おざわ ようこ

早稲田大学商学部→武蔵野美術大学大学院→(早稲田大学/上智大学大学院)→小林秀雄研究など 学部時代からの難治性うつ病とその過剰服薬を止めることからくる後遺症から再生しつつある30代後半のつぶやき😊前の記事はこちら→ http://blog.goo.ne.jp/yoko-2-1

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  • note クラシック音楽の普遍化を達成する

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    クラシック音楽の歴史や作曲家、作品について、哲学的な視点から分析し、その普遍性や深さを探求する和田大貴のnoteです。クラシック音楽について語り合えることを楽しみにしています。参加希望の方はマガジンの固定記事でコメントしてください。

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大岡昇平が『野火』のなかでベルクソンに言及した理由から-大岡昇平と小林秀雄①-

大岡昇平が『野火』のなかで、ベルクソンに言及したのは、「十字架」を通じて、少年期のキリスト教体験を想い起こす場面のすぐあとである。 大岡昇平は、ベルクソンの哲学の記憶理論に拠れば、大岡が戦場で思い起こした少年期の感情も「贋の追想」のひとつになってしまうことを知っており、もし、戦場での想起を肯定するのであれば、まずベルクソンの記憶理論を否定しておかなくてはならないことも知っていた。 それこそが、突然、大岡昇平がベルクソンを持ち出した根本理由であったのだろう。 そして、大岡

    • 『感想』に隠された小林秀雄の本質的な課題-小林秀雄のベルクソン論である『感想』から③-

      小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、5年間にわたって「新潮」に連載された長編評論であるにもかかわらず、突然未完のまま打ち切られ、1冊の本になることもなく、小林秀雄自身の希望により、全集にも入っていない奇妙な評論である。 これは小林秀雄の作品のなかでも異例のことであり、 「小林秀雄の『感想』は失敗したのではないか」という意見を私は、最近も、聞いた。 しかし、本当にそうであろうか、ということについて考えてみたい。 確かに、小林秀雄は、この長編評論を完全に無視し、失敗作と

      • DSMが「バイブル」になってしまうまで①-ピネルからクレペリン、フロイトを経てDSM登場まで-過去の診断の流行を知ることから⑧-

        近代科学に比べると、精神医学にルネサンスと啓蒙が訪れたのは、19世紀初め、と、思いのほか遅かった。 テーマがあまりにも複雑であったためであろう。 また、天文学や生物学で一般法則を他見つけ出す方が、精神医学で明確な発症機構を見つけ出すよりも早かったのである。 さらに、近代科学は一般理論化に適したテーマをはじめから賢明に選んだともいえるかもしれない。 さて、ピネルが近代精神医学を創始したあと、独創性に富んだ精神疾患の分類が続出した。 19世紀の後半には、精神疾患のさまざ

        • デビュー作『様々なる意匠』 における「人間喜劇」から「天才喜劇」への転換にみる批評の根本原理-小林秀雄のベルクソン論である『感想』から②-

          小林秀雄の批評は、認識を徹底的に批判し、否定する側面と、逆に、認識を全面的に肯定し、容認する側面とをあわせ持っているように私は、思う。 このどちらを欠いても、小林秀雄の批評は成立しないし、小林秀雄の評論は、この認識批判と認識肯定の二重性として成り立っているのだろう。 小林秀雄というと、「否定・批判の人」と思いがちであるが、小林秀雄の批評の本質は、「肯定」の強さにあるのではないだろうか。 小林秀雄は、独特の仕方で認識を擁護する。 無論、「肯定」の前提として、徹底的な「批

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          もしも、ウェルテルが、歌を歌ってくれるのなら-シューベルトの『美しき水車小屋の娘』をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑮-

          夏目漱石は『草枕』のなかで、 「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界を目の当たりに写すのが、詩である、画である。 あるいは音楽と彫刻である」 と述べている。 漱石は、英国留学後、うつ病を患ったようであるが、これは、日本人が西洋個人主義というものに初めて衝突した副反応であったのではないかと、思う。 漱石は、帰国後、日本における個人の問題を考えながら小説を書いたのだが、その多くは、 「ありがたい世界」ではなく、「住みにくき世」の極みのようなどろ

          もしも、ウェルテルが、歌を歌ってくれるのなら-シューベルトの『美しき水車小屋の娘』をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑮-

