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心身の変化の観察

最近はどちらかというと、本を読んだり、映画やアニメ、動画を見たりと、インプットに偏っていたような気がする。
今日(昨日になっちった)も早朝、いつものように散歩していたら、そろそろ排出しといたほうがいいかな?って気がしてきたものだから、じゃあそうしようか!とこうして筆を取った。(パソコンを開いた、キーボードを叩いたの方が正しいがカッコつけたくなった。)

最近なんだか

最近、調子がすこぶるいい。
何年か飲んでいた精神薬(インチュニブ、ラツーダ)も医者には黙って、勝手にやめた(良い子は真似しないでね)。病院も行くのをやめた。やめるなら今しかないと"直感"したんだった。
僕にとってはこの直感というのは面白いもので、過去を遡ってみても、大学の卒業制作(僕は建築学科という建築士になるための資格学校卒!!)の最後の講評会でだって作った建物そっちのけでそんな話をしたこともあった。が、講評に来た自称建築家たちからは「何言ってんの?全然分からない」とバッサリ切り捨てられたものだ。懐かしい。今でも根に持っているからこうやって覚えているのか笑 あれ?話が全く通じないぞ!え??嘘??ってびっくりしたのだけはすごく覚えている。それくらい僕にとっては衝撃的なことだった(僕は特別だ!なんて言いたいのではないよ!)。
とはいえ、直感というものが何なのかは僕にもいまいちよく分からないが、世の中見ていてもおかしいもんはおかしいんだし、面白いもんは面白い、美しいもんは美しいわけだ。別に音楽を聞いていて「いちいちこの音はドだな!とかこれはシだ!」とか考えていないじゃない。なんかいい!って直感している(のではないか?)。人を見たってその内容というよりは、その人の為人というのか態度や声?、はたまたその間に何だか惹かれて、話を聞いてみるかと思うのだろう。そうした言葉とも分からぬ、雰囲気?スピリチュアル的には波動とかいう?東洋的にいったら気とか?音楽でもそうだったが気持ちがいいとか、元気って言葉もあるくらいで。そういうものに直感が作用しているのは、それこそ"直感的に"分かるような気がするんだった。

そうして今日もその直感とやらに突き動かされて、こうやって文章を書いてみることにしたんだった。まぁ僕はみんなに比べてめちゃくちゃ暇だからね。最近はバイトも検便からサルモネラ菌が検出されたから出勤停止ね!なんて法律とは何ら関係のない会社のクソルールに付き合ってあげているもんだから、尚更暇なんだった。まぁ法律と紐付いていたとしたってだからなんだよ!体内に100兆もの菌がいるのに1種類を取り出してギャーギャー言ってんじゃねぇぞ!クソが!(検便だけに)って話なんだろう。本当にどうでもいい。つまらない。今んところはまるで使っていなかった有給で何とかしているが、このクソルールが続くようならバイトもやめよっかな〜と思っている(最低限のお金どうすんねん!?って話はあるけどね)。まぁそのおかげでお小遣いでももらいながら自分の興味をひたすら掘り続ける毎日を送っている訳で、めちゃくちゃ楽しい!

何を書こうかと思った時に最近自分が何に楽しさやワクワクを覚えたか?って考えてみると、やっぱりここ最近の心身の調子の良さだろうなって。
身体図鑑なんてみてみて、へぇー肺ってこんなにでかいんや!!とか
古武術の動画を見たりして、へぇー肩甲骨ってめちゃくちゃ動くんや!とか
自分自身の身体を観察してみたって、あれ?昨日より鎖骨が上向いているような…とか、前から見た時に下部肋骨が身体の横に向かって飛び出ていたのがだいぶ引き締まってきたような…とか、身体っておもろすぎんか??ってことばかりだった。
そうやっている内に、あれ?そういえば精神面も安定してね?そういえば鬱来てなくね?ってな感じで、どうも身体と精神繋がってんじゃね?てかわざわざ分ける必要もないんじゃね?とか色々と見えてきた(ような気がするんだ)。これが面白くて面白くて仕方ない。
今もそうやって毎日自分を観察してはおいおい!なんでこんなことを大人は教えてくれなかったんだ!僕も27歳になって漸く気付いた訳でそんなに偉そうなことは言えないが、僕の倍くらい生きてきた、それこそ(立場上ではあるが)先生なんて呼ばれている人が1人もこんな楽しいことを教えてくれないで、何が教育だよとあえて怒ってみることだって出来る笑

そんなやたらと元気になった僕にも、きっつい時期があった。そこから話しておいた方がいいのかな。孤独死寸前のところまでいったことがある。運よく助かっただけだ。だから若者の孤独死とか自殺といったニュースはどうも放って置けないというか、他人事ではないと感じるんだった。日本は平和だとか言われるもんだが、僕からしたらどこがやねん!ふざけんな!と思う訳だが、それに対して出来ることって何なんだろう?と考えてみると、ある種の無力感に苛まれる時もあるもんだ。だから友達が鬱っぽい時なんかはいつでも電話してな〜(普段は電話には出ないよ!)変な時間に繋がるの僕しかおらんやろ!と、坂口恭平がみんなにしていることを、僕はとりあえず周りの人に限ってではあるが、やってみている。ただ、そのためには僕自身が元気じゃないとやってらんないということも分かってきて、僕も誰かの鬱に飲み込まれて鬱落ちしたこともあった。まずは自分を救う方法から学ばないといけない。でもその方法が何年も見出せないでいたんだった。その一端が掴めたのがここ数ヶ月の話だろう。

僕の生い立ち(飛ばしちゃっていいよ〜)

一度、僕のこれまでの背景を話しておく方がいいのだろうか。
1997年4月11日生まれの27歳。男(ちんちんがついているからね)。血液型はB型らしい。今流行っている(ちょっと前か)MBTIはINTP-Aだったか?まぁなんでもいい。

