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まっすぐの雨【掌編小説/ママによるあとがき】
まっすぐの雨が降っていた。
一本の線のように、まっすぐ降る雨。
ざあざあと泣いているようだった。
あなたが生まれてから、まっすぐの雨に打たれることなく過ごしてきた私は、その存在を忘れかけていた。
夕方、娘がずぶ濡れになって帰宅した。
傘を持たせたはずなのに、手に傘はない。
私は制服を脱ぐよう言い、お風呂の追い焚きスイッチを入れ、それからバスタオルで髪や体の水気を拭き取った。
「大丈夫? 傘はどうしたの?」
娘は何も答えず、なんの抵抗もせず、されるがままだった。
いつもと様子が違う。
私は頭をフル回転させ、娘に何が起こったのか、あらゆる可能性を頭の中に並べつつ次々と消去しながら一つの答えに辿り着いた。
“娘は初めて、まっすぐの雨に打たれたのだ”
しばらくして、バスルームから出てきた娘は顔色は良くなったものの、どこを見るでもなくぼんやりとしていた。感情の揺れに思考が追い着いていないのかもしれない。
私はソファに座るよう促し、用意しておいたドライヤーのスイッチを入れる。
「まっすぐの雨に打たれたのね」
娘の体がぴくりと動いた。
「そして、傘をどこかに忘れた。でも、いいのよ。それで。ママも同じ経験をしたことがあるの」
私は髪を乾かしながら話を続けた。
「まっすぐの雨は、傷ついた心の悲しみを洗い流してくれる。だから、つらいことや悲しいことがあって、自分ではどうしようもなくなったとき、その雨に打たれることがある。起こってしまった出来事は消えないけれど、揺さぶられた感情の方は落ち着きを取り戻すことができる……」
娘は黙っていた。
「ママもあなたと同じ歳の頃、初めてまっすぐの雨に打たれたの。学校で嫌なことが続いていた。学校に行きたくなかった。ある日の帰り、電車の中に傘を置き忘れてしまったの。ざあざあと雨が降っていたのに。それで、駅から家までの道のりを雨に打たれて帰った」
ローテーブルの上に置いた鏡越しに、娘は 帰宅後、初めて私と目を合わせた。
「家に着くと、ママのママに、すぐお風呂に入るよう言われた。でも、お風呂から上がってもまだ涙が止まらなくて、私は混乱していた。その時、『まっすぐの雨』の秘密を話してくれたの」
「秘密?」
「そう。こんな風に言っていた」
『若いうちは心が脆くて折れやすいのです。それは成長の途中だから仕方のないこと。樹木の生長過程の脆さと似ているかもしれませんね。まっすぐの雨は、心が傷ついた人の、悲しみを洗い流す力があるのです。そして、一緒に悲しんでくれるのです。そのために雨は味方であることを伝えたくて、傘を忘れるよう仕向ける……。ただ、雨も自分で自在に降らせることはできない。風が吹くこともある。ですから、まっすぐの雨に打たれた人は幸運なのです』
娘はじっと正面を見て、何かを考えているようだった。
「それから何度か同じ体験をした。でもまっすぐの雨は、もう味方だって理解していたから、身を任せた。大きな音を立てて降る雨の中を泣きながら歩いた。そうしたら、気持ちが楽になった」
ドライヤーの風を止め、櫛を通す。
「まっすぐの雨に打たれて、ママは初めて気づいたの。自分が思っているより、心は傷ついているんだって。まっすぐの雨はあの頃の未熟な私に、それを知らせてくれたんだと思う。もう我慢しなくてもいいって言ってくれたんだと思う」
娘が少しだけ眉間にしわを寄せる。
「だからあなたも、もっとママや周りの人に甘えていいのよ。もう我慢なんてしなくていいの。もっともっと泣いて、ママに八つ当たりしたっていいのよ」
話し終わる前に、娘は子どもの頃のように、顔をくしゃくしゃにした。
「いいのよ。それで」
嗚咽が、胸に刺さる。
「つらいよね」
ソファの背中越しに、娘の肩をゆっくりと、ぽん、ぽん、と叩き続けた。
「いいのよ。それで」
いつの間にか、私も一緒に泣いていた。
ティッシュペーパーを何枚か抜き取り盛大に鼻をかむと、娘は振り返り、直接私の顔を見た。
私は少し照れくさくて、「今日はね、あなたの好きなオムライスを作ったのよ」と笑って見せる。
すると、「き、きのうも、でしょう」と娘は途切れながらも、私に抗議した。
「今日のは、卵がふわふわのタイプ。だって、あなたオムライスが好きだから」
「昨日、失敗したから、リベンジしたい、だけでしょう、ママ」ティッシュペーパーで顔を拭いながら、憎たらしいほどの可愛いい笑顔をのぞかせた。
「言うわね。仮に失敗したとしても、何度だって挑戦してもいいのよ。そうでしょう。一度や二度、失敗したからってなによ。ママは元来、不器用なのよ」
「開き直ってるし。それに一度や二度じゃないよね」
娘は鏡をのぞき込み、前髪がどうとか、乾かすのが下手とか、ブツブツと言いながら立ち上がり、キッチンへと向かった。
雨の音。
水道の音。
それから、卵を割る音がした。
©️2022 ume15
ーあとがきー
(著者の代わりに、作中の「ママ」が書いてみました)
誰かに悩み事を聞いてもらう。
それは、問題の根本的な解決にならなくても、気持ちが楽になったり、荒く波打つ感情を制御したりすることに繋がる。
意外と難しいのは、いつ、誰に、そしてどういうタイミングで話すのか、さらには自分の話を真剣に聞いてもらえるか、などだ。本題とは異なる点での悩みも尽きない、ということを忘れてはならない。
小説の中では「まっすぐの雨」によって、それを実現できたのだけれど、「ママ」が、ふだん悩みを聞いたり相談を受けたりしたときに気をつけていることを、2点だけ書いてみようと思う。
私は「 “いつでも“ 話を聞く」という、守れないかもしれない約束はしないよう心がけている。
話を聞くために会社を休むわけにも、誰かとの約束を破るわけにもいかないからだ。
つまり、話は聞く、けれども “いつでも“ という条件が難しいのだ。
もちろん優先させたい気持ちはあるが、こういうときに限って、緊急の事態が舞い込んだりするものだ。
その時、「いつでも、って言ったじゃない」と思われたら、信頼関係の崩壊である。これを挽回するのにはひどく時間がかかる。
もう一つは、話をよく聞いたうえで質問をするということ。
話し手の感情が昂っていると、何について悩んでいるのかが読み取れないことがある。
そこで、一息ついたところで、「あなたはそれについてどう思ってるの?」と考えを聞くようにしている。
これを聞かずにアドバイスしてしまうと、常識を振りかざしてしまうことになりかねないし、話を聞いてもらいたいだけなのに、余計なアドバイスをしてしまうことにもなりかねない。
かつて自分は無力だった。
これまで数々の空回りを繰り返しながら、私はやっと強くなれたと思う。
「いいのよ、それで」
実はこれは、私が、私のママから言われた言葉。
自分の言動だけでなく、存在も丸ごと肯定されたような気がした。
落ち込んでいた私の心に、浮力を感じさせる不思議な言葉だった。