見出し画像

なぜ、何もないではなく、何かがあるのか

本当は、自分が何かを解ってるとする承認欲求などいらない、自分でもそれを解ってる。だからもうこれ以上何かを解ってる風の事をここに書き込む必要はないと思ってる。

その思想主義を否定することは、それを純粋に信じてきた人達も否定することになる、それは、自分はそんなことはしたくない。でも言わなければいけない、でなきゃ誰も言わないから、自分が言うしかない。


最近、優しい言葉を見てない、YouTubeでも、Twitterでも、全然見てない。そのせいか自分の心まで刺々しくなってるのを感じる、このままではいけない、このままでいたら、優しい人達まで傷つける、自分はそんなこと望んでない。


思想主義は確かに洗脳、それがあるから対立し罵り合う、そんな中にいるんだよ、純粋な気持ちでその中に属してる人達が、俺にはそんな人達が見える。寂しげで、なんか優しくて柔らかい、そんな人達が本当にいる。だからより悲しみが深くなる、辛くなる、何とかしたいなって、思いが強くなる。

何でそんなに優しいのに、そんな思想主義に染まってしまうのか、どうしてそうなるのか、本当に悲しくて仕方ない。


自分は河野太郎氏をずっと擁護してきた、それは支持してるからとか、思想主義が同じだからとか、洗脳されてるからとか、そんなんじゃない。ただ、大勢に言葉の攻撃を受ける人、そんな人を擁護したくなる。数万人を敵にしても守りたいような気持ちが沸き起こる、どうしてもそうなる。

でも、そんな自分を河野氏はTwitterX上でブロックした。それに対して腹は立たないし、別にそれほど気にはならない、元から殆んど見てないし、支持者じゃないから見る必要もない。ただ多くに批判されてるのを見ていられなかった、それだけのこと。

過去に、多くに責められていた杉田水脈氏を擁護したし、他にも山本太郎氏を擁護した、それで思想主義で分断対立して批判ばかりしてる人達に気がつかせたかった、そんなことばかりやっても無意味だと。


しかし統一教会、他カルトの問題に関しては別、今も洗脳状態が続いてる人が大勢いる、安倍氏神格化やトランプ崇拝、その個人崇拝のようなもの、それが良くないことと認識してるから、それを気がつかせたい、だから反する側のようになっている。

そして保守右翼思想のようなナショナリズムの多くに許しなき心がある、許容されない人達が苦しむ思想主義、だから自分はその主義に反発してる。


その左翼と呼ばれる側、多様性と許しを基本とした、全ての人の幸福追求の権利を守ること、そのシンプルな優しさを自分は好む。

自分は日本が好きだ、しかし移民を嫌悪する事が保守となるなら、自分は保守でなくてもいい。LGBTを嫌う主義なら保守でなくていい、ファミニズムを淘汰するぐらいなら左翼でかまわない。

全ての人が幸せになる、それを求める権利がある、それが自然法、神による自由なる無秩序、アナーキー。


陰謀論の罠や、本当のシオニストの目的も解ってる、解っているが、それを信じている人達もいる。誰も嫌ってなんかいない、誰も嫌わないから孤独でいたい、1人で、何にも属さない。0でいい。

嫌われてもいい、俺はみんな大好きだ、全ての生命、人々を愛する、その神の心が宿るから1人孤独でも寂しくはない。


時に口は悪くなる、感情が強くなる時、憤り、嘆いてる時、その思想主義に没頭してる人達を見てると我慢ができない。でも、たまにその中に、優しげで柔らかな表現の言葉を使って、純粋な想いを言葉にする人がいる、そんな人を見ると我に返る。

刺々しい言葉ばかり見るから憤るし、怒りの言葉ばかり見るから、その怒りが自分にも伝染する。だから「なんで怒ってるんだ」そう思い怒りが自分の中からも沸き起こる。

争いが嫌いで、言い合い、罵り合いを止めたくなる、子供の頃からそうだった。


親が毎日のように喧嘩していたから、そういった争いが嫌いになった。だから、怒ってる人を見ると「何で怒ってるんだ」そう言ってしまう。

今は1人なので、周囲にケンカしてる人などいないから、毎日穏やかに過ごしてる。静かに、1人。これが孤独と言うなら、孤独とはとても静かで静寂、物事を見極め悟るにはとても良い環境にいると思う。


もう、陰謀論推理や、政治論など、話す必要もないのかもしれない。ある程度は話した。歴史や史実を結びつけ、こうだからああだと細かく話しても仕方がない。どんなに考え結びつけても事実かどうかも解らない話をここで綴っても、やってることは他の陰謀論者や都市伝説論者と同じになってしまう。それならここを見るより、もっと詳しく語ってる誰かのYouTubeチャンネルや、ブログなどを見ればいい。

自分は人気やお金のためにこんな話を続けてきたわけじゃないから、本当は心の優しさ、許しと、分断対立する争いをやめられる心を持ってほしいと、そう願い何かを書いてきたわけであり、無駄な怒りを煽るために何かを書いてきたわけじゃない。

自分が属する思想主義はない、哲学者の話もここで綴ったりなどしてこなかった。書籍や動画を見て影響された話など一度もしていない。殆んどは自分の中から出てきたもの。

参考としたのは事実とされる情報だけ、それを頭の中で結びつけ、辻褄を合わせるために推理をしてきた。その考えの基本になったのが「なぜ何もないではなく、何かがあるのか?」

その言葉が、自分の頭の中で絶えずリピートしていた。その結果が今の自分で、なぜ、なぜだ、どうしてだ、その積み重ねで独自の陰謀論に関する推理を語る事ができた。


もちろん基本的な陰謀論、イルミナティ陰謀論は把握してる。その全てを鵜呑みにしてきたわけでもない。誰かの話をそっくりそのまま受け入れて語ることはしない、それを知り、その信憑性を確かめ独自に考える。それがどういう事なのかを。


いくら知識を培っても理解できない、その神について深く考えた。神とは蟻にとっての我々であり、蟻はどんなに頑張っても人間を越えることはできない。蟻を人間と同等の存在にするには、人間の化学力の進化と、その化学力による手助けが必要。蟻が自力で人間になることはできない、決まったパターンでしか生きられず、人間を把握できないので逆らう術も解らない。


だから我々は神を把握することができないし理解する事もできない。しかしそれは実際にある、それを把握してるから人間は神を例え表現してきた。

蟻は人間が見えてるが、その存在を把握できないのと同じで、我々も神が見えないし、その存在を把握できない。神はいるのかいないのか、そんなことを考えるよりも、神とする概念を知ってるなら、神は目の前にいると言うこと。目には見えないが、それは確かにそこにある。存在は把握できないが、確かにいる、だから我々はそれを神と呼ぶ。


その存在が見え、把握できた時、決まったパターンの生き方、蟻の生態系から目を覚ます、それが覚りとなり、52ヘルツの鯨となる。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?