今現在の保守と自称する全ての人達は極右と極左のマルクスシオニズムに感化され、陰謀論洗脳されているだけのカルト集団
とにかく自分はあらゆる偏見を許容できる性格ではない。はっきり言えば左右で対立した醜い争いを心底好まない。だから極右と極左の極端に偏った持論、主張を見るたびに憤るし怒りがこみ上げてくる。
その二極の思想主義がどうしても好むことができず、そんな集団意識になど絶対に属したくはない。なぜそんなものに属する必要がある、なぜ全体主義にならなければいけない、そんな思想主義に従わされる筋合いなどない。
そのあらゆる何々主義に属すことそのものが何者かの支配下となるので、今後世界がどんな風になっても、天地がひっくり返っても思想主義には絶対に属さない。新自由主義でもなければリバタリアンでもない、ナショナリズムでもなければリベラルでもない。自分は自分として個で生きて行く。
参政党に関しては松田氏の思想主義に感化された神谷氏の頑固さが気に入らないし、反LGBTに反グローバリズム、夫婦別姓に反対など、殆どの主張が統一教会カルトムーニー洗脳信者と同じ。一方れいわ新選組の側も極端な発想で政権批判ばかり繰り返すし、口の悪さは極右極左どちらも同じ。
他野党支持者も同じで、比較的おとなしいのは現在の自民党支持者。今の政治において思考がまともなのは今の自民党を応援してる人達だけにしか見えてない。なぜかと言うと、参政党や他小さな陰謀論カルト、維新の会のような右翼政党や、れいわ新選組や立憲のような左翼政党全てにおいて不快な偏見意識のあるアカウントの言葉ばかりがTwitterX上で羅列される。それを見るたびにうんざりするし憤る、嘆かわしくて憂鬱になる。
なぜそこまで極端になるのか、なぜ互いに許容し許しある意識を持つ姿勢を示さないのか、自分にはそれがまったく解らない。右や左にぶれたらそれが絶対とする政治活動を行い、互いに罵り合って見下し馬鹿にして揶揄して論破合戦のような事ばかりする。
LGBTが嫌いなら徹底して排除しようとするが、その当事者である人達の心を無視して一心不乱に持論を展開して政治的な熱い想いを語っているように見せかけ、偏見主義を堂々と主張し人々をその意識に引きずり込もうとする。そんなことやってるから偏見意識、差別主義がいつまでたっても消えない。
心の問題を攻撃してどうする、偏見的な意識でただ自分達の思想主義に属さない者を政治的な批判に絡めて利用し間接的に罵るやり方。騒げば騒ぐほど彼等偏見者の口調はより過激になるとするが、ほっといても勝手に過激になって行ってる。こんなもの放置してると本当に区別と屁理屈の分別をされた差別主義が当たり前とされまかり通る。
自民党の法案は理解促進法としてあるもので、差別するなと決まりを作るための法案ではなく、理解し排他主義の対象、矛先にするのはやめましょうとする案、提案。しかしそれを執拗に批判し攻撃すると言うのは、自分達はLGBTを嫌悪し差別したい意識があると言ってるのと同じで、人の心なんか関係なく、全体主義で日本人はこうあるべきであるとする多様性を排除しナショナリズムをごり押しするための差別意識。
とにかく参政党の主張の殆んどが統一教会やプロテスタント極右意識を持つカルト集団とまったく同じ。それはもはや政治ではなくカルト教義の洗脳布教活動そのもの。
確かにユダヤ教やイスラム教が基本になる国、中東地域、イスラエルにもソドムとゴモラから作られたソドミー法のようなものはあるが、それも偏見中心の人間の考えた差別主義法に他ならない。
ソドムとゴモラは必ずしも同性愛を戒めたとするものではなく、人の心の腐敗、不道徳を表現したもの、人の心が荒廃した街の表現の意味がある。同性愛だけを罰としているわけではなく、その意味は不道徳なる行いについての言及になる。福音派は聖書に書かれている内容、言葉をそのまんま受け止めるから頑固に偏見的な人間の意識としての宗教思想主義を作り上げた。
人を愛する自由は何者にも奪えない絶対的なる自然法の中にある普遍的で永遠なる自由。そこに性別など関係ない、心が男でも女でも、心のプラスとマイナスが引き寄せられ特別な想いを互いに抱いたなら、それは特別な男女間の愛と同じもの。
