369と覚りと最後の審判、魂の懲役
1は2となり3となる。3は三位一体の自然の摂理、自然法そのもの、その流れが3つの力であり、それが2つ揃うと6となり、更に3つ揃うと9となる。上から下へ、下から上へと一気にかけ登り全てを制する、エメラルドタブレット、三倍偉大なヘルメストリスメギストス。それが、369の法則。
3つの力があるから色とりどりの世界が生まれる。宇宙とは三位一体の流れの中にある光と闇の世界であり、静寂の中にある音を見極める心は、未知なる周波数を見定める。覚りの境地に達すれば369を理解できる。
昼と夜を生み出すのは張力の力、重力であり、重力は相反する2つを繋ぎ止める重要な役割を持つ。プラスとマイナスが引き寄せ合う磁力と同じで、善と悪を引き寄せ繋ぎ合わせる上と下を支え合う1本の紐。天があるから地があり、生があるから死がある。
重力があるから地球は回転し時を刻み続ける。その重力が無ければ時は無く、時間を作ったのも三位一体の流れがあるから。それにより我々は死へと進んで行くが、それは同時に再生と誕生へと向かう道でもあり、それが新しい生命の夜明けとなる。
愛を生み出し、覚りが欲望へと渡す。天照が生み出し、ツクヨミが渡し、スサノオが消費する。太陽の光は月が調整し地球へと渡し消費される。三種の神器は神の法則そのものであり、それは契約の箱とまったく同じ概念のもの。もはや疑う余地もなければ、他に答えを求める必要もない、これが正解であり、これこそが唯一無二としてある神の真実。
三種の神器における、鏡が生み出すものは光であり、それは愛そのもの、それを勾玉の張力で剣へと流し入れ、最後にその力を消費する。消費したものは新たなる生命を誕生させる糧となり、光へと戻り行く。
契約の箱では、マナの壺が生み出し、2つに割れた十戒の石板の完成によってアロンの杖が破壊の力を宿し、その質量によって消費するエネルギーはビッグバンクライシスとなり、この世の全てを形成する神の力、ビッグバンとなる。
宇宙の始まりは、拡大する遥か彼方に存在する過去の世界。最大マクロは最小ミクロの先にある。自分の奥底、ずっと深い先にある、紐理論よりも更に奥深くにある最小ミクロの先に宇宙の果てがあり、そこが0の神の領域、更にその先には最大マクロがあり、その先に自分がいる。
この宇宙の果ては自分の中にあると言う答えは、宇宙人グレイに遭遇した後、6歳ぐらいの頃に既に感じていたもの。大人になり、今になってから、なぜそんなことを自分が考えていたのか、なぜそんな感覚が自分の頭の中にあったのか、今頃解った。
おそらく、自分の話は一般的な知識の中にある宇宙科学や、量子力学を越えた先にあるもの、だからそれなりの知識を持つ人なら、この話の意味を理解できると思う。これが本当の事なのかどうなのかを突き止め確認するために科学や数式がある。
結局は、科学の究極も神秘的なものとなり、やはり神学になってしまう。
そんなこと信じられない人もいれば、その感覚を得た事によって確信する人もいると思う。神学と覚りとは、決して嘘や妄想、適当な言葉の羅列や、でたらめではなかったと。
だから世界中で語られ続けてきた神話、聖書で語られている内容等が、決して適当な言葉の羅列や空想物語ではなかったとする真実を理解できる。神は存在するし、確実に魂は選別されるし、最後の審判は間違いなく起こる、いや起こっている。始まりから終わりまでの全てにおいて過去と未来で行われてきた本当の事。
その最後の審判は、過去と現在、未来の全てにおいて、全ての魂が見極められている、我々の見えない場所で今も常に行われている、起きている現象。
罪は消えない、その罪は、ルドルフシュタイナーが名付けたアカシックレコード、宇宙の記憶の中にしっかりと記録され刻印されている。消えないからこそ、悔い改める、我々にはそれしかできない。
絶対に消えない罪は、どんなに白い衣を纏っても隠せるものじゃない。だからこそ、それを受け入れ、その罪を背負い、赤い血に染まった衣を纏い悔い改めること。
常に悔い改める。最後の審判に備えて。