【本要約】GRIT やり抜く力
PART1 「やり抜く力(GRIT)」とは何か? なぜそれが重要なのか?
・「やり抜く力」の秘密
gritという英単語の意味は、 ”機械などに入って害になるような小さな砂、あるいは砂粒”という意味だが、口語として、「勇気,気概,闘志」という意味もある。例えば、He has a lot of grit. (彼はとても勇気がある)という風に使われる。
この書籍では、gritという単語を、「やり抜く力」と称し、「人生における成功」において、生まれつきの才能ではなく、「やり抜く力」が重要であると、説明している。
「やり抜く力」と「才能」は別物であり、たとえ才能があったとしても、それを活かせるかどうかは、また別の力が必要である。
・「才能」では成功できない
同じ能力なら努力家より、天才を評価してしまう。
「成功するためには、「才能」と「努力」のどちらがより重要だと思いますか?」この質問に対し、アメリカ人の場合、「努力」と答える人は、「才能」と答える人のおよそ2倍だ。運動能力に関する質問でも、同じような結果が出る。では、次の質問はどうだろう。
「新しい従業員を雇うとします。知的能力が高いことと、勤勉であることではどちらの方が重要だと思いますか?」
この場合、「勤勉であること」と答える人は、「知的能力が高いこと」と答える人の5倍近くにもなる。この調査結果は、プロの音楽家を対象に実施した、音楽家として成功する秘訣を問うアンケート調査の結果とも一致している。音楽家たちもほぼ例外なく「生まれながらの才能」よりも「熱心に練習することの方が重要」だと回答した。
しかし、別の実験で、もっと間接的な方法によって、人々の心理的傾向を調査したところ、正反対の結果が生まれた。その実験ではプロの音楽家たちに対し、同等の実績を持つ2名のピアニストのプロフィールが紹介された。次に参加者たちは、その2名のピアノ演奏を、”収録した録音”で聞き比べた。ただしこの実験では、ある一人のピアニストが、同じ曲の別の部分を演奏しているので、技術的な差は無い。参加者にとって明らかな唯一の相違点は、2名のピアニストの紹介の仕方にあった。一人は才能豊かで、幼少時から天賦の才を示したとある。一方、もう1人は、努力家で幼少時から熱心に練習し 粘り強さを示したとあった。すると、この実験では先ほど紹介したアンケート調査の結果、つまり「才能」よりも「努力」が重要という結果と、矛盾する結果が出た。音楽家からは、天賦の才に恵まれたピアニストの方が、プロの演奏家として成功する確率が高いと評価したのだ。
天賦の才に対するえこひいきは、私たちの心の中に潜んでいるものだ。これは、偏見の一つで、努力によって成功を収めた人のことも、生まれつき才能があったからと決めつけたり、華々しく活躍している人を見ては、ずば抜けた才能に憧れたりもする。
「才能」をえこひいきすることは悪いことなんだろうか。そもそも、「才能」自体、悪いものなんだろうか。人間は誰でも同じように「才能」があるのだろうか。答えはいずれも「No」だ。どんなスキルであれ、学習曲線を上昇するのが早いのは良いことだ。そしてそのスピードが、とりわけ早い人たちがいるのも事実だ。では、生まれつき才能のある人を、努力家より優遇してはいけないのだろうか。「才能」に対するえこひいきが、弊害をもたらすのは、「才能」だけにスポットライトを当てることで、他の全てが陰に覆われてしまう危険性があるからだ。「やり抜く力」を含め、実際には重要な他の要素が、全てどうでもいいように思えてしまう。「才能」に目を奪われてしまうと、それ以上に重要なもの、すなわち「努力」に目がいかなくなってしまう。次の章では、「才能」が重要ならば、「努力」はその2倍も重要であることを説明する。
・努力と才能の「達成の方程式」