生まれてから義務教育あたりまでをざっくりと話すと、"優等生"やってた。成績はほぼオール5(5段階評価)で、水泳をやっていたけれど(0歳〜高3の夏までの18年?)ジュニアオリンピックにだって出たことがある。スイミングクラブに通っていたが僕の記録は10年ほど塗り替えられることはなかった(僕の教え子というか弟分がそれを塗り替える)。体育の授業だけでバク転くらいは出来るようになったくらいで球技はあんまりだったが、運動神経もそこそこだったんじゃなかろうか?絵を描いたら市の施設とかどっかに飾られたり、後輩たちの参考として学校に残していい??って手元にあまり残っていなかったり……。生徒会長やら学級委員を先生から頼まれて仕方なくやったこともあった。彼女だっていたぜ!(今では考えられんが)多少はモテていたんだろう。そんなんやからめちゃくちゃ調子乗っていたと思う。というか視野が狭まっていた。だって何をしても大人が評価してくれたから。ちょろいなって。そうやって腐っていったんだろう。

高校には別に何の苦労もなく近所のテキトーな自称進学校に進学した。今でも集まれる友人と出会ったのはこの頃だ。みんなどんどん結婚していく。流石、人生の立ち回りが上手い。
が、何となくこのころ辺りを境にどうもつまらないなぁって感覚が襲ってきたんじゃないかと振り返ってみると感じる。
おそらく受験というシステムに乗っからざるを得ない(全然そんなことないんだよ)状況にあったからなんじゃないかと思う。
面白くも何ともないことを強制されるような。相変わらず調子に乗ってはいたが、先生の言うことを内心何いってんだこいつと思いつつも、どこか漠然とした不安に襲われるようになっていく。優等生という仮面(これも勘違いなんだろうけども)と心身との間の捻れがここら辺から生じていたのではないか??

大学もまぁテキトーに愛知県内ではそこそこ伝わる(県外や東海圏を出たら誰も知らんやろうな)名城大学の建築学科に進学した。大学生になって初めて電車通学になり、暇やから本を少しずつだが読むようになっていった。でも不思議なことに建築系の本は苦手で、大学の図書館でテキトーな建築雑誌をパラパラと眺める程度だった。授業もそんなに面白かった記憶がない。「あれ・それ・これといった身体や空間認識、空間スケールと言葉の関係性」、「アフォーダンス」辺りにだけ、お??おもろいやんけ!って思った記憶がある。僕にとって面白かった授業はそんなくらいだったんじゃないかな。
設計課題もテキトーにカッコいいもんつくりゃいいんやろ?って感じでまたまた舐めていた訳だけど、それで最優秀賞とか取っちゃうから良くない。
お酒飲んで友達とアホやっている時間だけが救いだった。
研究室での活動はそこそこ有意義なものだったと思う。蔵やビルの改修、家具やインスタレーション作品を作ったこともあったか。実際に自分たちの手を動かしてモノを作るってことの楽しさはここで改めて学んだと思う。
研究室は朝から朝まで模型を作ったり、プレゼン資料を作ったりとブラックだったこともあり、単位をバカほど落とした。卒業はギリギリできたものの大学4年生の前期まではしっかり授業があった。卒業設計が始まるとどんどん精神的に不安定になっていく。恐怖で研究室で泣いたこともある。ただ、こうやって後々振り返ってみると、何に興味を持っていて、何に面白さを覚えていたのかってのは一目瞭然なのだけど、そんなのを無視した、やはり優等生気質とでもいうのか、誰かの顔色を窺ってしまうような病的な側面との捻れが限界に近づいていたのがこの頃だろう。
結局、訳も分からず建物を作ったが、とにかく辛かった。本当におかしかったから、自分のやるべきことが分からず後輩にCADソフトを教えたりしていた。

就活はほとんどしておらず、一個だけ行ったインターンシップがクソほど面白くなくて、やってられっか!とブチギレ就活は終わった。かといって大学卒業してもやりたいこともないしなぁ。そうやって成り行きで大学院に進学することになる。大学院入試の時期はあんまり覚えていないのだけど、大学4年のわりかし前半だったのではないだろうか。とにかく「建築への違和感」というものだけを持って、IAMASという岐阜県の大垣市にある大学院に進学した。推薦入試だったが前日眠れなかったのと、この頃から潜んでいた精神的不調も相まって、そこでも訳の分からんことを言いまくった(らしい)。多分伝わったのは先も言った通り「建築への違和感」だけだったんだろう。大学院に入ってから後々聞いた話だが、先生の中でもなんだあいつはと物議を醸したらしいが、松井先生が僕を掬ってくれて、何とか進学出来た。本当に運だけはいい。因みに名城大学の大学院も受けたが、ここでの面接でも先生方にまぁ怒られた。とにかく僕の面接は酷かったらしい。そんなつもりはまるでないのに「ふざけてるのか?」って。

そんな風にして2020年にIAMASに入るのだが、時期はコロナ禍とモロ被りだ。
このIAMASって大学院はめちゃくちゃ面白いところで、入学式からもうおかしかった。会場の邪気を払うために法螺貝を吹いたり、銅鑼を叩く。この時点で明らかにおかしいのだが、当たり前のように司会は進行していく。「何だこれは!」と今までいた環境とはまるで違うんだと直感していた。
新入生は自己紹介のために作品を作るんだけど、自分の指紋を拡大して貼っつけて「生きてきてこうなった。これでも見てろ!」とか、「卒業設計では街にポエムを貼り付けてたよ!」とか、「アロエは楽器なんだぜ!?」とか、同期の作品にだって圧倒されたもんだ。

何よりも驚いたのが、授業でも面談でも雑談でも、ここにいる大人たちが自分の作っている作品ややっていることをめちゃくちゃ楽しそうに話している姿だった。思い返してみると僕は今までにそんな大人たちに会ったことがなかった。「勉強しなさい!」と言いつつ、まるで勉強している姿なんて見せない大人、会社の愚痴ばかり吐く大人、綺麗事ばかりいう大人。そんなんばかりだった。そして過去、僕を評価したのもそうした疲れ果てた大人たちなのであって、僕はこのままではいけないんだとようやくここで気付かされたんだった。いつも気付くのが遅い。気付けるだけありがたいのかもしれないけれど。
しかし、ある意味では僕を支えていた支柱がここで大きく崩れ去ったことも意味している。というよりも、そうした支柱は基礎のない宙ぶらりんの状態だったのであり、地に足ついたものではなかったのだと。そして、そこに今まで抱え込んできた心身と仮面との間の捻れが、弾けとび、地震のように迫ってきた。当然耐えられる訳もなく、僕はポキっと折れた。