          科学の基礎を問い返す小林秀雄の思考から-小林秀雄と柄谷行人と吉本隆明にとってのマルクス⑥-

          原理的思考とは、根拠を最後まで追い求める思考であり、言い換えるならば、前提条件や思考の枠組みを形成する仮定や前提を暗黙のうちに容認するのではなく、それ自体をも問い直す思考であろう。 小林秀雄は、いたるところで、原理的に物を考えるという姿勢が出来ていないとして、「学者」や「学問」を批判している。 小林秀雄は、学者は学問の狭い固定観念に閉じ込められ、本当は考えていないとして学者を批判し、学問は方法論や概念のために、押し潰されて死んでいるとして学問を批判している。 そして、そ

          科学の基礎を問い返す小林秀雄の思考から-小林秀雄と柄谷行人と吉本隆明にとってのマルクス⑥-

          君主のためではなく、一般市民のために書かれた本-アリンスキーの『過激派のルール』から-アメリカ合衆国について⑨

          マーティン・ルーサー・キングは、ワシントンが18世紀に、リンカーンが19世紀に果たした役割を、20世紀に果たしたように、私には、思われる。 キングと同じ頃に活動し、キングよりもずっと知名度は低かったが、キングよりも広範囲にわたって、現在のアメリカの政界にも影響を及ぼしている人物がいる。 ソウル・アリンスキーである。 1971年、アリンスキーは、亡くなる直前に、後世の遺産となる『過激派のルール』と題した書籍を出版した。 これは、コミュニティを組織する者に向けた10章から

          君主のためではなく、一般市民のために書かれた本-アリンスキーの『過激派のルール』から-アメリカ合衆国について⑨

          人間の非特異性の苦しみにレッテルを貼って理解するフリをした結果から-過去の診断の流行を知ることから⑨-

          神経衰弱、ヒステリー、多重人格障害(MDP)は19世紀末に見られた3つの流行であり、どれもカリスマ性に富んだ神経科医であったビアードとシャルコーが、患者の多くに見られた不可解な非特異性の症状を説明しようとしたため、発生したと言っても言い過ぎではないだろう。 なぜ、3つの流行が、一斉に始まったのか? なぜ、3つとも神経科医が発生させたのか?? これは、神経科学のめざましい発見が、一部の未熟な臨床現場の発想に不相応な権威を与えかねないという、今日では非常に的を射た教訓物語と

          人間の非特異性の苦しみにレッテルを貼って理解するフリをした結果から-過去の診断の流行を知ることから⑨-

          アメリカ例外主義を後押ししたライプニッツとヴォルテールの考え方が私たちに教えてくれること-アメリカ合衆国について⑧-

          人間の在り方に関するすべてのよい評価を、意地悪く、面白おかしく、皮肉を込めて批判をしたジョナサン・スウィフトが著した『ガリバー旅行記』が政治学のテキストになりつつあることを、なんだか嬉しく思う。 ジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』を著したのは、トマス・モアの『ユートピア』からは、200年後、シェークスピアの『テンペスト』からは、100年後、ライプニッツの 「すべての可能世界の中で最善の世界」という主張からは、15年後、デフォーの楽天的な小説『ロビンソン・クルーソー

          アメリカ例外主義を後押ししたライプニッツとヴォルテールの考え方が私たちに教えてくれること-アメリカ合衆国について⑧-

          「個人の苦痛と不快のメタファー」を「筋の通った病気」にした事例から-過去の診断の流行を知ることから⑧-

          おおよそ1世紀前、世界は、神経衰弱と転換性ヒステリーと多重人格障害で溢れていた。 しかし、どういうわけか、3つとも、唐突に消え去った。 精神科の診断が、今も昔も、非常に移ろいやすいものであることは、驚くには当たらないのかもしれない。 なぜなら、物事の流行は私たちの行動のあらゆる面に影響を及ぼしており、群れに従うことは人間の本質に組み込まれているからである。 ただし、物事には流行り廃りがある。 今は、確りと根を張っているように見える精神科の流行も、見た目ほど抜き取り難

