愛とは何かを言い伝えるために言葉を尽くす
どんな言葉でも、人の心に響かないなら意味がなくて、世の中を変えるには人の心に振動がなければいけない。それが小さな波紋となり、やがては大きなウェーブとなって世の中に響き渡る。
政治論や陰謀論ってとても冷たくて、それを語ることは愛としての言葉を使うことじゃない。だから自分としてはあまり好まない、好まないけど、誰も言わないことを言わなきゃいけない。
自分はどう思われてもいい、だからこそ荒唐無稽だと思われるような、妄想のような認識をされるような話を堂々としている。そこに迷いはなくて、それも誰も言わないことの1つでもあるから、話すことに躊躇はない。
愛するとは、その人の全てを愛することであって、自分に従わせる事が愛ではない。
思想主義が合わなくても、受け入れ愛する、しかし間違ってると思うなら素直に言う必要があるし、徹底して議論をする必要がある。
それでも相手を屈服させ従わせるなんて、そんなことやっちゃいけないと思う。大事なのは愛と許しと正義、義と道徳心があるかどうかであって、怪しむから陰謀論を信じるとか、政治論を振りかざしマウントをとるとかではない、別なところに答えがある。
そんな対立のために、夫婦や親子で分断して、さよならするなんて、本当に世界の終わりになってしまう。愛を失うから世界が終わるわけであり、大切な人にさよならと言えば、それは全ての終わりとなる。
だから誰にもさよならなんか言わせない、さよならを言うのは自分1人だけでいい。自分が最後にさよならをする、世界が終わるのは自分だけでいい、他の誰もさよならなんか言わなくていいんだ。
人が思い描く夢って、誰もがみんな仲良く笑って生きてる光景だと思う。そこには悲しい顔をした人なんか1人もいなくて、みんなが幸せで満たされてる世界観、その感覚が全ての人が持ってる夢、希望なんだと思う。
そこに保守とかリベラルなんか関係なくて、思想主義なんか何にもいらない。知識自慢も承認欲求もなんにもいらない。
誰も憎むことないし、怒りにうち震える必要もない。誰かを憎めば自分も憎まれるだけだし、誰かに怒り罵れば自分も誰かに怒り罵られる。殴ったら殴り返される、怒りの連鎖とはそういうもの。それが全ての人を生きにくくしてる。
罪は消えない、だから悔い改めるしかできない。真っ白の衣を纏っても心が真っ白く浄化されるわけでもなくて、一度汚した心は元には戻らない、戻らないから悔い改める。罪を背負って新たな自分として今を懸命に生きること、そのために我々は存在してる。
罪を背負っていても幸せを求めることは赦されてるし、全ての生命、人々は幸せを求めるために生まれてきた。愛を貰い、愛を与えるためにこの世界に生きている。
愛で生まれ、覚りによって欲望に渡し、欲望で愛を欲し、愛は覚りへと渡し、欲望は愛へと変わる。
自分は人一倍一途な愛にこだわる。どんなことがあっても裏切らないように、決して手を放さない、いつまでも手を繋ぎ引っ張り続ける。この命が燃え尽きるまでずっと、一途に離すことはない。
本当の愛とは、繋がり続けること。たとえ物理的な何かによって離れたとしても、本当の愛は心が離れる事はない。
一生懸命になればきっと伝わると、守れると信じ続けること。諦めちゃいけなくて、どんなに不可能と思えても諦めずに想い続けてれば光は降り注ぐ。
何を言っても伝わらなくても、いつまでも塞ぎこんで、1人泣いてても、それでも諦めてはいけなくて、あきらめて、さよならしてしまえば世界の終わりになる。
手を離すことは、愛を失うこと。
お金だけでは手に入らないもの、決して満たされることがないもの、それが目に見えない大切な何か。
それを知るために悔い改めて、決して消えない罪を受け入れ背負う覚悟を持つこと。それを否定せずに受け入れたなら心は清らかとなり、キラキラと光る小川のようなせせらぎを放つ光を生み出す、心の中にある木製の杯が見えてくる。それが聖杯であり、そこから流れ出るものが神の心、愛。
太陽の光を浴びているような、暖かな温もりと優しさに包まれ心地良い感覚を持続させてくれるのが、愛である。
大きな焼きたてのふっくらした食パンの上に乗っているような、暖かくてフワフワとした何とも言えない幸せな感覚。体が透き通ってるような清々しさと浮いているような心地よさ、その感覚が天の国にある幸福なもの。
心の苦しみを乗り越えるために、自身の罪を背負い認め、受け入れ悔い改める。迷うことなんかない、神の赦しの門は常に解放されている。2匹の獣、ゴクマゴクの許しの壁は越えられる、必ず。
愛とは、多くのカルト宗教が教え言い伝えてきたような欲望みたいなものじゃない。確かに欲望の感覚は愛に似ているがまったくの真逆で、愛を受けるのが欲望だから、その欲望だけに頼ってもいずれは空っぽの器になる。
愛を生み出すのが欲望であり、欲望を生み出すのが愛、だから欲望だけでは愛は生まれない。その愛を渡すのが覚り。
太陽が生み出し月が渡し地球が消費する。
愛は天照となり、月はツクヨミ、地球はスサノオ。鏡、勾玉、剣、その三種の神器に見える三位一体の概念こそが神そのもの。
契約の箱もまったく同じ概念。マナの壺が生み出し、2つに割れた十戒の石板が渡し、アロンの杖で消費する。消費したものはマナの壺から生み出される。
この3つの力が、三倍偉大なヘルメストリスメギストス、3つの力を制した光の人、この世界の神秘的な全てのものを残した最高の賢者、神の使い、天よりの使者、天使。
彼等は今も静かに我々を見ている。この心の中の全てを見守ってくれている。
隠すことなんか何もない、誰を愛してもいい、想ってもいい、そこには神による赦ししかなくて、人間の支配など絶対に及ばない領域。
自然発生的なかけがえのない感情は神が与えてくれた本能であり大切な喜怒哀楽。誰かを愛してはいけない人なんかいない、誰もが愛する自然権がある、この心の世の全ては我々の自由なんだから、何者にも支配される必要なんかない。