もちろんコロナ禍という影響も多分にあったはずだ。初めての一人暮らしに加え、リモートでの授業。ロックダウンだの「密です!」とか言って、人との物理的な繋がりはほぼほぼ断たれていたわけで、そうした影響ももろに受けた。

しかし一筋の光もまた差してはいた。
ゼミ的な形でデュシャンについて話していたことがあって、その延長でオープンキャンパスでアンフラマンスについて何かしら発表をする機会をもらった。アンフラマンスについての資料や文献はなかなか限られているし、それを読んでもどうも捉えにくいところがある。そうしたふわふわした感覚を僕の日常の風景の中での手触りに当てはめて感じてもらおう!と言った何ともお粗末な発表をしたことがある。僕は当時からサウナにハマっていて、大垣には有名な大垣サウナもあることだし今日は贅沢すんぞー!!って時は利用していた。そうしたサウナにおける体験や、煙草の湿度による味の違いと言った、結局のところ分からん人にはまるで分からんまんまの、だけど分かる人には感覚的にどストレートで入ってくるような体験に落とし込んだ。
最終的な結論としては普段我々が何かについて見たり聞いたり感じたりする際の焦点は"外側"に向かっての"集中"に偏っているんだろうと。それをもっと広範に、集中↔︎ぼけ〜(弛緩)、はたまた内側↔︎外側と言ったスペクトラムによる4象限マトリクス全体に広げてみたら、それであなたもアンフラマンスをつかめるかもよ!?と言った感じだったかな?
今だったら、それは例えば宮本武蔵の見の目、観の目とか、身体の重心の話とか色々広げられたかもなぁとも思うけど、まぁ割と好評というか、そこそこ反応をもらって、手応えがあったこともあるにはあった。

とはいえ、長年付き合ってきた癖や習慣というものは恐ろしいもので、松井先生からはいろんな助言やアーティストの事例をもらって、そんなに気張らなくていいんだよ!小さなことでもアウトプットしてみ!って常日頃から伝えてもらっていたものの、まぁ自力でそこから脱出することが出来ないでいたのを、自分でも情けねぇなぁとどんどん自分を追い込んでいったところをコロナ禍によってトドメの一撃を喰らったと言ったところだろう。

それからは鬱でベッドから動けない日々を送っていた。
怖いことに、その頃どうやってトイレに行っていたのか、何を食べていて、そもそも食事を取っていたのか?どれくらいの間何も食べていなかったのか、などなど、正直なところ何も分からないのね。記憶が全くない。
YouTubeでカップルが鬱落ちした彼女が床を這って移動しているところを彼が撮影したのを投稿しているのを見たことがあるが、きっとあんな感じだったのかな?って想像することしか出来ない。
一人暮らしだったし、そのまま孤独死していても全然おかしくなかったと思う。
もちろんその間、授業は出ていないし、プロジェクトも行っていなかった。
おそらくそれでLINEやSlack、メールでメッセージをくれていた人もいたんだろうが、罪悪感や恐怖でスマホの通知や、下手したら電源も全部切っちゃっていたんじゃないかな?と思う。それくらい頭もおかしくなっていたんじゃないかな。
年次制作の締め切りを過ぎても連絡がないことに痺れを切らせた大学院側が、親に連絡して、親が下宿先に乗り込んできたことで僕は今、生かされている。


鬱になってみて

精神科に行って、血液検査やカウンセリング、親へのヒアリングとか、いろんなものを受けて、双極性障害とADHDって診断が降りた。
最初の内は家を出るのも怖かったから、精神科も親に連れて行ってもらってたかな。おいた老犬のような足取りで色んな公園を親と散歩したこともあったか。
前に付き合っていた彼女が「陽は浴びろ」って言ってくれて、今でもそれは守っている。
笑顔が消えた。これは結構辛いことだった。何を見ても楽しいとか面白いとか思えないでいた。そうやって考えてみると疲れ果てた大人たちはみんな軽度の鬱だと僕は思っている。
実家に帰ってきてみて、一人じゃないんだと感じられたことは大きかったかもしれない。自然と、小さな歩幅だったが一歩一歩、鬱からは立ち直ることが出来た。
もちろん出来ないことだらけだったけども。
友達にも助けてもらった。色んなところに連れて行ってもらったし、数週間海沿いの家に居候させてもらったこともあった。色んな人に支えてもらって、何年もかけて漸く回復していった。

時間はかかるかもしれない。でも、絶対に回復するから大丈夫。

僕の中での仮説として、鬱は心身と仮面(社会的な要請によって被らざるを得ない)との間に生じる捻れによって引き起こされるものなんだろうと思っている。
ということはとりあえずこの二つに対してのアプローチを考えていければ大丈夫なんじゃないかな??って気がする。


あなたは何人(どこの人)ですか?