私たちは、優秀なアスリートを見ると、すぐに才能があると決めつけてしまう。それこそが、一流のアスリートの証だとでも言うように。そして、一流のアスリートには、生まれつき特別な才能が備わっているのに対し、ほとんどの人間はそれを享受できず、肉体的にも、遺伝的にも、心理的にも、生理学的にも、決定的な違いがあると思っている。才能はある人にはあるが、ない人にはない。生まれながらのアスリートもいれば、そうでないものもいる。私たちはそう信じている。アスリートであれ、音楽家であれ、わけのわからないほど素晴らしいパフォーマンスを目にすると、私たちはお手上げだと言わんばかりに、「あれは天性の才能だよ」などと言ってしまう。言い換えれば、常人の域をはるかに超えたパフォーマンスに圧倒され、それが凄まじい訓練と経験の積み重ねの成果であることが想像できないと、何も考えずに、ただ生まれつき才能がある人と決めつけてしまうのだ。
『でもまさか、誰でも偉業なスポーツ選手になれるという意味じゃないですよね』
『もちろん違いますよ。そもそも、身体構造上の優位性は、トレーニングでは補えない部分もありますからね』
『それに同じコーチについて、同じくらい練習に励んでいても、選手たちの成長には差が出るのではありませんか』
『確かに。だが肝心なのは、偉業は達成可能ということです。偉業というのは、小さなことを一つずつ達成して、それを無数に積み重ねた成果だから。1つ1つのことは、やればできることなんです』
『でも、それにしても小さなことの積み重ねだけで説明がつくものでしょうか。本当にそれだけなんでしょうか』
『まあ、人は誰でも、神秘的なものや驚異的なものに魅力を感じますからね』
ニーチェもこの問題について、突き詰めて考え抜いていたことが分かった。我々の虚栄心や利己心によって、天才崇拝にますます拍車がかかる。天才というのは、神がかった存在だと思えば、それに比べて、自分は引け目を感じる必要がないからだ。あの人が超人的だというのは、張り合っても仕方ない、という意味なのだ。言い換えれば、天賦の才を持つ人を神格化してしまった方が楽なのだ。そうすれば、やすやすと現状に甘んじていられるから。偉業を達成する人々は、一つのことをひたすら考え続け、ありとあらゆるものを活用し、自分の内面に観察の目を向けるだけでなく、他の人々の精神生活も熱心に観察し、至る所に見習うべき人物を見つけては奮起し、飽くなき探求心を持って、ありとあらゆる手段を利用する。
ニーチェは、偉業を達成した人々のことを、「職人」と考えるべきだと訴えている。「偉業を達成した人を、天才だと言って片付けないでほしい。才能に恵まれていない人々も、偉大な達人になるのだから。達人たちは、努力によって偉業を成し遂げ、世間の言うところの天才になったのだ。彼らは皆、腕の立つ熟練工のごとき真剣さで、まずは一つ一つの部品を正確に組み立てる技術を身につける。その上で、ようやく思い切って、最後には壮大なものを作り上げる。」
才能から達成に至るまでの過程を説明する、2つの単純な方程式がこれだ。
才能×努力=スキル
スキル×努力=達成
才能とは、努力によってスキルが上達する速さのこと。一方、達成は習得したスキルを活用することによって現れる成果のことだ。たとえば、優れたコーチや教師との出会いなどの、”機会”に恵まれることも非常に重要だ。むしろ、個人的などの要素よりも、そちらの方が重要なのかもしれない。しかし、この理論ではそのような外的要因や幸運は考慮しない。この理論はあくまでも、達成の心理学に対する理論であり、成功要因は外的要因だけではない以上、この理論からは”機会”を除外して考える。
この理論が示しているのは、複数の人々が同じ状況に置かれた場合、各人がどれだけのことを達成できるかは、「才能」と「スキル」に、「努力」が2つかかっているということだ。才能、すなわちスキルが上達する速さは間違いなく重要だ。しかし、両方の式を見れば分かる通り、努力は1つではなく 2つにかかっている。「スキル」は「努力」によって培われる。それと同時に、「スキル」は「努力」によって生産的になるのだ。
この計算が正しければ、「才能」が人の2倍あっても、人の半分しか「努力」しない人は、たとえ「スキル」の面では互角であろうと、長期間の成果を比較した場合には、努力家タイプの人に圧倒的な差をつけられてしまうだろう。なぜなら、努力家はスキルをどんどん磨くだけでなく、そのスキルを活かして精力的に活動をするからだ。重要なのは、「スキル」そのものではなく、行動したアウトプットの質や量だとすれば、努力家の方が、努力しない天才よりも大きな成果を上げることになる。
