万人恐怖 富士の旅③

※前記事の続き。
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9月18日は駿府入りした足利義教一行は翌、19日はそのまま駿府城へ留まり、酒宴を開いて歌会をし、富士遊覧を楽しんでいたようです。

足利義教「朝日かげさすよりふじの高ねなる 雪もひとしほ 色まさるかな」

対して、今川範政の返歌
「くれなゐの雪をたかねにあらはして 富士よりいずる朝日かげ哉」

この富士遊覧では随行した公家や武家達の歌が残されている中、武家では今川範政が結構多い気がします。おもてなしする側というのもあるのかもしれませんが、今川家が和歌に優れていた事がここからも伺い知れるように思えます。

翌、20日は清見寺にて富士を眺め、舟遊びなどをしたようです。
足利義教「関のとはささぬ御代にも清みがた 心ぞとまる三保の松原」

今の景観では三保の松原を清見寺から望むことは難しいですが、義教の時代には海との景観が素晴らしかったのでしょう。

方向合ってるかな…

義教は明との国交を復活させた時も兵庫に明船を見物しに行ったり、琉球からの使者や献上物を喜んだり、海と最果ての地に想いを馳せちゃう所があるんじゃないかってうちは思ってしまいます。

京で生まれ育った義教にとって、海は珍しく遠くへ想いを馳せてしまいたくなるのかも。

三保の松原は今回行けなかったけど、機会があれば行ってみたい。

清見寺はこんな感じです。
いへやす縁の寺ということもあり、徳川に持っていかれてます。寺紋も葵紋。

清見寺は南北朝期に荒廃していたのを足利尊氏が伽藍を整備し、寺号を改め厚く保護した事から守護の今川家からも保護され、今回の義教の富士遊覧など大いに繁栄しました。

清見寺には尊氏坐像や尊氏が描いた地蔵菩薩の絵が伝わっているそう。


梶原景時ゆかりの血天井もあります。
梶原景時は京へ向かう途中、鎌倉幕府軍と清見関で遭遇しこの地で戦い、自害します。大玄関の天井はこの時の戦いの血痕が残る古板が用いられたと伝わっています。今年の大河ドラマ紀行でも紹介されていました。


ちなみに先程載せてた義教の和歌は清見寺のパンフレットにも西行や豊臣秀吉の和歌と並んで紹介されております。

清見寺は潮音閣からの眺めも良くて、庭園も素敵なこじんまりとしたお寺。
ゆるりと足利家に想いを馳せることが出来ました。

続く。

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