小林秀雄もすべてを言った②ー『アシルと亀の子』と『感想』にみる小林秀雄にとってのベルクソンー
『感想』は、小林秀雄的思考の核心を、ベルクソン論というかたちで公開したものであり、そこには、それまで見せなかった小林秀雄の素顔があるようである。
「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄は、『私の人生観』でもベルクソンに触れ、その「vision」を日本語の「心眼」に通ずるものだとも書いているのだが、『感想』にベルクソンを出すことになったのは予期せぬことであったようである。
小林秀雄は、『感想』の第3回目のなかで、
「実は、雑誌から求められて、何かを書こうというはっきりした当てもなく、感想文を始めたのだが、話がベルクソンの哲学を特に及ぼうとは、自分でも予期しなかったところであった。
これは少し困った事になったと思っているが、及んだから仕方ない」
と書いている。
どうも小林秀雄には、このような性格があるようで、『感想』と並行して長期連載をしていた『考えるヒント』のなかでも、
「私の書くものは随筆で、文字通り筆に随うまでの事で、物を書く前に、計画的に考えてみるという事を、私は、殆した事がない。
筆を動かしてみないと、考えは浮かばぬし、進展もしない。
いずれ、深く私の素質に基づくものらしく、どうも変えようもない。
忠臣蔵について書き始めた際も、例外ではなく、まるで無計画で始めたのだが、やがて書いているうちに、我が国の近世の学問とか思想とかいう厄介な問題にぶつかるであろう。
又、ぶつからなければ、面白くもあるまい。
それ位なら見当は付いていた」
と書いている。
小林秀雄は、「厄介な問題」を前に、
「常識と随筆的方法との用意があれば足りる事だけは果たそう」としたのだと言うのだが、それは、「常識」、言い換えれば自分の裡に蓄積された「世界了解の力」がそのつど試される書き方となったということなのだろう。
小林秀雄がなりゆきにまかせて「筆に随う」ことは、決して消極的なことではなく、なりゆきまかせであればあるほどに、そこにあらわれるものは小林自身の「どう変えようもない」姿であるだろうから、むしろ切実でのっぴきならないものとなるのではないだろうか。
『感想』の第1回目は、小林秀雄の母の死の前後の話から始まっており、「母の死」にまつわるエピソードのあと、ベルクソンの「遺書」の話に及んでいる。
このなかに書かれている「母の死」にまつわる体験のあと、小林秀雄は、ベルクソンの最後の著作である『道徳と宗教の二源泉』を再読しており、『道徳と宗教の二源泉』は、以前とは「全く違った風に」読まれ、「母の死」にまつわる「経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った」ようである。
このような強い「経験の反響」から起る問いを発火点として小林秀雄はベルクソン哲学に向かい、意識と無意識が出会い実生活と童話が結ばれるような世界に人間のありようとしての「持続」のかたちを見ようとし、意識と無意識が混ざるありふれた生の場所から「よくよく考えてみれば不思議な」「何も彼も」へと向かいながらベルクソンの「再読」という作業に入るのである。
そして、第2回目から、ベルクソンの哲学に関する詳細な分析が始まるのだが、小林秀雄の『感想』の特色は、ベルクソンを論じるときに、「生の哲学」や「非合理主義」といった、いわゆるもうすでに、よくあるような、既製品のようなベルクソン哲学の解釈ではなくて、ベルクソンの著書のなかの論理を具体的に、ひとつひとつ検討している点にあるのだろう。
その意味では、『感想』は、ベルクソン論というよりベルクソンを素材にして、小林秀雄がさまざまな思考実験を行った評論と言った方がよいのかもしれない。
「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄が、自身の批評の基礎原理に深く関わりすぎているがゆえに、ベルクソンについて、具体的に語ったことはあまりなかったし、ベルクソンの名前を出して具体的に語りはじめるのは戦後のようである。
小林秀雄は、原理的な思考に裏付けられた、極めて論理的、客観的な思索を得意とする人であったが、その原理論や原理的な思考そのものを人前にさらしたことはなく、常にその批評の原点は隠されていたといってよいのかもしれない。
そのように考えるとき、『感想』は小林秀雄にはめずらしく、その原理的思考の内側を、具体的にさらけ出した作品といえるのではないだろうか。
しかし、約5年間にわたったそれは、アインシュタインとの関わりで科学の問題にまで及んでから、中断してしまう。