「努力」をしなければ、たとえ「才能」があっても宝の持ち腐れ。
「努力」をしなければ、もっと上達するはずの「スキル」もそこで頭打ち。
「努力」によって初めて、「才能」は「スキル」になり、「努力」によって、「スキル」が活かされ、様々なものを生み出すことができる。
・あなたには「やり抜く力」がどれだけあるか
「やり抜く力」というのは、一つの重要な目標に向かって、長年の努力を続けることだ。「ものすごくがんばる」と「やり抜く力」は違う。何かに熱中するのは簡単でも、それを持続するのは難しい。成功するには「やるべきこと」を絞り込むとともに、「やらないこと」を決める必要がある。
「やり抜く力」というのは、重要性の低い目標にしがみついてまで、どれもこれも必死に追い続けることではない。たとえ、一生懸命に取り組んでいたことでも、なかにはやめた方がいいこともある。もちろん、ひたむきな努力は必要だし、おそらくあなたが考えている以上に長い時間をかけるべきだが。「最初からうまくできなくても、何度でも挑戦しなさい」ではなく、「何度やってもだめだったら、他のやり方を試すこと」が必要。
自分の目標や夢に対して、「なぜ」を問い続けていくと、やがて、ある種抽象的な、最上位の目標に辿り着く。最上位の目標は、ほかの目的の「手段」ではなく、それ自体が最終的な「目的」となる。心理学では、これを「究極的関心」と言う。この「究極的関心」については、「やり抜く力」を持って、常に努力をしていく必要があるが、中位や下位の目標、すなわち手段に対しては、やるべきことと、やらないことの選別が必要であり、うまくいかない場合は、他の方法を試すことを考える必要がある。
・「やり抜く力」は伸ばせる
「やり抜く力」は、どの程度遺伝で決まるのでしょうか。「やり抜く力」について講演を行うたびに、この手の質問を受ける。「遺伝」か「環境」かというのは、昔から議論されている問題だ。例えば、バスケットボールの世界では「身長だけはトレーニングでは伸ばせない」という表現がよく使われる。
そういうわけで、「やり抜く力」は、身長のように、先天的な要素で決まるのか。それとも、言語の習得のように、後天的な要素で決まるのか。私たちがどんな人間になるかは、遺伝子と経験とその相互作用によって決まることが科学の目覚ましい発展によってかなり解明されてきている。
まずはじめに確信を持って言えるのは、人間のあらゆる特徴は「遺伝子」と「経験」の両方に影響を受けるということだ。
身長を例に考えてみよう。身長がとても高い人もいれば、とても低い人もいるが、多くの人がそのどちらでもないのは、遺伝的な理由が大きい。例えば5m超えの巨人や、1mmしかない小人が居ないのは、遺伝による影響があるからだということだ。だが 一方、男女の平均身長は、この数世代で著しく伸びているのも事実だ。資料によれば、150年前のイギリス人男性の平均身長は165cmだったが、現在の平均身長は177cmだ。ほんの数世代で遺伝子プールが、劇的に変化したとは考えにくい。身長がこれほど大きく伸びた原因は、栄養、清潔な大気と水、そして現代医療のおかげだ。同じ世代でも環境が身長に及ぼす影響は明らかだ。健康に良い食事を十分に与えられた子供たちは背が高くなるが、栄養失調の子供たちは伸び悩んでしまう。
同様に、誠実さや寛大さ、そして「やり抜く力」も遺伝的な影響を受ける一方で、経験による影響も受ける。それと同じことが知能指数や外交性についても当てはまる。さらにアウトドア志向や甘いものが好きと言った好み、チェーンスモーカーになる確率や皮膚癌になるリスクなどあらゆることについて同じことが言える。先天的な要素も後天的な要素もどちらも重要な影響を与えるのだ。
つまり、「やり抜く力」は後天的に伸ばすことが出来る。次の章以降では、「やり抜く力」の具体的な伸ばし方について触れていこう。
PART2 「やり抜く力(GRIT)」を内側から伸ばす
・「興味」を結び付ける
「情熱に従って生きよう」
学位授与式などのスピーチで人気のテーマだ。メガ成功者たちに、なぜ成功できたのか?と聞いたら、そのテーマに情熱があるからだと、必ず同じことを言う。
