大岡昇平と小林秀雄-大岡昇平と小林秀雄②-
大岡昇平の「疎開日記」に、
「フィリピンで立哨中、雨の野を眺めながら、僕は十七歳の頃の感傷を思い出し、いかにそれに逆らって生きてきたかを知った。
これが僕の底ならば、まず、それを耕すことから始めねばならぬ」
と書いている。
大岡昇平が小林秀雄知り合ったのは、19歳のときであり、大岡昇平が、「17歳の時の感傷に逆らって生きてきた」ということは、小林秀雄知り合って以後の、いわば批評的な時代の生き方を指していると思われる。
言い換えるならば、ここで、小林秀雄的批評への決別が自覚されていると言うことができるだろう。
大岡昇平はこの時、はじめて批評的な思考から解放されたのではないだろうか。
大岡昇平の「資料」や「人間関係」への強いこだわりもまた、ここにはじまるのだろう。
大岡昇平は、戦後、復員すると同時に、中原中也や富永太郎に関する資料の収集や調査が、精力的に進められたのだが、これは、「批評への反抗」でもあったように、私には、思われる。
「資料」や「人間関係」というきわめて即物的で、非文学的な事実に固執する大岡昇平の構えは、明らかに小林秀雄に始まる「批評的なもの」への批判の構えであったようにも思えるのである。
私たちは、資料収集に対する大岡昇平の熱意を『中原中也』のなかにみるとき、大岡昇平の分析や解釈に無関心ぶりもともにみることができるだろう。
大岡昇平の内部では、分析や解釈はほとんど価値を有していないかのようであり、そこには、批評への絶望が隠されているようである。
大岡昇平は、ある時点で、きっぱりと批評することを断念し、現実を尊重するという道を選んだのであろう。
大岡昇平の関心は、あくまでも資料であり、資料の収集と提示だけで十分である、と言っているようにも見える。
解釈や意味に対する絶望が、そこには在り、そして、現実や生活に対する深い信頼がそこには在るのだろう。
批評とは、分析であり、分析のかぎりをつくして、もはやそれ以上分割不可能なものを見出すことであろう。
たとえ究極的には、その最終的な分割不可能なものが、もはや1個の無であったとしても、その分析の道を進まないかぎり、批評に到達することは出来ないだろう。
小林秀雄もまた、どれだけ分析的な認識にかえて、直感的、経験的な認識を主張したとしても、まず、やらなければならなかったことは、分析することであり、反省することだったのではないだろうか。
これに対して、大岡昇平は、ある時点から、分析や反省という行為に対して、ある決定的な決別を行っているようである。
無論、大岡昇平が、分析や解釈という反省的な思考を完全に放棄したわけではなく、むしろ、大岡昇平の分析や解釈は『野火』や『俘虜記』などの小説においてさえそうであったように、過剰であるといってよいくらいだろう。
しかし、それらは、あくまでも分析や解釈の向こうにある現実や生活を浮かび上がらせるための手段でしかなく、言い換えるならば、大岡昇平の内部に、現実や生活に対する素朴な、そして強固な信頼が生まれてきたのではないだろうか。
それは、分析と解釈という理論的作業によっては、決して汲み尽くせない現実の多様性への信頼であろう。
それは、大岡昇平がフィリピン、ミンドロ島での戦争経験を通して獲得したものでもあるだろうが、その前の、大岡が東京を離れ、神戸でのサラリーマン生活を始めたころに獲得したものでもあるように、私には、思われるのである。
確かに、批評家大岡昇平が、作家大岡昇平に転換したのは、過酷な戦争経験を契機にしていることは否定しようがないのであるが、大岡昇平の内部ではその前の、サラリーマン生活をはじめたころにある価値転換が起こり、それが、戦争、出征、俘虜、復員という歴史的体験とたまたま重なったようにも思えるのである。
冒頭(と、大岡昇平と小林秀雄①のなか)でも触れたように、昭和3年19歳のときに、大岡昇平は小林秀雄と出会い、小林秀雄を通じて、中原中也、河上徹太郎、中島健蔵などと知り合っており、文学的な交友関係が切りひらかれた。
それは、大岡昇平が、小林秀雄という批評家の誕生劇の渦の中に呑み込まれていくことでもあり、小林秀雄との出会い以後、大岡昇平は、小林秀雄的なパラダイムのなかで生きなければならなくなったのである。
やがて、小林秀雄や河上徹太郎らの後を追うように、大岡昇平もまた、批評家として文壇にデビューするのだが、大岡昇平がこの頃に書いた評論にめぼしいものはあまりないといえよう。