このシリーズの①でも述べたように、小林秀雄は、ベルクソンとアインシュタインの対立を感情的なものと理論的なものとの対立として捉えているようであるが、小林秀雄もベルクソンも科学的真理を無視するような独断的な空想家ではなく、ベルクソンが『持続と同時性』というアインシュタイン論を絶版にし、小林がベルクソン論を中断したのは、アインシュタインの時間論をベルクソンの時間論によって批判できなかったことにおいてであろうと私には思われる。
また、小林秀雄が岡潔に
「失敗しました。力尽きてやめてしまった」
というのは、ベルクソンとアインシュタインの対立を最終的に解明することが、アインシュタインの時間論をベルクソンの時間論によって批判できなかったということなのだとも、私には思われる。
ここで、小林秀雄にとってのベルクソンを考えるにあたり、小林秀雄の初期の雑誌連載の文芸時評である『アシルと亀の子』に触れたいと思う。
中村光夫は、『小林秀雄初期文芸論集』の解説のなかで、
「昭和五年は、氏がはじめてジャーナリズムの表通りに出て、継続的に仕事をして批評家として印象づけた年であり、この四月から満一年にわたって『文藝春秋』に連載した『文芸時評』は『アシルと亀の子』という奇抜な題とも相俟って、たんに文壇の注目をひいただけではなく、広範囲の読者の関心を呼び喝采を博したので、これまで一般には未知の批評家であった小林氏が、はじめて人気の中心というべき新進文学者として登場したのです」
と述べている。
つまり、『アシルと亀の子』先立って発表されたデビュー作である『様々なる意匠』がどちらかといえば、批評の原理論であり、本質論であったのに対して、『アシルと亀の子』と題して『文藝春秋』に連載された文芸時評は、一種の情勢論であり、小林秀雄的批評の実践版であったようである。
『様々なる意匠』が読者にとって理解し難かったのに対し、『アシルと亀の子』は話題が具体的であり、現実的であったため、多くの読者を獲得し、このような連載時評の成功により、小林秀雄は批評家としての地位を確立したといえるのかもしれない。
中村光夫には、「奇抜な題」と言われてしまったが、『アシルと亀の子』は小林秀雄自身にとっては、十二分に考え抜いた末に選んだ、特別な意味を帯びた題名であったはずであろう。
この「奇抜な題」は、ベルクソンから借用したものではないかと、私には、思われる。
「アシルと亀の子」のパラドックスは、ベルクソン哲学の中心に位置する問題であり、「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄がこのパラドックスに関心を持ち、この題名を初期の連載時評に選んだことは、やはりベルクソンを通じててあると思われる。
私たちがよく、「アキレスと亀」と呼んでいるエレア学派のゼノンのパラドックスは、ベルクソン哲学にとって、非常に重要な意味を持つパラドックスであり、その哲学の独創的な展開の端緒を開く契機となったパラドックスである。
ベルクソンが、この問題に直面したのは、まだ、クレルモン=フェランのリセ・フレーズ=パスカルで教鞭をとっていた頃のことであったといわれており、ルネ・デュポスの日記によると、ベルクソンは、
「ある日、私は黒板に向かってエレア学派のゼノンの詭弁を生徒たちに説明していたとき、私にはどんな方向に探求すべきかがいっそうはっきりと見えはじめた」
と語っている。
以後、ベルクソンが、この問題を端緒にして新しい哲学的見解を示し、絶えずこの問題に触れ、その著作のいたるところでこのパラドックスを分析し、その哲学的思考の根拠としているようである。
ベルクソン哲学とゼノンのパラドックスはそのもっとも根底的なところで結びつけられている。
ゼノンのパラドックス、つまり「アシルと亀の子」のパラドックスとは、紀元前5世紀に南イタリアのエレアで活躍した哲学者であるゼノンが挙げた、運動に関する4つのパラドックスのうちのひとつであり、アリストテレスが『自然学』のなかで取り上げられたために、広く世に知られるようになったのだが、ゼノンにとっても、アキレスが亀に追いつくことは、自明のことであっただろう。
ただ、その事実を説明し、理解しようとすると、矛盾が起こってしまうのである。
ゼノンのパラドックスは、単純明快な内容と、その解決の異常な難しさのために、古くからパラドックスの代表的なものとされて、多くの哲学者を悩ませてきた。
ベルクソンは、このゼノンのパラドックスを解明することから、その哲学を開始したようである。
ベルクソンは、ベルクソン哲学の誕生のきっかけのひとつになったであろう「アキレスと亀」の問題に、いたるところでふれているようである。
哲学者としてのベルクソンの処女作であり博士論文でもある『時間と自由』(原題『意識の直接与件論』)以来、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』、『思想と動くもの』といった一連のベルクソンの主著のいずれにおいても、この問題への言及が見られる。
