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小林秀雄もすべてを言った⑩ー吉本隆明『心的現象論序説』、柄谷行人『マルクスその可能性の中心』からー小林秀雄とマルクス②ー

小林秀雄以降における「文芸評論家」という存在の基準にてらしていえば、哲学や思想を内包しない文芸評論は文芸評論とはなりえず、また、思想家ではない文芸評論家は文芸評論家ではありえないように私には思われる。

文芸評論家が「思想家」になったというとき、その「思想家」とは、どのような思想家なのか、ということについて柄谷行人は、『ソシュールと現在』のなかで、

「ぼくがソシュールに興味を持ったのは、言語学に関心があるからではなくて、ソシュールが言語について言語学という科学がもたないようにつきつめた考えを持っているように見えたからです。
マルクスの経済学についてもそう思うのですが、『資本論』のほかにマルクスの『哲学』があるのではないと同様に、ソシュールの言語学はそれ自体、言語についての意味以上のものをはらんでいるように思われるのです。
つまりソシュールはマルクスやニーチェと同様に思想家なのだと思うのです」
と書いている。

小林秀雄以後の文芸評論家が「思想家」に変貌したというのは、柄谷行人がソシュールについて言っているのとほぼ同じ意味で考えられた「思想家」のことであろうと私は思う。

小林秀雄以後の文芸評論家たちが、「思想家」とでも呼ぶべき存在へと転換したのは、彼ら/彼女らが、文学作品の分析を通じて、文学という問題を越えた、ある基礎論的な問題を問うような存在へと変身したからであろう。

その代表的な文芸評論家が吉本隆明と柄谷行人ではないだろうか。

私は、小林秀雄的批評に興味を持っているのだが、小林秀雄的批評の系譜には、やはり、吉本隆明と柄谷行人がいると感じる。

ふたりとも小林秀雄の影響を受けたことを告白しており、ふたりとも小林秀雄からの圧倒的な影響の下にその批評活動をはじめており、しかもふたりとも、極めて激しく小林秀雄を批判し否定しようとしている。

しかし、ふたりが小林秀雄を批判し、否定すればするほど、彼ら自身が小林秀雄的になってゆくように、私には思われる。

例えば、柄谷行人がマルクスを論じ、数学や物理学、あるいは論理学の問題を追及してゆけばゆくほど、その批評の方向がさらに小林秀雄の方へ傾いていっているように見えはなしないだろうか。

吉本隆明もまた、その言語論をはじめ、国家論や身心論が小林秀雄とはまったく違った場所でなされておらず、それらは、いずれも小林秀雄的パラダイムのなかにあると言ってよいのではないだろうか。

無論、ふたりは、小林秀雄が踏みこもうとしなかった領域に踏みこむことによって、小林秀雄を超えようとしているだろう。

しかし、ふたりの試みが小林秀雄的批評に対して、根本的な変換をもたらしたわけではなく、小林秀雄的批評を乗り越えることがいかに困難であるかを示しているように、私には思えるのである。

ただ、私が、吉本隆明と柄谷行人を取り上げるのは、そのことをいうためだけではなく、吉本隆明や柄谷行人もマルクスの読み方をも小林秀雄に負っているということをいわんとしているためでもある。

吉本隆明と柄谷行人のマルクス論は、小林秀雄のマルクス論から始まっているという点で、マルクス主義者やマルクス研究家のそれと決定的に異なっているのだろう。

しかし、なぜ、吉本隆明も柄谷行人もマルクスを問題にするのだろうか。

そして、ふたりのマルクス論は、なぜマルクス主義者やマルクス研究家のそれとは違っているのだろうか。

まず、小林秀雄の初期の批評を見てみると、マルクスの影が極めて色濃く映し出されているようなのだが、その背景には小林秀雄のデビュー当時の文壇の状況と社会の状況もあるだろう。

小林秀雄の『様々なる意匠』の中心的なテーマは、当時隆盛を極めていたマルクス主義、あるいはプロレタリア文学への批判であり、小林秀雄が『様々なる意匠』に続けて、「文藝春秋」に連載した『アシルと亀の子』で問題にしていたのも、多くはマルクス主義であり、プロレタリア文学であった。