それでは、「堅実」に生きることは悪いことなのか。稼げるか分からないバンドマンよりも、地に足の着いた職業で安定した収入を得ること、すなわち「堅実さ」を基準に将来を考えた方がよい、という可能性も一考に値するようにも思える。若い人たちに、「自分が本当に好きなことをしなさい」とアドバイスするのは、馬鹿げたことだろうか。
この問題については、「興味」を研究している科学者たちが、後述のような結論に達している。第一に、人は自分の興味にあった仕事をしている方が、仕事に対する満足感がはるかに高いことが、研究によって明らかになった。第二に、人は自分のやっている仕事を面白いと感じているときの方が、業績が高くなる。
もちろん、ただ好きなことをやっているだけでは収入には繋がらない。ゲームのマインクラフトがいくら得意でも、それだけで生計を立てるのは難しい。それに世の中には、多くの選択肢から好きな職業を選べるような恵まれた状況にない人もたくさんいる。私たちが生計を立てる手段を選ぶにあたっては、かなりの制約があるのも実情だ。しかし、科学的研究の結果は、情熱に従って生きる、興味のあるテーマに関わることが、重要ということが分かっている。
それでも、「情熱」は、一発では人生に入ってこない。オリンピック選手だって、本当に好きな仕事に打ち込んでいる人だって、興味対象については、試行錯誤があっただろう。一生をかけてやりたいものが見つかるまでには、かなりの時間がかかった場合も多い。大人になったら何をしたいかなど、子供のころには早すぎて分からない。その点は、中学生でも、大学卒業を控えた成人する年頃でも変わらない。では、いつ頃見つけられるのだろうか。
「興味」は、内省によって発見するものではなく、外の世界と交流する中で生まれる。興味を持てるものに出会うまでの道のりは、すんなりとはいかず、回り道が多く、偶然の要素も強いかもしれない。だからこそ、どんなことに興味を持つか持たないかは、自分にも分からない部分が大きいのだ。
そして、自分が何をしているときがいちばん楽しいか、それを見つけることが出来た人は、その興味をさらに掘り下げて行く必要がある。「発見」の次は、「発展」させるのだ。興味を持ち続けるためには、さらに興味が湧くような機会が何度も必要であることを忘れないようにしよう。
・成功する「練習」の法則
「やり抜く力」の強い生徒は、「やり抜く力」が弱い生徒よりも、練習時間が長いことが研究で明らかになった。「やり抜く力」が強い人は普通の人よりも、一つのことにじっくりと取り組むことが出来、「やり抜く力」が強いことの利点は、「やるべきことに長時間取り組めること」であるようにも思えた。しかし一方で、何十年間も同じ仕事とをしていても、中程度のレベルに留まっている人もいる。ただいたずらに、長い時間をかけて、同じことを続けるだけでは、意味がなさそうだ。
つまり、「やり抜く力」には、時間の長さだけでなく、時間の質も、重要であるということだ。
では、成功を収めるために、興味のあることに対して、質の高い練習や時間を過ごすだけで、十分なのだろうか。金メダルを取った、とある水泳選手に話を聞いてみた。
「練習は好きでしたか?」
「うそをつくつもりはない。練習に行くのを楽しいと思ったことは無い。あまりに練習が辛いときは、ここまでする価値があるのか?と考えたこともある」
「では、なぜやめなかったんですか?」
「簡単なことです。水泳が楽しかったから。競争は胸が躍るし、トレーニングの成果が表れたときも、レースで勝った時も、最高の気分になる。だから練習は嫌いだったけど、やっぱり水泳は大好きだったんですよ。」
この話をどう解釈すべきか。考え方としては二通りある。
「やり抜く力」の強い人たちは、他人よりも多く、質の高い時間に取り組んでいるうちに、しだいに努力が報われるようになり、努力をすること自体が好きになるという考え方。「努力の成果が出たときの高揚感がクセになる」というわけだ。
もう一つは、「やり抜く力」の強い人は他の人よりも、努力することを楽しいと感じるので、他人よりも多く練習するという説。「困難なことに挑戦することが好きな人たちもいる」というわけだ。