「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄の眼に、このベルクソンの哲学的な原体験とも呼ぶべきゼノンのパラドックス、言い換えれば、「アキレスと亀」のパラドックスが見えなかったはずはなく、小林秀雄の文芸時評『アシルと亀の子』は、その題名が示すように、圧倒的なベルクソン哲学からの影響下に書かれていることは、小林秀雄は明言はしていないが、否定のしようがないだろう。
ベルクソンは、「アキレスと亀」の問題を、どのように捉え、どのように解決したのであろうか。
ベルクソンは、『思想と動くもの』のなかに収められた「変化の知覚」という講演のなかで、
「エレアのゼノンの議論は皆様もよくご記憶のところと思います。
彼の議論はすべて運動と通過された空間との混同を、もしくは少なくとも空間を取り扱うやり方で運動を取り扱うことができ、運動の分節を考慮せずに運動を分割することができるという確信を含んでおります。
ゼノンは次のようにいいます。
アキレスは亀を追いかけているが、決して追いつけないだろう。
なぜなら、亀がいた点にアキレスが到着したときには、亀は、その間に前進しているだろうから」
と話している。
ベルクソンは、ゼノンのパラドックスを、運動の問題として捉え、運動を運動のして捉えようとしないため、パラドックスに陥るのだと、考えているようである。
運動は分割不可能なものであるにもかかわらず、あえて運動を分割してしまうところに、矛盾の根拠を見出すのであろう。
分割された点の集合が運動になることはできない、と錯覚するのは、人が空間的な思考にあまりにも深く慣れすぎているせいかもしれない。
ベルクソンは、運動は「持続」であり、分割できないものだと考えており、そこに、ベルクソンの時間論が生まれるのだろう。つまり、持続としての時間である。
ベルクソンは、時間もまた持続であり、分割できないものと考えており、その考えは、最初の著書『時間と自由』以来一貫してベルクソン哲学の核心となっている。
運動や変化を真の実在とし、不動や物を第二義的な実在とみなすベルクソンの存在論も、運動し変化するものとしての実在を把握するためには直感によるしかないとする認識論も、ともにこの運動の不可分性という問題から必然的に帰結する。
ベルクソンが、ゼノンのパラドックスのなかに、その哲学的開眼のきっかけのひとつを見出すのはこのようにしてであるのだろう。
ベルクソン哲学の核心は、運動や変化や持続を分割してはならない、という点にあるのだが、分割できないものを分割したときにうまれたものが形而上学であるといえよう。
形而上学は、運動するものの根底に不動物を設定し、それこそが真の実在であるとしたのだが、その真の実在なるものは、運動や変化が残した影であり、ベルクソンはそれを、運動や変化の「単なるスナップ写真である」
と言っている。
つまり、スナップ写真をいくらつなぎ合わせても、それは運動になることはないだろう。
ベルクソンは、『変化と知覚』のなかで、
「私はこれ以上しつこく申しません。
われわれ一人一人が体験してみればよいのです。
われわれ一人一人が変化や運動の直接的洞察を自ら行ってみればよいのです。
そうすればこれらの絶対的不可分性を感じ取るでしょう」
と言った上で、
「変化はある、然し変化の下に、変化するものはない。
変化は支えを必要としない。
運動はある、しかし、運動する惰性的不変化的対象はない。
運動は、運動体を含まない」
と言っている。
ベルクソンはこのような観点から、伝統的な形而上学を批判し、また実証科学を批判する。
形而上学は、経験論であれ、合理論であれ、いずれにしろ変化の下に、変化しないもの、つまり不動の実在を実体として前提とする。
言い換えれば、変化の下に不変の実在を前提とする実体論的な思考は、必然的に、ゼノンのパラドックスに直面せざるを得ないのである。
ベルクソンが批判したのは、ヨーロッパ的形而上学に根強く残存している、いわゆる実体論的思考であったと言ってよいのかもしれない。
プラトン以来のヨーロッパ的思考体系のなかには、「イデア」からカントの「物自体」や、ヘーゲルの「精神」に到るまで、ヨーロッパ的思考体系のなかには、常に、実体化された不動の「存在」が前提として与えられており、これはどうしても消し去ることの出来ない前提なのであろう。
ベルクソンは、そのような存在を否定する。
ベルクソンにとって、変化、運動こそが実在であり、精神や物質というような「物」は、変化や運動が残した影に過ぎないのだろう。