散歩していたり、バイトしている時なんかに、お兄さん何人なん??ってよく聞かれるようになった。昔からそうなのではなく、つい最近、それこそ僕が身体というものを意識しだしてから、そう聞かれるようになった。
そうやって聞かれてみて、僕は日本で生まれて、日本語というものを使っているが、僕のルーツはどこにあるんだ?僕は何人なん??わかんねぇなって気付いた。
悟空もピッコロも(ごめん、ドラゴンボールの話ね!)自分のことを地球人やで!(ピッコロの場合は)地球の神様(の分裂体)やで!って思っていたわけだけど、それぞれサイヤ人、ナメック星人やったで〜ってことが分かってくるわけで、今いる場所、今使っている言葉は一つの指標に過ぎないような気もしてくる。

そういえば僕は学校で習った歴史(日本史)において、日本人のルーツというものを習った記憶がない。学校だったか記憶は定かではないが、猿から人間に移り変わるような画像は見たことがあるが、その画像だけが先行し、実際それが何を表しているのかは詳しくは知らない。
何だか原人のような格好をした縄文人いましたよ〜
卑弥呼って女王いたらしいよ〜
至る所に古墳が見つかってるよ〜
聖徳太子っていう人がいたらしいよ〜
ってな感じで、かなりざっくりしていた印象があり、あれ?日本の歴史なんて学校で習ってへんやん!僕は何も知らんのやと結構ショックを受けた。

ちょっと前に元号が令和に変わったわけだけど、その時に今の天皇が即位したわけだ。じゃあそもそも天皇って何なのさ?って、僕同様にかなり曖昧な人が多いんでね??え??ヤバない??

天皇(てんのう)は、 古代以来の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号[5]。称号としては7世紀頃に大和朝廷大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている[6]

2019年令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁明仁第1皇男子)。

wikipedia

天皇は古来より統治権と祭祀権を表裏一体に有し、時代の変遷の中で幕府等に統治権の一部が移ることはあったが祭祀の根本が揺らぐことはなかった[29]。天皇は古代以来の日本人の共同体の中心である「祭り主」でもある[30]。現行の日本国憲法下においても天皇の宮中祭祀は国事行為を越えた「天皇の公事」であり、天皇は千年以上前から今に至るまで毎日、国家の安泰、国民の平和を祈っている存在である[29]毎朝御拝/毎朝御代拝)。大金益次郎は戦後の憲法調査会において個人的祈願はまったく行われずに「ただひたすらに国家の安寧と世界の平和とをお願いになっておるだけ」の皇室祭祀にこそ象徴としての天皇の意義の源泉があり、皇室祭祀は「象徴たる天皇の行事である」と明言している[31]。 1990年(平成2年)、紀宮(現黒田清子)は誕生日会見で心に残っている皇后(現上皇后美智子)の言葉として「皇室は祈りでありたい」という言葉を紹介している[32]。また上皇明仁は天皇在位中の平成28年に「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と天皇の務めは「祈り」であることを自身の退位の際に語っている[33]

wikipedia

wikipediaによるとこんなところ。知ってた?
ちょっと待って、一国の長(って言っていいのかな?君主?)のことも教えてないのはどういうことだろうか?
それで古事記とか日本書紀とか、色々と調べたり、YouTubeを見てみて、ちょっと待て、めちゃくちゃおもろくね??って思うと同時に、ん?なんでこれ教えへんの??先生って何してんの?って。
まぁ、そうやってはっきり言って歴史は習わないわけで、僕らのルーツもまるで分からない。まだ分かっていないのか、分かっているけど隠されているのか、僕には分からないのだけど、何だかこうした僕たちはどこからやってきたのか?故郷はどこにあるんだろう?そうした生きる上での基盤が揺らいでいることについては、頭の片隅にでも入れておいてもいいのだろう。

故郷喪失という言葉は福田恒存が使ったんだっけか?小林秀雄も故郷や伝統と言っているんだっけか。最近この辺の人たちの話を浜崎洋介を通して知って、いくらか本を読んだが忘れてしまっているようだ。三島だったらそれは天皇という言葉にしていたんだったか?最近、ちょちょいと手を出した程度で、全然詳しくないけれど、何となく僕のなかではそうした理解だ(違ったら訂正して!)。
僕は建築を齧ったわけだが、建築家の中にもこうした故郷について語っている人がいる。吉阪隆正、U研だ。「好きなことはやらずにはいられない 吉阪隆正との対話」という本の中で、「故郷とは場所の記憶」という言葉が登場する。

故郷とは場所の記憶
記憶とは生まれてから今までの経験ではない。「生まれ備わっている」ものなのだ。赤ん坊が生まれる、赤ん坊が立つ、私達の細胞の太古からの記憶。故郷とははるかな生命、場所の記憶である。現象がたとえ消滅しても、場所は生きつづけている。記憶はとどまることもなく、とだえることもない。なくなることもない。故郷とは永遠である。故郷とは想像する力である。希望はこのような場所にのみ存在する。

好きなことはやらずにはいられない

と、書いてある。何だか分かるような分からないような、そんな感じだろうか。
他の章や他の本の内容とを鑑みるに、超ざっくりとこうした故郷の探し方を「発見的方法」と彼らは呼んでいたっぽい。
もう一人、小林秀雄の文章についても取り上げようか。小林秀雄とは誕生日が一緒(実際に生まれたのはもう少し早かったのではという話もあるが、、)だから、いつかしっかりと対峙しないといけないなぁと思っている。まぁそんな話はいいか。

伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければ僕は生きていない筈だ。こんな簡単明瞭な事実はない。こんな単純な事実についていろいろな考え方があるわけはない。だから若し近代人たる僕が正直に自分を語ったら、伝統性と近代性との一致について何等かの表象を納得する筈だ。若し納得出来ないのなら、それは正直さに就いて僕は何か欠けるところがあるからに過ぎぬ、という風に問題を簡単にしてみれば議論の余地はない。

文学の伝統性と近代性

浜崎洋介が書いた記事から持ってきた。歴史というものから、自分たちのルーツを辿れないのであれば、僕らの身体や場所に刻まれた記憶を丁寧に、正直に読み解き、故郷を想像するほかないだろうと。そうして編み出す故郷という基盤の上に立ち、地に足ついた生活を営もうではないか!ってことなんじゃないかと僕は思う。だから建築というとすぐに建物と直結してイメージしてしまうかもしれないが、僕の中で建築はそうした故郷というものに根差した生活のことを指しているため、建物とは必ずしもイコールにはならない。これが少し厄介というのか、周りの人と話が噛み合わない要因なんだろう。吉阪的にいうと生活とは、生き延びるための行為であり時間であり空間である(と僕は読み解いている)。そしてこの建築的な行為が都市、日本、世界から消し去られているのではないか?だからそれについて意識的になることから始めるしかないのかなと。荒川修作もきっとこんなところから、建築というものを考えていたんじゃないか?って僕は思うんだけどね。
とりあえず、絶望する必要はない。まぁそれによって僕は鬱になったといってもいいわけだが。