恋も愛も何者にも邪魔などできない絶対的な自由意思。そこに人間の支配など必要ない。
それを理解しましょうとする考えを法案として行うなら、何をそんなに批判し反発する必要があるのか。理解するとする意識を持つ事がそんなに悪いことなのか、人の心の悩み、問題のために理解を深めようとするのが何故それほどおかしなことになる。
他者の心や苦しみを理解しようともせず一方的に排除の対象としようとしている方が、ソドムとゴモラに見える。愚かなのは間違いなくLGBTに対する偏見的な意識を持つ者達。
自分は偏見的な意識も持ってないし、差別主義でもない、しかし過剰なリベラル主義者のポリコレなど振りかざさない。容姿の美しさの特権も美しいと素直に認めるし、エンターテイメントとしての表現に規制をかけるなど許容などしていない。場合によっては作品がつまらなくなるのは知ってるし、自粛が過剰すぎると何事も面白くなくなる。
しかし、自分の思う美しいの基準も他者の普通や当たり前とは違う。量産された美人像を美しいとは思わないし、萌え絵のようなものばかりが増えても多様性が無くなるので、そればかりだと何もかもがつまらなくなる。
時としてリアルが必要な時もあるし、日本アニメのお得意のパターンの画風ばかりだと、リアルなものが見たい場合探すのも大変になる。ゲームの竜が如くでも、出る人物みんながイケメンに美人ばかりだとつまらない。そこに多様性があるから面白さが発生する。
少女漫画のようなキャラクターばかりになると作品にリアルさが無くなるし、映画でもドラマでも登場人物が全て美男美女なんてものばかりになると、もはやそんなエンターテイメントすら見る気が失せてしまう。
はっきり言えばイケメンを見るなら自分の鏡を見ているだけで充分、それを他の媒体で見るなんてお腹が一杯になってうんざりする。自分をイケメンと思うこと、自信を持つことも人の自由意思、何者かに劣ると卑下する必要などない、どんな人でもそれぞれ個性的な魅力を持ってるもの、何者にも侮辱などさせるな、誰かを簡単に侮辱する者こそ醜き者。自分はみんなが美男美女と思うが、これはポリコレ意識ではない。
誰かのルッキズムに憧れる必要もないし、卑屈になる必要もない。自分は自分、まず自分自身を好きになることが最も大事なこと。そこに仮想現実など必要ないし、作品の中で見る美男美女の誰かになったつもりで疑似ストーリーを楽しんでる必要もない。それぞれが自分自身の物語を作ればいい。
誰もが自信を持って生きていける世界、心の問題もルッキズムの悩みもなく、経済的なものも全て含めた多様性を重んじる世界になることを望む、それは全ての人々にとっての幸せ、幸福であり楽園を築く事でもある。
その邪魔をしているのが偏見主義と差別主義を持った全体主義の多様性排除者、反民主主義の帝国共産主義思想主義者達、自称保守とする極右カルト集団。
その悪魔の心が人を罵らせたがるし、小さなドングリの背比べでマウントに立ちたがる偏見差別意識を持たせたがる。誰かを批判し揶揄しこけ下ろして馬鹿にし見下せばマウントに立てると思いこんでいる。誰かよりも優越に浸りたい意識がそんな醜い心を持続させ、腐ったリンゴとして腐敗の連鎖を生み出す。
ことごとく人々の心を蝕み縛りつけ、徹底して不自由にしているのが、その自称保守とする偏見右翼カルト思想主義の、多様性を嫌う全体主義者である帝国共産主義者達。
自分達の権利や人権を奪う目的があるから多様性の排除、民主主義のグレートリセットを達成しようとしている。
今現在の保守と自称する全ての人達は極右と極左のマルクスシオニズムに感化され、陰謀論洗脳されているだけのカルト集団で、左右が解らなくなって道に迷ってしまった哀れな小羊達。その者達が悔い改めれば、天に大きな喜びがもたらされ、この世界は楽園へと流れ進み行く未来の神道を構築する。
男と女はプラスとマイナス、ナショナリズムの男はリベラルの女を守り助ける。東も西も、右も左も十戒の石板の片割れであり、互いに陰と陽となりぐるぐる回転する。
あなたの足りないところはわたしが補い、わたしの足りないところはあなたが補う
これが両翼を持って空を飛べとする、神が教えてくれている真実。