生き物〟と定義されているのです」
「ふぅん? 旨ぇのにな?」
「にしても〈イスラム教〉にとっては不憫ですね。まるで踏み絵だ」
「踏み絵?」
怪訝を疑問符に乗せるクリスに、イムリスの苦笑いが回答する。
「ええ。このエジプトは他国に比べて寛容な社会構図ですが〈宗教〉に関しては窮屈かと。支配勢力はギリシアですから当然ながら〈オリンポス信仰〉が強要されてしまう──固よりオリンポス神への依存が強い勢力ですからね。ですが元来、この国の正式名称は〈エジプト・アラブ共和国〉──つまり旧暦時代に於いて国民のほとんどは〈イスラム教徒〉でした。その為、ハラールが日常化していたワケですが……この闇暦で、それに準ずれば〝異教徒〟と看破されてしまう」
「苦労してんなぁ……」
軽く同情を寄せながらもクリスの態度は呑気な他人事構えだ。実感は無い。
「ベジタリアンが増えたろう?」と皮肉めいたヴァレリアの含み笑いに、イムリスは「表向きは」と肩を竦める。
「だから、こうした店では〝裏メニュー〟として取り扱っているのさ。明るみでは肉料理そのものを控え、裏ではこうした店で欲求を補う。潜伏的なイスラム教徒も未だ多いんだから、そりゃ流行る」
ヴァレリアが見解を述べたタイミングで料理が運ばれて来た。
卓上を賑わす雑多な料理に晩餐が始まる。
とはいえ、結局は豚肉を避けて鶏肉・牛肉・羊肉を主体とした料理となっていた。そもそもエジプト料理はハラール意識に献立されているのだから当然ではあるが……。
とりあえず羊肉串焼からかぶりついたヴァレリアは、堪能ややあって食事の片手間に本題を切り出した。
「ところで、エレン? コイツ、何だと思う?」
コトンと卓上に置かれたのは、件の〈黄金羽根〉。
「さあ? 初めて見るけど……コレは?」
「墓から見つけた」
「姉さん、まさかまた〝墓暴き〟を?」
「そこは〈トレジャーハンター〉って呼べよ」
「同じよ。そんな事を続けていたら、いつかは〈ギリシア勇軍〉から目をつけられてしまう……そんな事になったら、わたし…………」
「そんなヘマはしねぇ」
「姉さん!」
語気強い嗜めに面喰らい、ヴァレリアは言葉を呑んだ。
普段のエレンからは想像できない強気であった。
然れど見つめ返した妹の瞳には愁訴が潤み……。
その想いを汲めばこそ姉の我は潜まるのである。
「大好きな姉さんに何かあったら、わたし……」
「……充分に気をつける」
「やめてはくれないの?」
それだけは受け入れる事ができなかった。
例え最愛の妹からの頼みでも……。
自分が自分で在り続ける為に…………。
だから──「……無茶はしない」──そう返すだけが精一杯の譲歩であった。
その様を黙って盗み見たクリスは、この妹の存在が如何に彼女にとって大きいかを語らずとも覚るのだ。
カルカデで沈黙を潤すヴァレリア。ローゼルを煮出した冷茶は仄かな酸味に華香を乗せ、涼やかに鼻腔を抜けていく。加糖の分量も嗜好に丁度いい。
この〝カルカデ〟とは〝ハイビスカス〟を意味する語である。呼称の通り、それの類花である〝ローゼル〟を煮出したお茶で、エジプトではポピュラーな嗜好飲料だ。熱帯気候地域らしく多くは冷やして飲む。好みの分量で砂糖を入れ、この甘味が本来の酸味と調和して意外と飲み易い。
暫しの間を置いて、ヴァレリアは本題へと方向修正を謀る。
「で? どうだ?」
「……うん」
先刻の意気は消沈と萎れつつ、エレンは〈黄金羽根〉を手に取った。
観察を果たしながらも胸中は静かな痛みを噛む。
おそらく何も変わらない。
これからも姉は続けるのであろう──危険を省みずに。
それを思えば悲しくさえなる。
不安が陰と差した。
それでも現物観察を働く探究欲は職業病というヤツか。
端くれとはいえ自分が〈考古学研究者〉であるという事実を自覚させられる。
姉妹共々、背負った性が浅ましい。
「小品とはいえ彫刻や装飾を見る限りかなり凝っている……保管状態も奇跡的ね……何処から?」
「墓号〈KV21〉──つまり〝アンケセナーメンの王墓〟からだ」
「なら、第十八王朝──紀元前一三〇〇年代辺りに間違い無いわね」
エレンの分析を拾い、傍聴していたイムリスが口を挟んだ。
「という事は、現在エレンが解析研究している古文書と、ほぼ同年代では?」