さて、吉阪であれば細胞、小林であれば血といったように身体の中に眠る記憶に注目しているようだ。そんな記憶を探す旅に出よう。


身体は必ず地球上にある

ひとまず宇宙飛行士といった特殊な事例を除いて、一般的な人間というものに注目していれば必ず地球上で過ごしている。「何を今更」と思うかもしれないが、一度これを前提としておいておく必要がある。頭では分かっていても身体では分かっていないじゃないの?そうでしょ??違う?重力感じてる?笑

これで、一番最初の最近やたらと調子がいいってところに戻ってきた感じがする。
そうした心身の好調の理由の一つがこの身体というものとの対話にあったのではないかと僕は思っている。

こうした自分の身体の観察を始めたきっかけは雪駄を買ってみたことから始まる。
僕が買ったのはこのgoyemonってブランドのunda

スニーカーと雪駄のフュージョンというコンセプトに惹かれたし、見た目もなんかかっちょいいじゃない??大学生の頃から知ってはいたけど、当時はマジでお金なかったし、ちょっとundaのことを忘れてしまっていた。それから何年か経ってSNSでこいつと再会した。時期的にちょうど新しいシリーズ出るで!ってことだったから、予約したんだった。
これが届いたのが確か5月15日とかだったはず。だから身体ってものを考えるようになって、僕もまだ2ヶ月ちょっとしか経っていない。なのに今までとはまるで違う。調子がいい。すごくね?おもろ!ってことで、これはシェアしないわけにはいかないだろうということで、このテキストを書いている。

届いたその日にこれを履いて、10kmほど歩いた。靴擦れはするし、履き心地も悪いし何だよこれ!って正直思った。
毎朝、早朝に散歩しているが雨が降っていない限りはこいつを履いている。今では足の裏で感じる素材感がすごく気持ちよくて、毎朝、絶頂している(言い過ぎか)。でもマジでいい!エアソール部分の耐久性に若干の懸念(1ヶ月ほどで亀裂が入って音が鳴るようになって1度交換してもらっている。対応が早くてそれも最高やった!)があるが、それ以外はもうマジで最高!みんな買ったらいいと思う!

で、雪駄の履き方なんかを調べてみると、例えば小指や踵ははみ出すのがかっこいいんやで!とか、摺り足で歩くのがいいんやで!とか色々書いてあった。
なるほどね!と、実際にやってみるのだけど、摺り足になんか出来んくね?鼻緒が指の付け根にめりこんで、踵もおさまっちまうんだが??と、情報通りに歩くことがまるで出来なかった。
これでundaくそやん!メルカリで売ろ〜とはならず、もしかして僕の歩き方、何なら身体の使い方が根本的に間違ってんじゃないか?ってことにぶち当たった。

それで、例えばナンバ歩きとか、古武術を調べてみたり、整体師があげているYouTubeなんかを見たりして、とにかく空いた時間に色々試していったんだった。
宮本武蔵の五輪書とかいろんな本も読んだ。

そんなかで面白かったのは
究極の身体
高岡 英夫

「筋肉」よりも「骨」を使え!
甲野 善紀、松村 卓


YouTubeだったら腰の王子ゆうちゃん(河上雄太)がめちゃくちゃ良かった。

立て腰体操はマジでみんな毎日やってみ!
心身ともに整っていくと思う!

この辺が個人的にはめちゃくちゃ良かったかなと。

さっきも毎朝散歩しているって話したけども、そうすると犬の散歩と遭遇する。そんな犬の歩き方を観察してみたり、バイト先には赤ちゃんからお年寄りまで老若男女いろんな人が来店するからとにかく観察しまくった(仕事しろ)。
それから身体図鑑なんてものも買って、骨と骨、骨と筋肉がどんな風にしてつながっているのかを見てみたり、ひたすら鏡の前で肩甲骨はどう動くのか自分の体を観察したりもした(お前暇すぎな)。

そんな2ヶ月を過ごした結果が今だ。
毎日調子がいい。歩くのが楽しい。メンタルが安定している。何故かやたらとご機嫌だ。頭がしっかり働くような。何だこれ?

精神科の先生にも運動はいいよ!ってなことはよく言われていたが、別に僕は何年も前から毎朝の散歩はよっぽどの雨でもない限りは欠かしていない。30分程度の運動はずっとしていたことになる。でも、明らかに以前と違っている。であれば、この運動というものについて例え医者というめためた頭のいい人(ほんまにそうか??ということは一度置いといて)だろうと、僕らはきっと何か勘違いをしているのだろう。

