見出し画像

美しき鬱映画。あなたがギリギリ見ていない3選。

こんばんは。デザイナーのKOJIROです。

映画が人並みに好き。

映画のいいところって、自分自身は安全な場所にいながら、
日常では味わえないスリルを味わえる点だとおもう。

しかし、様々な仕掛けによって「あれ?これ自分がこうなってもおかしくなくね…?」といったように
自分自身のいる場所への安心感を喪失させる魔力を秘めている映画が存在する。

その臨場感を体感したくて、何度も繰り返し見てしまう。

そのような映画には共通点がある。
ただの鬱展開だけではなく、
「孤独」「社会とのズレ」「異常性」などという言葉で表されるような、日常の延長線上にある違和感を
それぞれの手法で美しく描写している点だと考える。

そんな映画を3つほどご紹介したい。

※1と2は、暴力的な性描写を含む。苦手な人は視聴しないほうがいいかも。

1.「Focus」井坂聡 1997年


これは怖い。めちゃくちゃ怖い。

まず浅野忠信の怪演が見事すぎる。そして、超ロングカットの連続という、奇抜なPOV手法が面白い。
だんだん盛り上がる系が好きな人におすすめ。

あらすじ

浅野忠信演じる盗聴マニア「金村」を取材し、変質者に仕立て上げるテレビ番組。
そのお蔵入りになったフィルム映像という、いわゆる「擬似ドキュメンタリー」形式の映画。

金村はバレない範囲で他人の発する電波を拾い、日常会話や警察の電波などを盗み聞きすることを趣味にしている。
だから、なにか国家転覆などを企てたり、性犯罪を起こそうなどということではない。あくまでただの趣味。

しかし、番組のディレクター達は、まさにオタクという感じでキョドリまくる金村青年に対し、やらせで金村青年を異常者に仕立て上げようとする。(やめたれ!)

彼らは、徐々にフラストレーションを感じ始める金村の変化を、気にも留めない。

そんな中、ディレクターと金村たちは、
暴力団が拳銃を受け渡すための通話をキャッチしてしまう。

拳銃が隠された駅のコインロッカーと、それを開けるためのカギの場所を知ってしまったディレクター達。
視聴率ほしさに、イヤがる金村にそこへ向かわせ、無理やり拳銃を触るように指示する。

ただのオタクである金村は、ただでさえ取材に嫌気が差しているのに、
犯罪に関わることなど論外。

そして映画の後半、、
ある事件をきっかけに、事態は大きく動き出す。

抑えていたフラストレーションを爆発させ、金村は暴走。
怒涛のような展開に、ひたすら寒気が止まらない。

[感想]金村はどこにでもいる。


どこにでもいるフツーの人間の、頭のネジがふっとんだ様子は
貞子よりも、エスターよりも、ハンニバル・レクターよりも怖い。。


この映画は70分と短めだが、POV(Point of View)という映画編集方式を取っている。
撮影しているカメラマンの主観映像で展開する手法。
しかも全編で10カット程度しかない超ロングカットが続くため、自分自身がその場にいるような臨場感が尋常じゃない。

見ている我々も、だんだん傲慢になっていくディレクターに対して
しっかり嫌悪感を抱くことが出来る仕組みになっている。
また、後半に豹変してしまう金村の行動にも、ちゃんと同情できる。


金村は、倫理観が多少ずれているが、
それ以外はどこにでもいるフツーの青年である。

たぶん、金村だけが特別じゃない。
誰でも、他人に言えない趣味・嗜好って持ってると思う。
触れられたくない領域にズカズカ踏み入られるのは嫌だ。


そして報道の自由、表現の自由とはいうけど

懸賞だけで1年以上も孤独な生活をさせて、ドッグフードで命を繋がせるバラエティ番組や、
自殺した芸能人の自宅にモザイクなしでズカズカ押しかける報道陣もいるらしい。

面白い/感動的なコンテンツを作るためなら、人はなんでもするらしい。

世の中、フィクションと思いたいものばかりで溢れてた。

2. 「PERFECT BLUE」今敏 1998年


海外でも高い評価を受けるアニメ作品を多く世に送り出した今敏の初監督作品。
「パプリカ」「千年女優」に見られるように、
現実と夢想をボーダレスに描写し、視聴者を心地よいカオスに巻き込んでいく、今敏作品の独特な作家性の原点ともいえると思う。

あらすじ

アイドルである「未麻」は、事務所の意向で女優に転身することに。

実家にいる母や、マネージャーのルミは
未麻が本当に「歌うこと」を愛していことを知っているから、女優への転身を反対する。しかし本人は、チャンスを掴むためにドラマへの出演を決意するのだった。

