チーちゃん
近所の病院に、インフルエンザの予防接種に来ている。病院は新しく建て替えられ、新しい先生が診察される。小児気管支喘息だったわたしは、先代の先生によくお世話になった。
待合室でぼんやりするうちに、ふと思い出がよみがえってきた。
「チーちゃん、今日はどうしたの?」
にこにこと四角い顔の先生がわたしに呼びかける。先生は、とても優しかったけれど、必ずわたしの名前を呼び間違えるのだ。
初めは、先生の間違えを正していたが、だんだん呼び名くらい、どうでも良くなってきた。だから、わたしはその場では、「チーちゃん」だ。付き添いの母も何も言わない。
「しんどいなぁ。吸入してこうかぁ。」
先生が言う。
わたしはうなづき、診察室横の椅子に腰掛ける。母は、待合室へ帰っていく。看護婦さんが、注射器を用意するのがみえて、わたしは思わず立ち上がった!
注射…そんなん聞いてない。嫌だ!どうやって、逃げよう…今は苦しくて、走れんし。
固まっていたら、先生が言った。
「チーちゃん、あの注射は機械にするんだよ。チーちゃんにはしないよ。」
そうなんだ。よかった。この先生は嘘は言わない。わたしは素直に椅子に座り直した。先生は時々、魔法使いみたいだ。わたしの気持ちをぴたりと当てる。
吸入を終えると、呼吸が幾分か楽になった。
「しんどかったら、いつでも来てね。」
「小林ムウさぁ〜ん。」
はっ、とした。名前が呼ばれている。わたしは慌てて、診察室へ向かう。
廊下の飾り棚には、満面の笑みを浮かべた先生の写真がある。
診察室には、新しい先生が待っていた。あの先生の娘さんだ。
「お待たせしました。小林ムウさん、今日はインフルエンザワクチンでしたね。」
優しい笑顔が、先生に似ている。
でも、名前は呼び間違えてはくれない。