運動と聞いて何を思い浮かべるか?
代表的なものは、ランニング!筋トレ!ストレッチ!ってところだろうか。
文字だけをパッとみても分かることはカタカナばっかやなってことやろうか。
で、先の吉阪の言葉と僕のバイト中の観察を組み合わせて、赤ちゃん(赤ん坊)という一つの完成形を僕は見出した。赤ちゃんのその立ち姿はメッシ(ごめんあんましスポーツは見ないから全然詳しくない、、)の如くやたらと堂々としているではないか。別に親が教えたわけでもないのに、時が来たらすくっと立ち上がる。なるほど、確かに記憶は生まれ持っているのか!とこれだけでも分かるんだった。
さて、赤ちゃんは上記のカタカナ的な運動をしているのだろうか?筋トレ一個取り出してみてもいいが、赤ちゃんは筋トレをすることによって立っちを習得したのだろうか??少なくても最低限の筋肉はついているのだろうが、大人に比べてそれほど発達しているとは思えない。明らかに僕と赤ちゃんとの間には違いがある。それは何なんだ?
その答えはおそらく體への意識の差、なかでも骨への意識の違いだろう。そもそもの體の在り方から違っていると言い換えてもいい。
色々と調べているとそもそも体という漢字は"體"って書いたんやで〜(昔から体という字もあったらしいが、使い分けがされていたとか)って情報が見つかる。骨が豊かとかいて、からだと読む。なるほど、これはいい。人間の體には個人差はあるらしいが大体200ほどの骨で構成されているらしい。さて、この200のうちどれくらいを意識しているのだろうか??何となく僕の感覚としては、指や腕といった末端あたりは何となく意識できてるかな?ってくらいな気がする。肋骨って言ったら前から見た下部肋骨押さえるやろ??それなのに上腕二頭筋とか大腿四頭筋、三角筋、僧帽筋と筋肉に対する意識は割と強いんじゃないか?と想像する。というか僕がそうだった。
漢字からも、意識からも、何なら思想からも、體ごと骨抜きにされているぞと分かってくる。まぁ僕はちょっと水泳が得意だった程度で體についてはズブの素人だからあとはシェアした本やら動画でも見てちょうだい。それを生活の中に落とし込んでいけば自ずと體は整っていくはずだから。

そして體を観察していると分かることがある。僕の体感を話すと、肩周りが重たいなぁ、違和感あるなぁって日は大抵の場合、顔も凝っている。
肘を滑らかに動かそうとすると鎖骨や肩甲骨も連動して動く。
つまり、一部だけを取り出して見てみても分からないことが往々にしてあり得る。逆にいうと一部を動かすには、その周辺や、全体で実は動かしているということである。後者についての具体例は先に挙げたが、前者については筋トレを思い浮かべるといいと思う。腕を曲げるのを筋肉的に捉えると上腕二頭筋に意識が集中するような感覚になるとか。つまり運動とはいかに身体を総動員して動かすか?ということなのであり、出来る限り多くの部位を動かしましょうね!ってことなんやろうと。そして骨に意識を転換(もちろん筋肉を動かせるということも重要なのだろうが)してみると、この話の前提にあった「僕らは地球上に生きている」ということとの関係がよく分かってくる。

骨的に"立つ"という運動を捉えてみると、いかにして重力と體の重心とのバランスを取るかという発想になる。分かりやすい例では、小学生の頃、掃除の時間にほうきを手のひらの上に立てて、倒れないように上手くバランスを取るような遊びをしたことがあるかと思うけれど、そんな感じだろう。ほうきの重心を捉え、それを重力のベクトルに合わせて手を動かしてバランスをとる。

歩くというのは今のほうきの例から考えれば、バランスを崩せば自ずとほうきは倒れる。人間には足がついているから倒れた方に向かって自然と足が出る。だから当たり前体操の「右足を出して、左足出すと歩ける」というのは大きな間違いだ。足を出しても歩くことは出来ない。完全に筋肉思考だ。転倒に対して自然と足が出るだけだ。これを連続して行うことで勝手に歩いてしまっている。そう考えると體は常に不安定なのであり、バランスをとり続けるという最低限の努力というものが付き纏ってくる。この努力は地球上で生きる僕らにとっては、重力に従うorあえて外すということなのであり、ようやくそうして自由に體を動かすことが出来る。
僕たちは地上で過ごしているが、マグロだったか忘れてしまったが、魚は海という空気よりも抵抗が強い場所に住んでいる。魚はこの抵抗すらも味方につけて泳いでいるとどっかの本で読んだ。魚も人間もある意味でその場に従ってこそ自由なのだろう。
この地球上で暮らしている→重力と付き合っていくということを運命とでも捉えるならば、小林秀雄が言うような"自由"も、身体性を持ってすんなりと受け入れることが出来るのではないか僕は直感している。

これで何となく初めに僕が地球上に生きているという前提をあえて示した意図が伝わったはずだ。頭では地球上に生きているということを分かっていながらも、きっと重心を一定の位置に保つことで立ち、外すことで歩くといった身体性を持った理解というものはなかったと思う。むしろいかにして重力に抗うかといった感覚の方が強いのでは?とすら思う。少し話がずれて聞こえてしまうかもしれないが、あれも!これも!と選択肢が多いことを自由だと思っているかもしれないが、それで幸せそうな人を僕は見たことがないんだった。自由って何だと思う??


僕たちは無宗教です!

日本人の多く(特に若い人なのかな?)は自らのことを無宗教だと考えているなんてことをよく目にするものだ。
確かに決まった時間にある方角に向かってお祈りすることはないし、これを食べてはいけないなんてものもこれといってない。確かに僕らは無宗教かもしれない。

そもそもどうしてこうした宗教というものを取り上げたのかというと、先に取り上げた重力というメタファー(ある種の運命や伝統)と自由との紐付けについて誤解してほしくなかったからだ。

とはいえ、宗教というものについて僕はまるで考えたことがないから、トンチンカンなことを言っているかもしれない。それについては本当にごめんね!ってことだけ先に伝えておく。ただの妄想って捉えてくれてもいい。

ある特定の宗教名をあげて批判するつもりは一切ないが、どうしても僕には違和感がある。その違和感の正体は"不自然"という言葉に集約できるのかもしれない。
何を信じるでも構わないが、そうして信じるものを巡って喧嘩で済むならいいが戦争なんか始めてしまう。バカなの?って普通思うんじゃないの?って。

キリストでも釈迦でも誰でもいいが、そうしたある人と接してみて粋に感じた。それだけでいいのではないかと僕は思う。何故かそうやって感化された人(もう少し嫌な言い方をするなら利用しちゃお〜って思った人)が、宗教なんてもんを作ってしまっただけなんじゃないかって気がするのね。確かに偉大な発明だ。素晴らしい!が、それで何人殺された?ふざけんなよ。って思ったらダメかしら?