引退を宣言した、アイドルとして最後のライブでは、
彼女を自分の手のひらに乗せるようにして眺め、
ニンマリと笑みを浮かべる警備員の姿が(アニメなのによく、ここまで嫌悪感抱かせられるなぁ…と感心するくらい、キモい)。

ライブが終わり、彼女は車に乗り込むが、ひとりの熱狂的な信者がファンレターを渡してくる。

そして、言われる。

「いつも未麻の部屋、のぞいてるからねぇ〜〜!^^」


ギョッとしながらも、自宅でファンレターを開ける未麻は、
「未麻の部屋」というのが、アイドルとしての未麻がネット上で書いているブログであることを知る。


しかし書いているのは本人ではなく、全くの赤の他人である。

いわゆるなりすましに辟易しながらも、ファンに「のぞかれている」のが実際の自分の部屋ではないことに安堵する未麻。
(分厚いMacでブラウザを立ち上げる描写は、90年代インターネット黎明期のノスタルジーさが垣間見れて、なんか良い。笑)

しかし、その記事の中身は

「今日は嫌なことばかり!いつも電車を降りる時、右足からって決めてるのに左足から降りたからかなぁ…」
「スーパーで買い物!牛乳は、牛印が一番だね!」
「大好きなグッピーちゃんにエサをあげなくちゃ!」

など、現実の自分自身、
または本当に近しい関係の者しか知り得ない情報だった。

そしてアイドル引退を発表した日には、
女優になるのは、本当は嫌。事務所の意向でしかたなく転身したの。だれか助けて…。」

女優への転身を自分の本意ではないという趣旨の記事を書いていた。

自分の知らない場所で、自分が暴走し始めていることに対し、「こんなの私じゃない!」と激昂する。

しかし、それは本当に未麻が思っていないことだったのか。
人がだれかに対して怒りの感情を抱くときは、劣等感や潜在意識に潜むトリガーを刺激された時ではないか。

小さなMachintoshの画面ごしにいるのは、自分ではない誰か。
しかし、認めたくないけど、その人物と自分自身は潜在意識のレベルで極めてシンクロしているのである。

そこから、赤の他人であるはずのなりすましブログと、
自分自身との境界が曖昧になっていく。
目の前に現れる、アイドルの格好をしたかつての自分自身が今の自分を揶揄してくる。

そんなある日、ファンから送られた手紙に仕込まれた小さな爆弾が破裂し、マネージャーが怪我を負ってしまう。
中の手紙には、「次は本物だ!」の文字。

疑心暗鬼になり、未麻の精神状態は不安定になっていく。


そして、性暴力シーンを含む作品へのオファーを断れず、やむなく出演することをきっかけに、事態は加速していく。


ドラマの撮影で、擬似的にとはいえ性暴力を受けた未麻は、
自分のなかで何かが弾け飛んだ。
自分が自分ではなくなっていく感覚、解離性同一性障害を想起させる描写が続く。

そして、未麻の周りで不可解な殺人事件が多数発生。

夢-現実、芝居-現実、自分-他人の区別が
ボーダレスに往来することで、
殺人を犯しているのが、自分を狙う誰かなのか、自分自身なのかがわからなくなっていく。

[感想]自己同一性崩壊の描写が凄すぎる


しだいに自己同一性を失っていく主人公の精神描写が、凄い。めちゃくちゃ凄い。

今敏ののちの監督作品「千年女優」にも見られるんだけど、"劇中劇"というシステムが多用されている。
映画の中で起こっている出来事が「主人公が女優として出演している映画の出来事でした!」みたいな描写が続くことで、視聴者を疑心暗鬼に陥らせる演出。

そんな"劇中劇"の描写に加え、90年代に登場したインターネットをモチーフにした現実の拡張によって、
自己同一性が曖昧になっていく過程を丁寧に表現した描写は、アニメーションでしか描けない精神世界の境地に達していると思う。

そして、ちゃんといたるところに伏線も貼られている。

未麻ではない人物が、ほんの一瞬だけ「未麻視点でものを語るシーン」が存在していたことに気づいた時は、今敏の作家性に打ちひしがれた。

そのシーン、見ているときは、若干の違和感を感じる程度で、「感情移入しやすいタイプなんだなぁ」と思える程度。
でも結末を知った後に思い返すと、
ちゃんとゾッと出来る。めちゃくちゃ上手いと思った。


世の中には、辛い出来事から逃れるために、自分のなかにもう一人の人格を作りだす「解離性同一性障害」という精神疾患が存在する。
高校の時に読んだ、有川浩の小説「空の中」で初めてその存在を知った。