「え……ええ、そうね」
一瞬淀む。
正直、あまり触れたくはない話題ではある。
黒い幻夢が射せばこそ……。
しかしながら、ヴァレリアの好奇心は軽く疼いたらしい。
「古文書? 何だ?」
「う……ん、現在研究している発掘品よ。先頃〝ツタンカーメンのピラミッド〟から見つかったの。B2サイズ程度の古文書でね? 少々、象形文字や図象に奇妙な点があるのよ」
「例えば?」
「特定の文字が塗り潰されている。姉さんなら実際に見た方が早いかしら?」
そう言って胸ポケットから取り出したのは、数枚のポラロイド写真。
研究室を離れている時にも咄嗟の考察ができるように携帯資料として撮影した物だ。
手渡されたヴァレリアが、カルカデ啜りに目を通す。
「こりゃ禁忌だな。この写真じゃ粗くて文脈までは断定出来ないが、おそらく人名──それも、たぶん〈王〉だろうよ」
「姉さんも、そう考える?」
「王の名を潰すって? そんな不敬をするか?」
頓狂な顔を浮かべるクリスへ、ヴァレリアは一瞥ながらに講釈をくれてやった。
「往々にしてあるさ。珍しくはない。例えば〝アクエンアテン〟とかな」
「誰だよ?」
苦虫浮かべる姉の助け船とばかりに、今度はエレンが引き継ぐ。
「第十八王朝の王──つまり〝ネフェルティティ〟の夫です。時の王〝アテンホテプ四世〟は王都を〈テーベ〉から〈メンフィス〉へと変更し、改めて王権主体の統治体制を再建確立──その際に自らの崇拝神〈アテン神〉を唯一の絶対神と定め、自身も〝アクエンアテン〟と改名。これにより国宗は、それまで〈太陽神アメン〉を最高神とした多神教〈アメン信仰〉が禁忌とされ、一神教〈アテン信仰〉へと宗教改革された。これは史上初の〈一神教〉誕生の瞬間と云われているんです」
「その行動理由となったのは、日に日に強くなっていく〈アメン神官〉達の政治発言力を削いで王の絶対支配を復権させる為だ」と、これはヴァレリア。
「つまり後々の政権にとっては〝都合の悪い黒歴史〟ってトコか?」
「まぁな。だから、名前が削り潰されていた。後は、この少年王〝ツタンカーメン〟とかな」
「彼の場合は〝病症短命〟という薄幸性よりも〝アクエンアテンの息子〟という事実が大きいわよね?」
「ああ、おそらくな」と、食い終わった鉄串を教鞭の如く振っての肯定。「ともかく、そうした名は当時の政権体勢に於いて不都合とされた者達なのさ。だから、史実から抹消しようと画策された──名前を潰すってのは、そういう意図さ。消し去りたいんだよ」
「けれど、姉さんが〈女王〉と断定する理由は?」
「ああ、ソイツは図象の方だ。冠に胸当てに錫杖──黄金の装身具が過多なのもあるが、こうも名だたる神々が揃い踏みで御出迎えってのはパンピーレベルじゃ考えられない。おそらく同格と見積もられている……って事は〈王〉イコール〈神の現世顕現〉とされていた概念と合致する。サイズも神々と同じ大きさで描かれてるしな。更に言えば、これだけの面子が忌避に構え、当人は臆する様子も無い。つまりは相当に警戒視されていた強者だよ」
長々と脱線した喉の熱を冷茶で潤し、ヴァレリアは本題の〈黄金羽根〉へと関心を戻す。
「で、過去にコイツと同じコンセプトの埋葬品は?」
「無いわ。初めて見る」
「初見……か」
予想していた結果だが少々肩透かしも覚えた。
「あくまでも、わたしの主観なんだけど……一枚羽根の埋葬品なら、コレは〈女神マァトの羽根〉じゃないかしら?」
「それは、つまり〈死者の審判〉にて〈死の裁神アヌビス〉の天秤に掛かる?」
イムリスの質問に、エレンは「ええ」と見解を続ける。
「古代エジプトの死生観ね。死者の魂は〈死の裁神アヌビス〉の天秤によって裁判される。その際に基準と用いられるのが〈女神マァトの羽毛〉よ。これを死者の心臓で計量し、その釣り合いが見合えば〈死者の国〉へと導かれる」
「で、逆に見合わなければ不純として〈怪物アンムト〉の餌という罰を受ける」
妹の補足をしつつ、ケバーブ最後の一口を味わうヴァレリア。
と、唐突にイムリスが妙案を呈した。
「エレン、貴女が預かってはどうです? エジプト考古学博物館なら何か手掛かりが有るかもしれません」
「え? え……ええ、そうね! そうだわ! あそこなら資料も設備も潤沢……きっと何か解ると思うわ!」