めちゃくちゃ単純な話にまとめるとすると、手垢に塗れてしまって見えなくなってしまった誰かの為人を、発掘して、友達とでも会話するみたく味わえばいいんじゃないか?って話なんだと僕は思う。

その点、日本だったら「いただきます」と言ってご飯を食べたり、家を建てるときは地鎮祭をしてみたりと、生活の中に自然と組み込まれている感じがする。何だろう、上手く表現出来ていない気もするが、そこに誰のエゴも感じない気持ちよさがあると思うんだった。
クリスマス、バレンタイン、ハロウィン……何だって吸収して魔改造。まぁ日本におけるこれらにはエゴは感じるな。僕はあまり好きではない。楽しむ分にはいいだろうが。例えとして、ただ単純に粋だな!って感じたり、直感の生まれる余地や自由について、もう少しだけ掘り下げておきたかっただけだからあまり気にしないで。

キリストや釈迦を粋だと感じるあなたの感性はきっと素晴らしい。が、もう少し、それこそリラックスしていいのだと思う。日本では八百万の神なんて言葉があるように、人だけでなくあらゆるものに対してそうした生命力というのか、何かを感じ取り、受け取り、交わる。言い換えるならば、自由や直感が発露する引き金をそこら中に見出している。
これは先に書いたデュシャンの「アンフラマンス」について僕が導き出した感覚や、宮本武蔵の「見の目」、「観の目」なども、同様の話だと僕は思う。

面白いことに後者については浜崎洋介も「小林秀雄の「人生」論」の中でリファレンスとして挙げている。僕、個人としては、お!まじか!ここで宮本武蔵とも繋がってくるのか!と少しテンションが上がった話だった。実際に五輪書を読んだばっかりだったし。そしてそれの補足して、もっと面白い、実際に体感できる方法を僕は知っている。まぁ、腰の王子の受け売りだが。
目の露出している部分(表と言おうか)、つまりは誰かを前から見て目として認識するような、白目と黒目が見て取れる部分(ごめん、分かりづらいね、、黒目って考えてくれていいよ!)を意識してものでも景色でも何でもいいから見てみる。これはある一点に集中してものを見るという「見の目」なんだろう。
それから逆に目の裏側を意識して、同じくものや景色を見てみてほしい。ぼけ〜っと見るような感覚になり、こちらから見ているというよりはむしろ視線を向けている対象からこちらに飛び込んでくるような感じがするはずで、これはどちらかというと「観の目」となるだろう。
また、これの面白いところは、目の表側、つまり「見の目」の意識の時には呼吸が止まり、逆に目の裏側を意識した「観の目」の意識している時には呼吸に無理はないという点だ。

これは僕なりのアンフラマンスの理解の構造に当てはめると、見の目は外に向かって集中し、自身の内側における活動は呼吸というものに焦点を当てれば停止している。逆に観の目は外に対しての意識は弛緩していてあらゆる情報が飛び込んできて、内側における活動は正常に動いているといったマトリクスが実際に体感できる。おもろくね??

まぁ現実はもっと複雑なんだろうけど、そうした内と外、集中と弛緩という観点で見てみると、多少は日本の文化、伝統というものや、宗教、自由、直感というものが透けて見えてくる。
これが無宗教という名の(エゴからの)自由に繋がるのではないだろうか。


さて、無宗教とは言いつつ僕らにだって変な信仰がある。エゴが強めな側面の観察とでも言い換えてもいい。
わかりやすい例は「お客様は神様です」ってやつだろうか。
僕にはフリーター的成分と実はロゴデザインをしてみたり、アクセサリーを作ってみたり、絵を描いてみたり、バッグを作ってみたりと言った、フリーランス的成分やアーティスト(そんな大層なもんでもないが)的成分もあまりお金にはなっていないが、あるっちゃある。
後者のように個人的にクライアントとやりとりする分には、マジで神!ってお客さんもそりゃいるんだけれど、フリーター的側面から見たらおっと??って感じることは多々あるぜ。で、こうした僕のフリーター的側面であれば、例えば社会人をやっている友人たちともそこそこ共有可能な話だと思うからその辺にフォーカスして話してみようか。

「お客様は神様です」
これをフリーターとして見てみた時に感じるのは、だったらどうしてお偉いさんはそんな神様とは一切関わろうとしないんだろうってことだろう。本当に神様なのだとしたら直接挨拶なりお礼をしたらいいと思うのだけど、どうも彼らは口ではそんなことを言いつつ、他の神様の顔色を窺っているように見える。株主や役員が神様なんだろ?って。僕はコムデギャルソンって服のブランドが好きなんだけど、度々川久保玲本人が接客してくれたって話を聞くもんだ。まずはやってみせることが重要だろう。お偉いさん聞いてる??その辺の何たらマネージャーとか言う人でさえ、パソコンの画面の中の数字と睨めっこしてるもんな。バカか。
テキトーな居酒屋でも想像すると、最低賃金ちょっとで働く、学生や主婦、フリーターが店を回しているんじゃないか。いたとしてもポツンと一人店長でもいるくらいだろう。それも別に高待遇だとは全く思わないし。
どうして神様と直接やりとりできる特殊な人間、崇高な天使たちにそんな扱いが出来るんだろう?と不思議な気持ちになる。
結局のところやはりここにもエゴが渦巻いているだけだと思っている。
詳しい会社の構造どころか僕は今、時給いくらで働いているのかも知らないし、一緒に働いている人たちが何歳なのかも人によっては全然知らない笑(それはまずいか、、)だからこれもテキトーな戯言やと受け取ってくれればいいが、何のために利益を上げたいのかがまるで見えてこない。別にどれだけ売り上げをあげようが時給は決まっているのだし、多少の賞与はあれどその売り上げからしたら、たかが知れている。こんなシステムなんだからやたらと動きの悪い大学生や高校生の方が僕にはよっぽどまともに見える。こんなもんサボる方がまともだろ。そうした文脈で言えば主婦は頭がおかしい。給料に対して仕事が出来すぎる。やりすぎ。サービスが良すぎる。視野が広すぎる。だからもう一度言うがこの文脈においては頭がおかしい。が、社員は売り上げのために頑張ろうね!!って態度が目立つ。マジで意味が分からない。なんで??何のために??