実際、どちらが正しいかは分からないが、どちらもある程度、成功に直結する考え方なのだと思う。
・「目的」を見出す
「興味」は情熱の源だ。そして「目的」も情熱の源だ。
「やり抜く力」の強い人々が持っている深い情熱は、「興味」と「目的」によって支えられている。
ほとんどの人は、まず自分が楽しいと思うことに興味を持つことが多い。個人的な「興味」からスタートして、やがて真剣に取り組みようになり、ついには人の役に立つという「目的」を見出す流れになる。
「やり抜く力」の強い人たちが、自分のやっていることは他の人々と、深く繋がっていると語るのを何度も耳にした私は、そのつながりの意味を詳しく分析することにした。「目的」は当然、重要なものなのだが、他の優先事項と比較してどれくらい重要なのだろう。自分にとって最重要な目標に、一心不乱に取り組むのは、無欲というより、ある意味ではむしろ利己的なようにも思えた。
アリストテレスは、幸福を追求する方法は少なくとも2つあることをいち早く認識していた。1つは、「内なる良い精神と調和する」こと。もう一つは「利己的な目先の快楽を追求する」ことだ。この問題についてのアリストテレスの見解は明らかで、利己的な快楽を追求する生き方は、原始的で野蛮であり、良心と調和した生き方こそ、高貴で純粋であるとして支持した。
ところが、実は幸福を追求する2つの方法には、古代からの進化の歴史がある。人間は一方では快楽を追求する。なぜなら、全般的に言って快楽をもたらすものは、生存の確率を高めるからだ。例えば、もし人類の祖先が食物と性交に対する強い欲求を持っていなかったら、命を長らえ、多くの子孫を作ることはできなかっただろう。人間は誰でもある程度は、フロイトが認めた通り「快楽原則」によって動かされている。一方で人間は進化し「意義」と「目的」を探求するようになった。
最も深い意味において、人間は社会的な生き物であり、周りの人々とつながって、互いに奉仕することも、やはり生存の確率を高める。孤独な人よりも周りの人々と助け合う人の方が生き残りやすい。社会は安定した人間関係によって成り立っており、私たちは社会に属することで食料を手にし、悪天候や敵から身を守ることができる。つまり、つながりを求める気持ちも快楽への欲求と同じように人間の基本的欲求なのだ。従って人間は誰でもある程度は快楽を得られる幸福も、意義と目的を得られる幸福もどちらも追求するようにできている。しかし、どちらを多く追い求めるかは人によって異なる。快楽よりも目的を重視する人もいれば、その逆の人もいる。
・この「希望」が背中を押す
マインドセットはどのようにして形成されるのだろうか。
それは、その人の過去にどのような成功や失敗を経験してきたか、そして周囲の人々、とくに親や教師などの権威をもつ立場の大人が、どのような反応を示したかによって決まるという。
たとえば、あなたが子供のころに勉強や運動などで成果を出した時、周りの大人にどんな言葉をかけられただろうか。大人になって成功や失敗をしたとき、その原因を自分の才能に結び付けるか、それとも努力に結び付けるかは、子供のころの褒められ方によって決まる確率が高い。
「生まれながらの才能」よりも、「努力と学習」を褒めることのほうが、「やり抜く力」が見に着きやすい。
子供のころへの接し方で、「やり抜く力」を妨げる表現
「才能があるね。すばらしい」
「まあ、挑戦しただけえらいよ」
「これは難しいね。できなくても気にしなくていいよ」
「これは君には向いてないのかもしれない」
子供のころへの接し方で、「やり抜く力」を伸ばす表現
「よくがんばったね。すばらしい」
「今回はうまくいかなかったね。一緒に今回の方法を見直して、どうやったらうまくいくか考えてみよう」
「これは難しいね。すぐにできなくても気にしなくていいよ」
「もうちょっとがんばってみようか。一緒に頑張れば必ずできるから」
PART3 「やり抜く力(GRIT)」を外側から伸ばす
・「やり抜く力」を伸ばす効果的な方法
「子供の「やり抜く力」を伸ばすにはどうすれば良いのでしょうか?」
1928年の著書で、育児書のベストセラーとなった「子供はいかに育てられるべきか」において、ワトソンは次のような子供に育てるべきだと熱弁をふるっている。