ほぼ前後して、小林秀雄の影響下に批評を書き始めた中村光夫は、その頃、のちに『フロオベルとモオパッサン』として1冊の本にまとめられることになる一連の批評や、やがて彼の代表作ともなる二葉亭四迷に関する評論を、続々と発表しており、同じ小林秀雄の門下生であった大岡昇平は、年下の中村光夫の華々しい活躍が気にならなかったはずはないだろう。
大岡昇平は、中村光夫について、
「23歳で『モオパッサン』を書いて以来、中村の経歴は伸び伸びと育った植物を思わせる。
底にモオパッサンとフロオベルの苦渋を秘めながら、それを立証しようとする彼の筆には、いささかの渋滞の跡がみられない」
とのちに書いているが、この当時の大岡昇平の筆には「渋滞の跡」が顕著に在ったのである。
中村光夫が、自分の道を見いだし、良かれ悪しかれその道を邁進していたのに対して、大岡昇平は、まだ、自分の道を見いだし得ておらず、むしろ、本来的な道とは逆方向の道に迷い込んでいたようである。
大岡昇平の内部にある「原理的思考」に対するこだわりが、中村光夫には、ほとんど無かったようなのだが、それが、中村光夫が場合によっては、小林秀雄以上に、大胆な、そして明快な批評家であり得た理由だろう。
中村光夫にとっては、小林秀雄が理論物理学やベルクソン哲学に示した関心の深さは、理解し得ないものであり、「理論」と「現実」のずれ、言い換えるならば「アシルと亀の子」のパラドックスという問題が、問題として浮上することはなかっただろう。
中村光夫は、原理的な問題を回避することにより、いわば批評という危機を無視することによって大胆な批評家たり得たのかもしれない。
中村光夫は江藤淳に、
「大胆に間違う人であった」と評されるのに対して、大岡昇平は、小林秀雄の忠実な読者であったがゆえに、大胆に間違うことが出来ず、「理論」と「現実」のずれに直面した大岡昇平が選んだのは沈黙であり、生活であったようである。
昭和13年、9月に中村光夫は、「天にのぼる気がした」というフランス給費留学生として、渡仏、パリ大学に入学したのに対して、11月に大岡昇平は、神戸にある帝国酸素株式会社に翻訳係として入社し、東京を離れた。
大岡昇平は、このことについて、
「前年日支事変起り、文筆で生活する自信を失ったためである」
と自筆年譜に記しているが、『わが文学に於ける意識と無意識』においては、
「一度でも世界大戦史を読んだ者にとって、あの時のアメリカと戦うことは亡国を意味することは明白でした。
無智な軍人共が勝手な道を選ぶのは止むを得ないとしても、私の尊敬する人達まで、それに同調しているのを見て、私は人間に絶望したといえます。
私はフランス語の知識によって、或る日仏合弁会社の翻訳係に国内亡命する道を選びました」
と書いている。
「私の尊敬する人達」のなかには勿論、小林秀雄も含まれていたであろう。
昭和13年に、大岡昇平が、東京を離れたという事実は、大岡昇平のみならず小林秀雄にとっても重要なことであっただろう。
中村光夫のパリ留学とはまったく逆に、大岡昇平の神戸への移住、そしてフィリピンへの出征という事実は、小林秀雄の最も優れた理解者のひとりであった大岡昇平が、最も強力な批判者に転じたことを意味していたからである。
私は、小林秀雄が、ベルクソン論である『感想』で、「君たちには何もわかっていない」というとき、その傍らに、亀の子のように、黙々と、資料の収集をしている大岡昇平の姿が見えるように思う。
「わかる」とか「わからない」というような批評的言説に絶望した大岡昇平という作家の作業は、小林秀雄を神話化すると同時に、脱神話化しているように見える。
そして、その問題は、小林秀雄のベルクソン論である『感想』のテーマと複雑に絡み合っているのではないだろうか。
戦後、フィリピンの俘虜収容所から復員してきた大岡昇平を小林秀雄は喜んで迎え、大岡昇平に「従軍記」の執筆を薦め、大岡昇平は、小林秀雄の薦めから『俘虜記』の第1章にあたる「捉まるまで」を書いた。
そのようにして、作家大岡昇平が誕生するのであるが、小林秀雄は、大岡昇平に「従軍記」の執筆を薦めたとき、次のように言っている。
「とにかくお前さんには何かある。
みんなお前さんを見棄ててるが、お前さんのそのどす黒いような、黄色い顔色はなんかだよ」
と。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
次回も、このような感じで描いていきたいと思います😊
よろしくお願いいたします😊
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。