あとは、ラッパーのGOMESSが自閉症によって自己同一性を失ってしまう過程を丁寧にラップにしているLIFEという曲があるので是非聴いて欲しい。

自分が自分ではなくなっていく感覚。
その恐ろしさ/違和感と付き合っていくしかないというのは想像できないくらい辛いことだと思う。その苦しみを芸術として昇華することができたから、GOMESSはある意味では救われていると言えるのかもしれない。

PERFECT BLUEは、精神的な世界をアニメーションで表現することで現実とは切り離した描写をしているが、
あくまでこれらのことは現実と地続きであると思わせてくれる作品だと思う。

3.「映画:フィッシュマンズ」2021年


日本が誇る伝説のバンド「Fishmans」。

ボーカル佐藤が死去して20数年、
Fishmanのはじまりから現在までを追ったドキュメンタリー映画が誕生した。

あらすじ

90年代の東京で、フィッシュマンズというバンドが誕生。
プライベートスタジオで制作された「世田谷三部作」や、ライブ音源「男達の別れ」などをはじめとして、日本にとどまらず世界中で評価されている。

しかし、その道のりは平坦ではなかった。やっとの思いでリリースされた1st.アルバムは全く売れず、不調が続く。
ボーカルの佐藤伸治は、一度曲づくりをはじめたら誰にも姿を見せないほどに精神世界に没頭する。そして、徐々に神経をすり減らしていく。

さらなるセールス不調、レコード会社移設、相次ぐメンバー脱退。
そして1999年、ボーカルの佐藤は死去する。

Fishmansとして、一人残された茂木欣一は、解散せずに佐藤の残した音楽を響かせ続けることを選択。
その思いに共感する仲間たちが集まり、Fishmansは活動を続けていく。

[感想]希死念慮


これは正直、「鬱映画」という括りで片付けたくないかもしれない。

僕はFishmansというバンドが大好きで、大学の頃にはじめて故・佐藤さんの歌う「ずっと前」を聴いたときから、
変わらず僕の中で輝いていて、一人ぼっちの夜にも寄り添ってくれている。

Fishmansの楽曲は、夢なのか現実なのか、
さらに言うならば、生きているのか死んでいるのかが分からないような
浮遊感
に誘ってくれる。

就活のとき、故・佐藤伸治の代わりに、ゲストボーカル原田郁子を迎えたFishmansのライブに行った。
始まった瞬間、ステージと観客の間に三途の川があるような、
夢の中で浮遊しているような世界に、激しく興奮した。


そんなに好きなら、なぜこの映画を「鬱映画」などというタイトルの記事の最後に書いたかというと、ちゃんと理由がある。

劇場で、この映画を2回見たあと、佐藤さんの「死」にすこしだけ引っ張られてしまい、漠然と希死念慮に囚われてしまう時期があった。

映画終盤になるにつれ、神経衰弱を起こし、だんだんと死の匂いを漂わせていく佐藤さんに、
自分はアーティストでもなんでもない癖に、
なんだか、激しく同調して落ち込んでしまった。

佐藤さんにとって最後のライブである「98.12.28 男達の別れ」
ベーシスト柏原譲の脱退が決まったため、このようなタイトルになったが、結果的にライブ後に佐藤さんは亡くなったことで、男達の別れというタイトルは皮肉にも「佐藤伸治」という男にとっても別れのライブになってしまった。

その音源は、なぜか今になって海外のサイトでものすごくバズっているらしいが、僕はその音源が本当に大好き。
なかでも30分を超える「LONG SEASON」という曲は、ずっと聴いていると本当に精神世界に吹っ飛ばされてしまう。大好き。

映画の中では、「男達の別れ」に足を運んだU.Aやハナレグミなどのアーティストや、ライブの共演者たちが
会場の空気が気体ではなく、液状になっているような重厚な手触りや、サム気がするほどの異様な精神の昂りを感じたと話していた。

ライブの中では、涙ぐみながらMCをする佐藤さん。
音源しか聞いたことがなかったから、表情を初めて見たとき少し悲しかった。
当時を振り返るマネージャーや関係者へのインタビューも通じて、佐藤さんがこんなに苦しんでいたことを知り、
自分が辛い時に救ってくれたあの歌は
本当に苦しみながら、心の底から吐き出した曲だったんだなぁと。

今の世の中は、サブスクリプションで、簡単に音楽に出会うことができる。
AIが選んだ曲は、僕の好みにストレートに入ってくる。超便利だし、音楽を時代やジャンルという括りで考えなくても良い、ボーダレスな聴き方が出来るようになっているのではないかと思う。

しかし、そんな一つ一つの楽曲は、あらゆる命の重みが乗っかっている。

僕がさっき聞き流していたあの歌は、だれかの精神の結晶だ。

人の人生を変える、人の心を動かすモノって、
そうやって作るものだ。

Fishmansは、佐藤伸治はそんなことを教えてくれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?