消えた鍵は98個。 私は99個目の鍵を手に取った。 *** 99パーセントと100パーセントの差はたった1パーセントだが、突き詰めるとそれは、存在するかしないか、つまり有と無ほどの違いがある、とあなたはよく言っていた。 あなたは「100」という数字が好きだった。 「僕は君のことを100パーセント愛しています!」がプロポーズの言葉だったし。 *** 初めて鍵をなくしたのは、忘れられるはずもない、去年の夏。 梅雨が明けたというのに居座り続ける湿り気が、汗だけでなく
幾度となく見返した。 3冊のスクラップブック。 波打つ紙の端。 2年分の思い出がぎっしり詰まっている。 1冊目の最初のページは銀杏並木を見上げる君の写真。 肩の上で揃えた柔らかな髪が風になびいている。 タイトルは『告白』。 僕たちが恋人同士になった日。 君専用のスクラップブックを作ろうと決めた日でもある。 次のページはクリスマス。 ツリーの飾り付けをする君の後ろ姿を写したもの。 タイトルは『誓約書』。 ツリーは私有地である裏山のモミの木で作った。 その裏山は今、紅葉のシ
雨を聴く時間。 毎日、決まった時間に雨が降る。夕方の4時から5時の1時間。 街の雑踏は、3時59分には、第一楽章が終わり息を潜めながら次の指示を待つオーケストラのように、静かで礼儀正しい。 誰もが手を止め、建物に入り、窓越しに雨の音を聴く。それが安全だからだ。 雨は、亡くなった人の声を、雨音のしらべにのせて大切な人たちに届ける役割を担っている。 それにより、人は死を迎えたとき、雨の一部となって大切な人たちに別れを告げることができるのだ。 一方で、その声が届けられたとき
色の一部が沈殿した 窓の外は ブルートーンのビル群 君を失った寒色の世界 部屋の中は ダークネイビーが作る グラデーションの薄闇 脳の奥に沈殿した色を 僕は頭を揺らし 撹拌する スノードームのように 暖色におおわれ つかのまの弛緩 ……沈殿 頭を大きく振る 暖色はつかのま ……暗涙 ダークネイビーの薄闇と窓外のブルー 君を表現するための色が足りない さよならできない僕の心の色だけが この世にあふれている ©️2023 ume15 【近況】雪解け 以
子どもができなかった私は、その年、保険適用となった「卵」を育てることにした。 サリは卵から生まれてきたが、れっきとした人間の子。 けれども、たった1つだけ、私たちと異なる点がある。それは、老化のスピード。 卵の子は倍の速度で成長し、老化する。 *** 病院で卵を受け取ったとき、空っぽと知らず大きな箱を持ち上げたときみたいに、拍子抜けするくらいあなたは軽くて、この中に私たちの赤ちゃんが本当にいるの? と不安だった。 それにね、もし落としたら、と考えると手が震えてしまって
最後の日、私の瞳は涙で溺れた。 たくさんの涙が込み上げていたのに、外側へは流れなかった。涙は流れる向きを変え、目の奥の方へと吸い込まれていった。 やがて涙は私の内側に海を作り、私の瞳はその中で溺れた。 もしかして、瞬きをしたら防ぐことができたのかもしれない。けれども、瞳にあなたとの楽しい思い出が次から次へと映し出され、私はそれを1秒たりとも逃さず見ていたかった。 行き場を失った涙は、深いブルーの海を私の中に構築するのを最初の日から決めていたみたいに、何の戸惑いもなく私の
いぬいさんの夏企画「思いついたら朗読」に応募し、拙作『壊れる価値』を朗読していただきました。 いぬいさん、ありがとうございます! 朗読に際して、まるで文庫本の裏表紙にあるような素敵な内容紹介も頂戴しましたので、そのまま引用させていただきます。 いぬいさんの魅力はみなさんの知るところでしょう。 美声と巧みな技術、論理的で奥深い解釈に秀逸なセンスが加わり、物語の空間を自在に広げ、聴くものを新たな世界へといざなう。もうこれは一種の魔法。 実は、こちらのご企画はずいぶん前のも
ただ歩くだけでいい。 そう、ただ歩くんと一緒に歩きたい。 純白のバージンロードとその先の人生を。 でも、私にはもう自分の脚がない。 取り柄のない私が唯一誇れるのは、「脚」だけだったのに。 走るのが得意で短距離走で負けたことはなかったし、成長するにつれ脚はスラリと伸び、柔軟な筋肉が綺麗な曲線を描き、適度な弾力に富んだ脚だった。 ある日、ママが泣きながら言った。 家族のために、あなたのその美しい脚を売ってほしい、と。 パパが死んでからというもの、ママと私の収入だけでは、5人の