従者の真意を嗅ぎ取り、エレンの声音は喜色を帯びる。
それはつまり〝姉と会える回数が増える〟という事だ。
「もちろん進展があり次第、逐一報告する! どう? 姉さん?」
「手掛かり……ねぇ?」ナプキンで口回りを整えつつ巡らす一顧。「いや、いいわ」
「姉さん?」
「アタシが持っておく。何かヒントがあったら、また頼まァ」
「……そう」
些か消沈気味のエレンを見遣り、イムリスは「妙案だと思ったんですがね」と苦笑う。
そして、ゆったりと長身を起こした。
「さて、それではボチボチ私は御暇するとしましょう」
ヴァレリアが時計を見れば、二時間程の経過を刻んでいる。
「んだよ? イムリス? オマエ、エレンの送迎は?」
「いえ、エレンには話しておきましたが──」
「──今日は、これから外せない私用があるみたいなの」
「ふぅん?」
「それにしても、さすがですね。エレンから話は聞いていましたが」
「あ? 何がだ? イムリス?」
「いえ、貴女の考察力ですよ。総てが初見情報ばかりなのに、あれよあれよと理路整然とした新説を組み立てられる。おかげで結構有意義な時間が過ごせた」
「どれもこれも仮説だよ」
「ええ。ですが、僅か短時間でアンドリュー教授と同域まで辿り着いている」
「……フン、そりゃ嬉しい事だ」
孕む不快感のままに啜るカルカデ。
「また同席しても?」
「構わねぇよ。アタシにしてみりゃ暇潰しだ」
投げ遣りにも見える粗野から許可を得たイムリスは軽い会釈に別件を切り出した。
「ところでヴァレリア、貴女に頼みがあるのですが……」
「あん?」
寒気孕む向かい風に抗い疾駆するオートバイ。
熱帯気候のエジプトとはいえ夜は一転に冷え込む。
それは闇暦でも同じだ。
言うまでもないが闇暦に於いて免許など必要無い。要されるのは技量のみである。
とはいえ、エレン自身は運転する気が無い。固より運動神経には自信が無いからだ。
故に後部座席へと据え置かれた相乗りとなった。
黒革ライダーの腰へ、しっかりと腕を回す。
一応、アスファルト舗装されているとはいえ、路面の質は良くない。悪路とは言わないまでも、それ相応に不規則な跳ね上がりを踊る羽目になる。
フルフェイスヘルメットから零れるライダーの長髪は荒々しい風圧に弄ばれて黒の津波と狂っていた。
「ねえ! 姉さん!」
正面を見据えるバイザーメットからは返事が無い。
聞こえていないのかもしれない。
後部シートからの呼び掛けはヘルメットの密閉と向かい風の暴圧によって潜もり呑まれる。
だから、エレンは今一度声を張った。
「姉さんってば!」
「何だよ?」
「ごめんね? ハイヤー代わりに使っちゃって」
何事かと思えば拍子抜けである。
「ンな事かよ! 生真面目過ぎんだよ! オマエは! もっと姉貴に甘えろ!」
「……うん」
イムリスの申し出は、ヴァレリアにしても承諾するしかないものであった。
早い話、エレンを送り届けて欲しいというワケだ。
この配慮が計算なのか本当に私用なのかは知らないが。
「ま、いいんじゃねぇか? たまには姉妹水入らずもよ?」と、他人事テンションでクリスが後押しした事も逃げを封殺した。
故に、さすがのヴァレリアも観念するしかないまま現状へと至る。
誰と誰が共謀しているかは推察できなかったが、とりあえず、どちらにせよ、クリスの末路は定めた。
あのヤロウは後で私刑だ。
(とはいえ……寂しい想いはさせちまったよな)
ふと小波が揺れる。
背中に伝わる温もりは心地好い安らぎを与えると同時に、ヴァレリアにとって自責の枷でもあった。
──姉さん! 行かないで!
家を出た時の哀しそうな愁訴は現在でも思い出されるのだ。
いや、頭から消えた事は無い。
(不出来な姉だ……酷い姉だよ……アタシは。自分のエゴイズムを通すために可愛い妹すら切り捨てた)
だが……そういう選択でしか生きられない性分でもあった。
自分を殺す事など出来ない。
(だから、せめて、これまで満たされなかった関係を埋めていかないとな……コイツと一緒の時間を。考古学だの親子不和だのは別件だ。アタシは後悔したくない)
何が自分の後悔に繋がるのかは知らないが、少なくとも〝妹〟の存在だけは〝かけがえのないもの〟だと自覚できた。
真っ向から殴る風は寒く、そして痛い。