小林秀雄は、『アシルと亀の子』と題する文芸時評を、第6回目で『文学は絵空ごとか』という題に変えてしまっており、以後、1回ごとに題は変えられることになるのだが、小林秀雄は、『アシルと亀の子』という題名を変更したことについて、『文学は絵空ごとか』のなかで、
「毎月、『アシルと亀の子』なんて同じ題をつけているのは芸がないから取りかえろと言われて、なるほどと思い、偶々、正宗白鳥氏の文芸時評を読んでいたら、文学はついに絵空ごとに過ぎぬという嘆声に出会ったので、今月は、多くを語りたい作品もなかったし、ただわけもなくこんな表題をつけてしまった。
だが私にとっては依然として、アシルは理論であり、亀の子は現実である事に変わりはない。
アシルは額に汗して、亀の子の位置に関して、その微分係数を知るだけである」
と述べている。
『アシルと亀の子』という題名によって小林秀雄は、理論(アシル)が現実(亀の子)に追いつけないことを言いたかったのだろう。
無論、それは、理論そのものが誤った観念の上に成立した理論だからではなく、それは理論というもの常に内包する矛盾だろう。
実際的な経験の世界では、アシルが亀の子に追いつくことを、私たちは、知っているのだが、それを、理論的に説明しようとするとき、アシルは亀の子に追いつけなくなってしまうのである。
ベルクソンによれば、それは理論が、運動を運動として捉えるのではなく、運動を空間のなかで、空間化して捉えようとするからであり、分割不可能な運動を分割可能な空間の1点として捉えようとするからである。
しかし、私たちは、日常生活において、時間を空間のなかで数量化して考え、運動を空間的な点の集合として考えることに慣れきっている。
私たちが、常識として信じ込んでいる考え方は、一種の空虚な観念論に過ぎないということを、ゼノンのパラドックスは教えているようである。
時間を空間的な量として考え、運動を空間のなかで数量化して考えている限り、ゼノンのパラドックスを避けて通ることはできないだろう。
つまり、そのような常識に依拠している限り、「運動は存在しない」という奇怪な結論に辿り着かざるを得ないのであろう。
しかし、実際には、ゼノンのパラドックスを信じる人はおらず、アキレスが亀に追いつくことは自明であり、運動が存在することも自明なことである。
人はいつもこの理論と現実の矛盾をほとんど感じることはないが、それは、人が都合の良いときだけ理論を信用し、都合が悪くなると現実を信用するという、論理的な不徹底のなかで生活しているからか、まったく理論的な分析や説明と無縁に、直接的経験のなかで生きているからではないだろうか。
小林秀雄が、文芸時評の題として「アシルと亀の子」を選んだのは、ベルクソンの影響であると同時に、小林の主な関心が、理論(アシル)と現実(亀の子)の矛盾という点にあったからであろう。
小林秀雄は、新しい理論によって、新しい解釈を提出したのではなく、彼が提出した問題は、理論と現実が一致することは決してあり得ないという、理論的思考そのものの不可能性という問題であった。
小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、量子物理学の説明が終わったところで中断している。
小林秀雄も、もうそれ以上先へ進むことは出来なかったからであり、彼は『感想』の第53回目のなかで、
「それなら、ハイゼンベルクが衝突したのは、あの古いゼノンの、ベルクソンがそのソフィズムに、哲学の深い動機が存する事を、飽くことなく、執拗に主張したゼノンのパラドックスだったと言って差し支えない」
と書いている。
小林秀雄は、ハイゼンベルクが量子物理学で直面した矛盾が、ゼノンのパラドックスに他ならないと言っており、これにより、小林秀雄が「物理学」にこだわった理由が理解できるように思われる。
小林秀雄にとって、「物理学の革命」もゼノンのパラドックスの中にあり、それに対するひとつの解答が量子物理学だということになるのではないだろうか。
小林秀雄が、『アシルと亀の子』という題名に込めた「アシルと亀の子」は主として、マルクス主義に対する批判がテーマであったが、そのマルクス主義批判は、極めて根底的な批判であったといってよいだろう。
ただ、小林秀雄は、その批評で、絶えず理論的な思考を批判したかのように見えてしまうが、実際は、中途半端な理論を批判しただけであり、理論に対して現実の優位性を説いたわけではなく、小林が、マルクス主義や科学主義に対して、激しい批判の論陣を張ったのは、それが科学的思考であったからではなく、それが科学的思考に矛盾するから、あるいは、中途半端な科学でしかなかったから、批判したように、私には、思われるのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。