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奥の自分がオールオッケーな理由/自分次第で「変わる世界」

おはようございます。まいです。

前回の記事はコチラです「私の見えない世界での楽しみ方」↓


現在は「エゴとお遊び」していて、ただ楽しい毎日を過ごしています。
この前久しぶりに会った知り合いに言われて、私がInstagramを更新していない事に気づきました。
忘れていたわけではないけれど、確かに更新が止まっています。(いや、忘れていたか…)
特にとてつもなく忙しかったわけでもないのですが、理由を自分なりに考えたら、更新を義務にしないでいても良くなったからだと思います。

やり取りが必要な方からは、連絡がくるし、必要な事が起これば私から直接連絡します。

エゴをなだめて、奥の自分で過ごしていたら、Instagramの更新は自分にとってなんだったのかを知る機会になりました。


見えない世界を楽しんでいることこそ

私たちはこの世界に産まれる前は、どこにいたのでしょうか。
考えた事がある方は数多くいらっしゃると思います。

私はあえてエゴが考えそうな「良い悪い」を当てはめて考えていました。


1・こう考えると辻褄が合う「魂は不自由だった」


奥の自分はこのカラダに入って、どうして人間の世界を生きる事になったのでしょうか。
人間の世界を軽いとした場合、逆を想像すればわかります。

奥の自分がもともといた世界は重すぎて身動きが取れず、縛り付けられるような世界だったのです。なにもない世界だったのです。
とある魂は思考を膨らませることに成功し、情報を掴み「身体を自由に動かせて、周りの存在と意思疎通ができ、思考し、発展させることのできる人間界」に憧れを抱き、もともといた世界を飛び出したのでしょう。

そこで気づくわけです。身体を自由に動かせて、周りの存在と意思疎通ができ、思考し、発展させる世界にも不自由はあるのだと。
その魂はもともといた世界の良き部分を思い浮かべながら、思考錯誤して人間界を生きるのです。



2・こう考えると辻褄が合う「魂は自由だった」


奥の自分がもともといた世界はどんなところだったのでしょう。
人間の世界を重たいとした場合、逆を想像すればわかります。

もともといた世界は軽くすべて見とおすことのできる、全知全能な世界なのではないでしょうか。
わざわざこの重たく霞がかった世界へやってきたのは、その世界を体験したいからでしょう。

喜びを感じる為に悲しみや怒りがあります。オールオッケーの世界にはこれらがないのです。良い悪いがないなにもない。のです。

奥の自分は人間として生きるこの世界に「刺激を求めにきた」のではないかと考えています。その刺激を起こす演出家として、エゴを作り出したのです。
エゴは「良い悪い」を判断する機能があり、判断した後に感情を作り出すのです。
奥の自分は、それを体験して面白がっているのです。
…ということは、奥の自分にさえ戻ってしまえば、全知全能な在り方に戻れるということです。身体はこの世界のものですから、すぐにどうこう出来るわけではないと思います。
しかし、頭の中はいつだってどうにでもできるのです。
奥の自分に戻って頭の中にあるエゴを選び直すだけで、軽やかにいられるわけです。(この時選び直したエゴは奥の自分の思いでしかなくなるのです

奥の自分はこのカラダを使って遊びに来ているのです。
奥の自分にとって人生という物語が、どんな内容でもオールオッケーなのは、私の「全部見える世界への憧れ」のようなもと同じように、
奥の自分も「何も見えない世界への憧れ」を体験中だからなのです。

エゴとお遊び まい


自分次第で変わる世界


この二極の世界を感じた時、「なにもない」には全てがあるように感じます。

このふたつの世界があるから、人間界は面白いのかもしれません。

この場合、私は後者(2・こう考えると辻褄が合う「魂は自由だった」)の考え方を採用したいと思っています。
面白くないと重さを感じるよりは、面白いと軽く感じていたい。からです。

人間界の「考える事は自由」にありがたみを感じます。

エゴを見捨てることなく、存在を感じながらも自分で選び、
自分の感じ方を自由にできるのが「エゴとお遊び」です。

エゴとお遊び まい


私は一つの考え方として、奥の自分に戻る「エゴ探し」と「エゴとお遊び」を採用しています。


ぜひ、気になった方はスキやフォローをお願いします♪

最後まで読んでくださり、ありがとうございました^^

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