小林は、それを批判し、否定しようとしたのであるが、小林が絶えずマルクス主義の動向に鋭敏に反応し続けねばならず、マルクス主義との批判、対決を通じて「文芸批評」 を確立していったようである。

小林秀雄の『様々なる意匠』の中心的なテーマは、当時隆盛を極めていたマルクス主義、あるいはプロレタリア文学への批判であり、小林秀雄が『様々なる意匠』に続けて、「文藝春秋」に連載した『アシルと亀の子』で問題にしていたのも、多くはマルクス主義であり、プロレタリア文学であった。

小林は、それを批判し、否定しようとしたのであるが、小林が絶えずマルクス主義の動向に鋭敏に反応し続けねばならず、マルクス主義との批判、対決を通じて「文芸批評」 を確立していったようである。

小林秀雄の批判は原理論的であるが、小林秀雄の批評が原理論的でなければならなかったのは、マルクス主義という原理的、体系的、実践的な思想と対決するために、小林秀雄自身も、原理的で実践的な思考を展開せざるを得なかったのではないだろうか。

そして、小林秀雄は、単なる「芸術派」ではなく、マルクス主義という思想と対決するために「芸術派」の仮面を必要としただけではないだろうか。

小林秀雄により、「文芸批評」が確立され、「文芸評論家」という新しい文学集団が誕生したのは、マルクス主義という、かつて経験したことのない原理的、体系的、実践的な思想体系に対するひとつの対抗手段としてであったのだろう。

吉本隆明や柄谷行人が、小林秀雄のマルクス論に見出したものは、イデオロギーや政治戦略に振り回されていない、いわゆる原理的思想としてのマルクスであったのかもしれない。

吉本隆明は、1961年、『言語にとって美とは何か』を「試行」に連載するころから、急速に原理的思考の世界に移り、以後『共同幻想論』、『心的現象論序説』というような文芸評論家の世界では処理しきれないような問題作を次々と発表するのだが、これらは、ひとりの文芸評論家の仕事としては、あまりに途方のないもののように思われる。

しかし、吉本隆明は、あくまでも文芸評論家の名において、これらの仕事を進めており、私は、その点に関心を持つ。

文芸評論家に、『言語にとって美とは何か』という言語論はともかくとして『共同幻想論』や「心的現象論」が必要なのだろうか。
吉本隆明は、『心的現象論序説』で、

「いうまでもなく、この領域は、心理学、精神医学、哲学の領域に属していて、私はひとびとがわたしの専門と考えている文学の固有領域から、少なくとも具体的には一段と遠ざかることになる。
しかし、現在では、一個の文芸批評が独立した領域として振る舞おうとするとき、このような文学的常識からの逸脱はまぬがれ難いものである。
そしてこの逸脱がいつの日か文学芸術の固有領域を根源において惹きつけるということを信ずるほかはない」
と述べている。

吉本隆明が、文学常識からの逸脱を必要とし、文芸評論の名において、『言語にとって美とは何か』と『共同幻想論』と「心的現象論」を必要としたのは、おそらく、吉本隆明が、批判的なものに対決しなければならなかったのは、吉本が批判的に対決せねばならなかった当面の敵が、ロシア・マルクス主義であり、それに根拠をおく社会主義リアリズム論であったからであり、「マルクス主義」との対抗上から、必然的に原理論的な次元からの考察を余儀なくされたといってもよいだろう。

吉本隆明は、マルクス主義とマルクスを区別し、史的唯物論と弁証法的唯物論を基礎にしてロシアで発表されたロシア的マルクス主義とマルクスの思想とを区別しているようである。

吉本隆明は、それを「マルクス主義者」と「マルクス者」という呼び方で区別しており、もちろん、後者ではなく、前者と批判的に対決している。

この吉本隆明のマルクス主義とマルクス主義者に対する構えは、小林秀雄に極めて近く、もっと言ってしまえば、吉本隆明はマルクスの理解の仕方をほとんど小林秀雄のマルクス理解からそのまま受け継いでいるのではないだろうか。

このことについて磯田光一は、『吉本隆明論』において、
「吉本隆明をマルクスに近づけたもの、あるいは吉本のマルクス理解を決定したもの、それは小林秀雄の初期評論以外の何ものでもなかった」
と書いている。