食べる、夜空を 食べる、夜風を 食べる、夜の気配を 「もう僕に昼は来ない」 視力を失ったあなたはそう言い放った だからわたしは「夜」になろうと決めた 夜の要素を食べ尽くし 夜しか生きられないあなたのために 昼よりもずっと優しい夜になる もう誰かの期待に応えなくてもいい 自分と人とを比べなくてもいい 一人で苦しまなくてもいい わたしがあなたの夜となって あなたを受け止めるから 昼は来ないかもしれないけれど これまで過ごした昼の蓄積は あなたの内側で融合され 恒星のような
「どうしても人を指さすときは慎重になさい」 成人した僕に、母がかけてくれた言葉。人を指さしてはいけない、と小さな頃から躾けられてきたのに、それを覆す一言だった。 『ばーか』 「何て書いたか当てろ!」 髪をくるりとアップにし、リラックスモードのアキラ。椅子に座る僕の背後で仁王立ちしている。 僕は言われるがまま、ホワイトボード化した背中を自由に使わせていた。 「『ばーか』です。ごめん!」 振り返ると、アキラは頬を膨らませることで不機嫌さを主張していたが、ついさっき食
六角形の池のほとりに 僕は佇み 四角形に池を切り取る 僕は少し歪んだが 慌てずそれを矯正する 次は円形に挑み からだを順応させようと試みる そんなふうに僕は生きてきた 池の中で見つけたのはおたまじゃくし リズミカルな尻尾の運動は 落ち着きのないメトロノームのよう 脳を刺激する 指が半拍遅れてリズムを刻み セッションがはじまる それは単なる電気信号が 快へと変換される瞬間だった きっと これからもずっと 僕はなにかに囚われながら 社会や他者の影響を受けながら 少しずつ変化し
いつの日からか、仕事が終わり帰宅する頃には、僕のポケットは「燃えかす」で一杯になっていた。 燃えかすの存在に気づいたのは、中年といわれる世代になってから。多少のショックはあったものの、極々少量だったし、不自由さも感じていなかったので、ポケット内に溜まったゴミと同程度の扱いをしていた。 けれど、歳を重ねるごとに燃えかすは徐々に増えていき、今では一日でポケットが一杯になる。 そこで僕は、60歳を機に、燃えかすの自己管理を始めようと決意した。 もえ-かす【燃え
僕は「銅像」だった。 またダメだったのか。 僕は裸で岩に座り、なぜか左膝の上に右肘をついている。 この銅像の名は、芸術に疎い僕でも知っている。絶望的に落ち込んでいる僕とは裏腹に、見た目は、思慮深く「考える人」になっているんだろうな。 視界が限定的なため、詳しい場所はわからないが、ここからは海が眺望できる。高台に建てられているのだろう。 君は「カモメ」になったんだね。 水面を蹴って舞い上がり、風を切って飛行する。気持ち良さそうだ。自由に飛び回ることができて羨ましいよ。
「からだが、思う、もうように、うごき、きま、きません」 昨日届いたもみの木の前で、形状を変えられずにいる物体。 板の間の上で、ガタッ、ゴト、ゴトンと不連続な音を立てている。 買い出し用の荷物を抱え、土間から家に入ると、もがきながらそう訴えていたのは、シズムだった。 「壊れたのか?」 「ごめ、んなさ……」 シズムは僕が大事にしているオーナメントの一つだ。 何かエラーがあったのだろう。ボディに細かいひびが入り、壊れかけた天使のような形をしている。 「荷物を片付けたい
踏み心地の悪い地面 数十センチメートルごとに 地面が隆起している 進むたびにバランスが崩れ 体がふわふわする 頭がくらくらする 体が不安定になって それが心にも伝わって 自分を見失いそうになる これはわたしが選んだ道 自分が望んだこと だから投げ出したりはしない 隆起した地面での訓練も 平衡感覚を養うため それもあと少し 十二月は目前 ここは豪雪地帯だから 雪上での訓練も始まる 活動の中心は空なのに あらゆる場面を想定して訓練する 見る人の期待を裏切らないために
秋に溶け入りたい そうしたら 冷えたわたしの体が 温かく感じられるかもしれないから 秋に溶け入りたい そうしたら 冷めたあなたの心も 温かく感じられるかもしれないから 秋に溶け入りたい そうしたら 同じ温度の心と体は 深く混ざり合えるかもしれないから あなたは秋 拒絶するような虚空の高さに 手が届くはずもなく 少しばかり急ぎ足で動く大地に わたしは抵抗しながら天を仰ぐ 空気は当然のように澄んでいて 肺の中に秋を吸い込んで