          「個人の苦痛と不快のメタファー」を「筋の通った病気」にした事例から-過去の診断の流行を知ることから⑧-

          「ここでも起こりうる」かもしれないこと-アメリカ合衆国について⑦-

          シンクレア・ルイスが『It Can't Happen Here(ここでは起こりえない)』を出版してから80年以上が経ってから、再びベストセラーになっているのは、当然のことかもしれない。 芸術が人生を模倣するように、人生が実際に芸術を模倣することがある。 バズ・ウィンドリップのほぼ生き写しや、ヒューイ・ロングの再来とトランプは恐れられているようであるが、本当に恐れるべきは、彼の台頭に映し出されている私たちの精神ではないだろうか。 トランプは、唯一無二の例外的な人間であって

          「ここでも起こりうる」かもしれないこと-アメリカ合衆国について⑦-

          老いてリストがようやく気付いたこと-ワーグナー=リスト「トリスタンとイゾルデの愛の死」をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑪-

          若き日のドビュッシーは、リスト編曲の「トリスタンとイゾルデの愛の死」を聴いて、 「ピアノはこれほどの表現力を持つのか」 と衝撃を受け、 「自分はこれまで、ピアノの表現力を引き出していたのだろうか」 と、発奮したそうである。 そのようにして、ピアノ新時代の扉が開かれたのであるが、ドビュッシーが力強く新時代の扉を開くことに、そっと手を貸した、老リストの存在を忘れてはならない、と思う。 しかし、それは後の世から眺めた場合であり、当時のリストを見ている家族の反応は違った。

          老いてリストがようやく気付いたこと-ワーグナー=リスト「トリスタンとイゾルデの愛の死」をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑪-

          独裁者にとって純然たる真実ほど危険なものはない-アメリカ合衆国について⑥-

          ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたディストピアは、現代世界をある意味正確に予測していたのかもしれない。 ビッグ・ブラザーと思想警察が、テレスクリーンを通して、市民のあらゆる動きを監視し、会話の一言一句を隠しマイクで聞いている。 自分の子どもを含めて至る所に密告者がおり、あらゆる思考、感情、人間関係について政府に密告する。 使用言語は「ニュースピーク」である。 この鏡の世界では、何もかもが見かけと反対になる。 例えば、平和省は延々と戦争を続け、真理省は党の偽

          独裁者にとって純然たる真実ほど危険なものはない-アメリカ合衆国について⑥-

          「スターリン賞」に選ばざるを得ず、ソ連の当局者を困惑させたであろうハチャトゥリアンの曲をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑬-

          民族というものは、「新しくて新しい」問題である。 「古くて新しい」わけでもないし、「新しくて古い」問題でもない。 19世紀以降、すべての差異を塗りつぶして普遍化していくような近代主義が出現してから、それに抵抗して 「そうではない、私たちには、普遍化から守るべき独自性があるのだ」 という形で見出されたもの、それが「民族」という神話なのではないだろうか。 「そうではない」という否定から始まっているから、積極的に、肯定的に「民族」を定義することはなかなかに難しい。 確か

          「スターリン賞」に選ばざるを得ず、ソ連の当局者を困惑させたであろうハチャトゥリアンの曲をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑬-

          フィリップ・グラス 弦楽四重奏3番「MISHIMA」をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑫-

          三島由紀夫の自決は、日本のみならず、世界にも衝撃を与えた。 富士山のように大きな山は、麓からはその威容は計り知れないため、少し距離をおいて眺める必要がある。 富士山の麓には深い樹海が在り、そこに入れば必ず迷う。 三島は自らの死をあのように演出することで、日本人の喉元に解きがたい難題と謎を突きつけたかのように見える。 しかし、外国から見た三島という富士山は、簡明な、規矩正しい稜線を持った姿に見えるようなのである。 それは、戦後日本という絶対的価値喪失のなかで生きざるを

          フィリップ・グラス 弦楽四重奏3番「MISHIMA」をきいて-音楽から眺めてみる世界から⑫-

          小林秀雄の裡の転換-小林秀雄のベルクソン論である『感想』から①-

          小林秀雄の『感想』が、量子論の問題を中心に展開しているように、小林秀雄の関心は、相対性理論よりも量子論にあるようである。 物理学には、物質の究極の単位を突き止めるというところがあるのであろうが、量子論が明らかにしたのは、そのような究極の要素は存在しないという事実だったのではないだろうか。 ギリシャ以来の原子論では、宇宙や物質は、いくつかの要素から成ると考えられており、それは、19世紀末まで変わらない前提だったようである。 物理学は、そのような前提から究極の要素を求めて、

          小林秀雄の裡の転換-小林秀雄のベルクソン論である『感想』から①-