例えば、吉本隆明は、『心的現象論序説』のなかで、その根本モチーフについて、
「わたしはここで現象学とも悪しき唯物論ともちがった仕方で『観念論か唯物論か』という二元的な問題のたて方を越えてみたい」
と述べているが、これもまた、小林秀雄のマルクス解釈とそれほど異なったことは述べていないだろう。

「心的現象論」のテーマは、このことばに要約されており、「唯物論か観念論か」という二元的な構えそれ自体の無効を宣言することだと思われる。

そして、それは結局のところ、ロシアマルクス主義的「唯物論」への批判となってもいるようにも、思われるのである。

ロシアマルクス主義的「唯物論」とは、「唯物論か観念論か」という二者択一的問題設定のなかでの「唯物論」に他ならなかったからである。

また、柄谷行人は、「文芸評論家」として出発し、『意識と自然』という漱石論でデビューし、以後、『畏怖する人間』や『意味という病』等に収録される文芸評論を書き、新進の文芸評論家としての地位を確立したようである。

ほぼ同時代に台頭しつつあった「内向の世代」の作家たちに共感を寄せ、秋山駿とともに「内向の世代」を支える文芸評論家のひとりと目されながら、ある意味普通に文芸評論家の道を着実に歩いていたのだが、柄谷行人は、1974年に、突然、「群像」に『マルクスその可能性の中心』の連載を開始するのである。

『マルクスその可能性の中心』は、柄谷行人にとってはじめての本格的な長編評論になるのだが、文学論ではなかった。

なぜ文芸評論家柄谷行人にとって最初の本格的な長編評論が、文学論ではなくマルクス論でなければならなかったのかは、次回以降に述べていくつもりだが、柄谷行人は、マルクス論である『マルクスその可能性の中心』以後、それ以前の文芸評論家柄谷行人というイメージを一新するかのように、文学論の分野から離れて、一連の哲学的、思想的な著作を続々と発表するのである。

1977年から「現代思想」に連載された『貨幣の形而上学』、1980年には『内省と溯行』、1981年には『隠喩としての建築』と『形式化の諸問題』、さらには「群像」に連載した『探求Ⅰ、Ⅱ』。

柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』以後、専ら非文学的場所で、文芸批評というより、哲学、思想論を展開してきたようである。

これら一連の哲学的著作と平行して、『日本近代文学の起源』や、中上健次との対談集『小林秀雄をこえて』などにより、文芸評論家の仕事もしているようなのだが、そのような一連の文学論の分野の仕事は、一連の哲学・思想関係の仕事に比較して極めて影が薄く、柄谷は、『マルクスその可能性の中心』以降、「文芸評論家」から「思想家」に転換したかにすら見える。

しかし、柄谷行人は、「文芸評論」を捨て、「哲学」や「思想」の分野へと転向した訳ではないし、「文芸評論家」から「思想家」に転換してなどいないだろう。

柄谷行人が、「文芸評論家」の仕事として、その批評のテーマを「文芸」から「哲学」へ転換させ、「作家」や「作品」ではなくて、マルクスやソシュール、あるいはゲーデルやヴィトゲンシュタインを問題にすることは、柄谷が「文学論」から文学の「基礎論」へ、その文芸評論の活動の場所を深化させたことを意味しているのだろう。

そして、柄谷行人が、哲学・思想論へと転換したかのように見えるのは、柄谷行人が文学の「基礎論」を問うことによって、哲学・思想的な場所と通底するような原理論的な場所に移動したことを意味しているのではないだろうか。

そここそが、文芸評論の本来的な場所であり、小林秀雄と共にはじまった文芸評論とは、そのような場所へ踏み出すことにより、はじめて可能になった文学的な表現形式であったのだろう。

柄谷行人が「文芸評論家」として脚光を浴びるのはマルクス論以降、つまり「文学から哲学へ」移り、「文芸評論家から思想家へ」と変身してからなのではないだろうか。

言い換えるならば、柄谷行人は「文学から哲学へ」移り、「文芸評論家から思想家へ」と変身したとき、はじめて「文芸評論家」になったのではないだろうか。

私たちから見ると、吉本隆明も柄谷行人も、単なる「文芸評論家」というより、「思想家」と呼ぶべき位置にいるが、それは、小林秀雄がマルクス主義との対決を通して確立した存在形式であり、吉本隆明も柄谷行人もその存在の仕方において、小林秀雄の影響下にあるのだろう。

