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遠回り〜自分が気分よくいることを拒まない〜 ↓追記あり

ー自分の考えを整理する過程をそのまま書いているため、追記修正もありますー

奥平亜美衣さんがずっと仰っているけど、結局自分が気分よくいられるかどうかが全てなんだなあと思う。

自分が日々の生活の中でしていることって何だろうって考えた。「自分のしてきたことや、今の在りようを、いかに今までと違う角度で見られるか、世間体とかのフィルターを外して、まずは肯定できるか」ということを自分にも周囲の人にも働きかけるようにしようとしていること、それを続けてきている気がした。で、その答えを見つけるたびに現実世界に反映させることが、面白くてたまらないと思いながら日々を送っているのが、自分だった。

でも、ここ数年は迷走続き。ついつい他者の評価などを求めてしまっていたからだろうか。望まない場所にとどまり続けてしまった。たくさんの学びや気づきはあったけど。あまりに心ではここにいることを望んでいない場所だった。
最後の2年間はもはや、「ここは自分が望んでいないところだということに気づくためだけに」そこにいたということかもしれない。

とにかくステイタスやブランドが重視される場所で、たくさんのものを持っていることに意味がある、能力、男性性をアピールし続ける必要のある場所だった。私は数年前から、男性性より女性性優位の生き方にシフトしてきていて、それがほぼ完了というか、かつての生き方が自分ではない他人のもののような気さえするところまで来ていたので、本当に無理をして、自分の心身を傷つける暮らし方をせざるを得なかったのだなと思う。

私は、一人ひとりの顔が見えない社会のために働きたいわけではないのだと思う。あり得ないほどの経費削減と、個々人のパフォーマンスアップを無慈悲に日々要求してくる、実体の見えないものの要求に応えるために日々働きたいのではないと思う。

前回自分が書いた「本音に蓋」の一部


前回ダラダラしていたいのが本音だと書いたが、本当のところはちょっと違っている。
なんかこう、、、「自分が気になっていることを突き詰めて考えているうちに、すべきことが後回しになるので、結果的には『ダラダラした』ことになる」というのが実態に合っていると思う。自分が突き詰めたいことは、時たま仕事で役に立つこともあるけど、いつも仕事に直結することでもない。どちらかというと、効率主義、資本主義の世の中、特にこれまでの社会では「そんなこと考えてたら、社会は回っていかない」と思われるようなことだったかも。

成果がほしいといいながら、打開点となりうるものを探るための試行錯誤は好まない、それが今の効率主義。「考えさせない」ことが今の社会の至上命題だとしたら、自分はその逆をいっていることになるので、何かとやりづらいんだろう。

最近のミニマリストやシンプリストの考え方は、進化のしようによっては、これまでの社会のありように合わないものだと思う。だからなのか、どこかでこれを逆手に取って消費の対象にしようという動きもあるような気がする。ミニマリズムの消費という謎の現象が起きている、ということ。ここでは深掘りしないが。物を絞り込むことばかりに注力するのはまた、自分の心地よさや気分のよさを否定することもありうる、と知っておかないと怖い。

自分自身は、目の前の人や物、目に見える空間の整理をしていたい、それを望んでいるのだなと思う。暮らしやすい空間、働きやすい環境、行動しやすい思考パターン。一見バラバラに見えて、自分がやっていることは、全て環境の整備なのだった。そのために、状況をじっと見つめて、「ここだ!」という打開点を見つけること。見つけた瞬間の楽しさたるや。その気分のよさのために、自分は日々動いているんだなと思う。

自分が気分よくなければ、他者に対して 本当に丁寧に接することもできないし、丁寧な仕事もできない。何より自分に失礼だ。これまで疎かにしてきた「自分が気分よくいること」を最優先事項に、そして、自分が大切にしたいこと面白いと思えることを、自分の中では真ん中に据えて生活していれば、世界の見え方も違ってくると思っている。

遠回りばかりしているが、意識していれば、自分とちゃんと仲良くしていられる。なので、周囲でいろいろなことが起きていても、自分と手を離すことのないように生きていたい。

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