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後悔と羨望 終わりについて

全ていつか終わる。その事実と同じように私の大学生活も終わりに差し掛かっている。
2021年の春、大学生活の始まり、春の日差しが包む暖かな始まり、その全てに期待していた。しかし、その春は指を咥えて流星のような輝きを眺めているだけになった。当時19歳、その時の私はこのまま虚しく青春が終わってしまうことを何となく察していた。
そして2024年の冬、その分かり切っていた終わりがちゃんと私の元に訪れる。全てに納得できないまま、もうすぐ何もかもが終わる。最後は独りだった。
私は冬を愛してる。だけど冬は私を愛していない。私の絶望的な片思い。冬が私を愛せば私は冬を嫌いになってしまうだろうか。
優しい嘘なんて存在すると思いますか。優しい嘘ってなんでしょうか。

失恋や青春の終わり、冬という季節の到来、それら全てが寂しさを増幅させる。冬はセンチメンタルな話がしたくなる。結局、何が大切でしたか、何が本当に手に入れたいものでしたか。この一年、会いたかったのに会えなかった人はいましたか。どんな後悔がありましたか。4年間、楽しかったですか。悪癖は治りましたか。あの冬、何を考えて歩いていたんですか。ちゃんと傷つきましたか。感動でも悲しみでも涙を流しましたか。

「なんにもなかった、でもまぁ悪くなかったかな」で終わる大学生活ってなんかすごく悔しくないですか。

振られた元恋人に『 もう純粋な好きだけじゃやっていけないんだよ』と言われたことを思い出した。世の中のこの言葉を言われた男たちは一体どんな返答をしたのだろう。
でも、純粋な好きを貫き通さないと男と女の愛って終わってしまうと思いませんか。時が経つにつれて愛が情に変わってしまうように緩やかに終わると思いませんか。もしくは情にすら変わらず唐突に終わると思いませんか。純粋な好き から始めませんか。失うこと、諦めることに慣れてからが大人だと思います。それでも純粋な好き を諦めたくないと思いませんか。

私はあの日、「東京タワーを観に行かない?」という誘いを断ったことを一生後悔すると思います。だからこの冬、1人で東京タワーに行きました。
幸せな人々の歩くスピードの遅さ、それに弾かれるように早歩きで歩いた私。そこにあったかもしれない思い出。鉄塔の美しさ。
全部ぶっ壊れて欲しい。だけど全部がぶっ壊れた瞬間、私はここに存在することを許されなくなる。壊れることのない世の中が私の存在をただ許してくれているだけに過ぎない。結局、羨ましいがっていた輝きに私は存在を許されている。博愛の輝き、それが悔しかった。

男の20代は涙以前と涙以後にわけられると思いませんか。

なんにも諦めたくなかったけどなんにも得られなかったような気がする。
もっとLIVEに行くべきだった。もっと人に会うべきだった。もっと唐突に出かけるべきだった。もっとたくさん恥をかくべきだった。もっと恋をするべきだった。もっと勇気を出すべきだった。もっと大学を楽しむべきだった。紳士ぶってないで年相応にセックスするべきだった。卑屈になるべきじゃなかった。もっと本を読めばよかった。誘いの全てを断るべきじゃなかった。もっと何かを続けておけばよかった。サークルに入るべきだった。色んなバイトを経験するべきだった。ちゃんと目の前の現実に本気になるべきだった。言いたいことを言うべきだった。知らないお店に飛び込んでみるべきだった。あの日あの人に話しかけてみるべきだった。ちゃんと寂しさに素直になるべきだった。正しい敗北を経験しておくべきだった。

4年間のほとんどが後悔と羨望だった。どんな4年間でしたか?そんな話をする夜が最後に必要な気がした。
今年買った線香花火が部屋の隅で僕を見つめていて、何となく目を逸らしてしまった。私はずっと東京の輝きが羨ましかったんだと思う。
楽しめるって才能だと思いませんか。

後悔と羨望の余韻みたいな冬を過ごしています。つまり、寂しい冬ということです。寂しくない冬ってどんな冬なんでしょうか。独りでも、誰かと過ごしても、何をしていても、どこへ行っても、心のどこかでずっと寂しいのが冬の悪いところであり愛おしいところだと思いませんか。
様々な理由があって二度と会うことがないであろう人、だけど会ってみたい人っていますか。私はたくさんいます。そしてきっとほとんどの人に会えないまま冬が終わります。11月はいつも間に合わないですね。
だからどうかお元気で。

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