マルクス主義の果たした役割について、小林秀雄は『文学界の混乱』のなかで、

「私達は、今日に至るまで、批評の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。
こういう状態にあった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。
言うまででもなくマルクシズムの思想に乗じてである」
と述べた上で、
「これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。
てんで用意というものがなかったのだ。
当然その反響は、その実質より大きかった。
そして、この誇張された反響によって、この方法を導入した人達も、これを受け取った人達も等しく、この方法に類似した方法さえ、わが国の批評史の伝統中にはなかったという事を忘れてしまった。
これは批評家等が誰も指摘しないわが国独特な事情である」
と述べている。

ここで小林秀雄が言わんとすることは、マルクス主義という原理的思想の導入によってはじめて、日本の批評家たちのあいだにも、原理的な思考への自覚が生まれたということであろう。

マルクス主義批評に対抗できるような自由主義的な批評がはじめからあったわけではなく、それはマルクス主義批評という科学的な批評方法に対抗するために作り上げられた対抗文化に過ぎないだろう。

そのような意味では、小林秀雄の批評もまた、マルクス主義批評に対抗するために新しく作り上げられた対抗文化のひとつに過ぎないのかもしれない。

小林秀雄は確かに、ボードレールやヴァレリーから多くを学んでいるが、それは極めて局所的なものであり、本質的なものではなく、象徴主義の理論によって、その批評理論を作り上げたかもしれないが、それは、小林秀雄が文芸評論家になったという事実とは直接の関係は無いように、私には思われる。

小林秀雄以降、日本における文芸評論は、物事を原理的に考える場所として確立されたのであるようになったのだろう。

小林秀雄以後、文芸評論家に要求される役割は大きく変わり、文芸評論家は、単なる文芸の評論家であることは許されなくなったのだろう。

文芸評論家に哲学者や思想家の役割が加わったのではなくて、哲学者や思想家の役割を担うことによってはじめて、文芸評論家という新しい存在形式が確立したから、文芸評論が文芸という拘束を離れて、一種の哲学的な原理論へと転換したとき、はじめて近代批評が確立したのであり、その逆ではないのだろう。

小林秀雄とその系譜のなかには、前提とされているものや思考の枠組みを形成する仮定や前提を、暗黙のうちに容認するのではなくて、それ自体をも問い直す思考である「原理的思考」が在るように思われる。

原理的であることは、思考を徹底することであり、文芸評論は、ある原理や哲学に基づいて、作品や作家の本質を解読する作業だけを意味していないだろう。

むしろ、文芸評論家が「批評」(クリティック≒危機)と呼ばれることからもわかるように、文芸評論の本質的な仕事は、ある原理や哲学を文学作品の解読に応用することではなくて、逆にその原理や哲学の「基礎」と「根拠」を徹底的に問い返す作業のなかにあるだろう。

江藤淳が、評論とは、理論の虚偽を暴くことだ、と言っているのは、これと別のことではない。

例えば、江藤淳が、戦後思想や戦後文学を批判する際に、宮沢俊義の憲法論にまで遡り、いわば戦後思想の見えざる原点から批判・解体しようとするのは、極めて批判的であり、また、文芸評論的であると言わなければならないだろう。

このような原点に立ち返って、そこから批判し、解体し尽くすという批評的作業は、小林秀雄のマルクス主義批判以降、文芸評論家たちの基本的な思考のスタイルになったといってよいだろう。

思考の原理にまで遡る努力をすることにより、私たちは、はじめて批評に出逢うことができるのかもしれない。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

※見出し画像は、東山魁夷の『緑響く』です。自然の美しさと静けさを捉えることに特化し、自然の中に人間の存在を感じさせない独特な構成が素敵ですよね😌
東山魁夷のこのような芸術へのアプローチは伝統的な技法と革新的な表現の融合によって、日本画の新たな可能性を開いたと評価されているようです😊


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