「子供を抱きしめたり、キスしたりしてはならない。膝に座らせるのも良くない。どうしてもと言うなら、子供が寝る前の挨拶をした時に、額に1度だけ キスをする。朝は握手する。子供が難しいことに挑戦して、見事にやってのけた時は、頭を軽く撫でてやっても良い。さらに、子供には生まれた直後から、自分の力で問題に取り組ませること。子守りは何人かを交代で勤務させ、子供が特定の大人に対して不健全な愛着を抱くのを防ぐこと。さもないと子供が甘やかされてしまい、世界を征服しようという気概を持てなくなる」と述べている。
一方で、逆の意見の人たちもいる。親が子供に無条件の愛情を注ぎ、しっかりと手を差し伸べてこそ、粘り強さと情熱を持った子に育つと固く信じている人たちだ。そのような人たちは、親は子供に対してもっと寛容で優しくやるべきだと考え、子供は大いに抱きしめ、のびのびと育てるべきだと主張する。そして子供は、本来チャレンジが好きなのだから、親が無条件の愛情を注いでやれば、子供のやる気と意欲は自ずと湧いてくると指摘する。親がああしなさい、こうしなさいと要求を押し付けなければ、子供は自分の興味のあることに取り組む。自分から練習に取り組み、挫折を経験してもへこたれずに頑張る子になるという考え方だ。
では一体どちらが正しいのだろうか。私の見解を述べたい。第一に「優しい育て方」と「厳しい育て方」は、どちらか1本しか選択できないようなものではない。愛情故の厳しさで、愛情を持って子供の自主性を尊重するか、断固たる態度で親の言うことを聞かせるか、その2つの間の妥協点を探すことだと考えるのは間違っている。現実的に考えて、それらが両立できない理由などひとつもないからだ。
結論から言うと、「子供に厳しい要求をしながらも、支援を惜しまない育て方」が有効だと思う。「暖かくも厳しく、子供の自主性を尊重すること」が大事である。ここでは、抽象的な概念の説明だけになってしまうので、この子育ての具体的な方法を、次の章の「課外活動を絶対にすべし」で説明する。
・「課外活動」を絶対にすべし
バレエや、ピアノや、フットボールなど、体系的な練習が必要な課外活動には「やり抜く力」を伸ばすのに効果的だと思っている。課外活動には、ほかの活動にはない重要な二つの特徴がある。ひとつは、親以外の大人の指導を受けること。もうひとつは、このような活動を取り組めば、興味を深め、練習に励み、目的を持ち、希望を失わずに取り組むことを学べるからだ。
とはいえ、課外活動の効果を示す科学的根拠はまだ十分とは言えない。スポーツや音楽などの習い事や、アルバイトなどの活動に、子供たちを無作為に振り分けて観察した実験など、例を挙げたくてもひとつも思いつかない。それでも、私は課外活動が、子供の「やり抜く力」を育てる手段であると思う。それは「最後までやり通す経験がやり抜く力を鍛える」からであり、「最後までやり通す経験」から人格が形成され、「難しいことを続けると、貪欲に物事に取り組めるようになる」になり、そして「勤勉さ」は「練習」によって身につけられると考えているからだ。
ここで、私の家庭で設定しているルールについて、ご紹介しよう。我が家には「ハードなことに挑戦する」というルールがあり、4つの条項がある。
1.家族全員、一つはハードなことに挑戦しなければならない
「ハードなこと」というのは、日常的に「意図的な練習」を要することだ。
2.やめてもよい
ただしやめるには条件があり、シーズンが終わるまで、授業料をすでに支払った期間など、区切りの良い時期がくるまではやめてはならない。始めたことは最後までやり通すべきであり、最低でもある程度の期間は、一生懸命に取り組む必要がある。
今日先生に怒鳴られたから、競争で負けたから、朝練が辛いから、などという理由でやめてはならない。嫌なことが有っても、すぐにやめるのは許されない。やめたあとは、また新たに「ハードなこと」への挑戦を始める。
3.「ハードなこと」は自分で選ぶ
選ぶのを他人任せにしない。自分が少しも興味を持っていないのに、ハードなことに取り組んでも意味が無いからだ。
4.これは高校生になってからだが、最低でも一つのことを2年間は続けなければならない