まぁ各々自分の立場や仕事に置き換えて考えてみてくれればいい。
おかしな信仰が蔓延っている。
何も粋ではないのである。疲れている。目が死んでいる。みんな少々鬱である。

こんなものを信じて何になるだろうか??
自由とは程遠い仮初めの運命だ。糞食らえ。

でも、最低限のお金は必要やもんな。
別にやりたきゃないが、お金は必要やしって続けている人は多いだろうし、僕はそれを解決する方法は独自に見出すことが出来ていない。と言うかあるにはあるが(フリーター成分やアーティスト成分もあるっちゃあるからさ!)、技術的にも、嫌なクライアントは絶対にいるっていう点で再現性には乏しい。僕もサボりまくって稼げていないし、出来るだけ税金は払いたくないから抑えているところまである。


お金って何なん??

超ざっくりといろんなアプローチを考えてみたが、謎の概念「お金」ってやつにぶち当たる。僕は別に実家ぐらしだし、超元気やし、興味あるものをテキトーに掘っては楽しんでいる。別に欲しいものも車とか家とかでっかいものでもない限り、ある程度は自分で買える。何ならあんまり物欲もない。つい最近まで口座残高が3,764円だった。が別に生きてる。もちろんバイトやロゴデザインの報酬が入ることが分かっていたからある程度余裕があった訳だが、、

そうやって考えてみると僕がお金を必要になるのは、究極的には納税のみだったりする。例えば食べ物だったらおじいちゃんおばあちゃんが畑やってるから野菜なんかはもらえる。他にも僕が作ったカバン(それを作るのにお金かかったとかは一旦おいとく)と自転車とを物々交換したこともある。水はキャンプ用にだけど濾過器を持っているから最悪、川の水でも湧き水でも汲んでこれば困ることはないとかね。iPadなんてお下がりでも別にそんなに困ることはないだろう。なんか色々理由を付けて書いてみたが、もっとシンプルに小学生の頃はお金なんてなくても遊べたのになぁって考えてみてもいいかもしれない。何故か大人になるにつれてお金がないと遊べなくなっているような気がするが、別に公園でボケーっと過ごすんでもいいじゃないのって思うわな。
もちろんお金は必要なのだけど、"絶対に必要"になるのは納税の時だけかな?って。
で、どうやってお金って作られるかっていうとまぁ用は誰かしらの借金なわけで、そこには利子がつく。借金を返しても利子は残るからそれを払うためにはまた誰かしら借金してのループになる。誰かしらが借金することでお金は供給され、絶対にお金が必要になるように利子やら納税の義務が発生しているって感じかな?超ざっくりとね。
なんだこれ?そう考えるとなんら有難いもんでもないんじゃ…って気がしてくる。というか、このシステムははなから限界があるんじゃ??って分かるだろう。下手したら詐欺だろう。

お金の心配さえなくなれば、心身をきちんと整え、精神的にも身体的にも地に足つけるだけなんじゃ?と分かってきたが、このお金ってやつからの解放ってのはどうも解決策が分からない、、

一個あるとしたら、それは東京都知事選挙を一通りさらっていた時に、木宮みつきさんが演説していたので知ったGESARAくらいやろうかね。
陰謀論だ!って声もあるけれど、こういうオカルトチックなものは僕も正直ワクワクしてしまうものだ。現実がこれだけ腐っているんだから、こうやってドカンとひっくり返ってくれるならどれだけいいことか。信じてみたい気持ちもあるし、期待したっていつまでも変わらないことでどんどんと絶望も募るだろう。が、都民でもないのに都知事選について調べてみて、こんな人も、こんな方法もあるんだって知ることが出来てよかった。例えそうならなくても、パラレルな世界線の一つとして一筋の光を見たのだから。実際にそうなったとして、いいことばかりなのか?とかもちゃんと考えといた方がいいのかなとは思うけど、僕は幸い暇だからまた考えてみるとしよう。


何のための平和

超ざっくりと心身と仮面に対してのアプローチを僕なり考えてみた訳だが、現実そんな甘くないで!って声が聞こえてきそうだ。
でもさ、なんかそろそろ世界は限界なんじゃね??ってのはみんな共通して思ってないかね?いくら減ったとはいえ、今でも年間2万人は自殺している。これが7年続けば広島に原爆が落ちたのと変わらない。逆に言えば7年に一度は必ず原爆が落とされているのに「平和だねぇ」なんて口が裂けても言えないだろう。仮に生きていたとしても、小学生でももう既に目が死んでいる子を何人も接客しているわけで、そこに活力はない。鬱なんてならないでいいなら誰もなりたくないだろう。すごい辛いもんな。孤独死なんて誰が求めているんだ。親が疲れているから子どもの相手も出来ないでいる。親なんてもんは何十年も前からもういないんだ。これでどうして明るい未来が待っていると言えるのか。少しずつでも出来ることをやってみるほかないじゃないか。まずは散々痛めつけてきた自分自身を救ってあげればいい。その方法を周りに共有してあげればいい。自分に余裕が出て来たのなら直接、周りを助けてあげればいい。そんな風にして少しずつ平和を取り戻せないだろうか。

僕の勝手ながらの師匠にはいろんな人がいる。誰とも直接話したことない笑
その中の一人が吉阪隆正だが、彼はこんな問いを投げている。

平和
世界平和を祈ること今日より切なるはあるまし。と言うことは、それだけ世界は危機にさらされているということなのだ。一体その危機はどこにあるのだろうか。それを解除させる方法はないものだろうか。私はそのために何を成し得るだろうか。
 これらの問いが私を今日まで導いて来た。私が建築を自分の専門に選んだ一つの理由もそこにあった。人々が相争うのは、お互いに相手を理解し信じ合えないからだと思え、理解させ信じさせるには実証するのが一番確かで早道だ。建築はその国の、その時代の感情と知性と、即ち芸術と科学とを、物質を通じて一つの体系にまとめたものだと思い、国々のそれを、各人のそれを、かくかくと説明し感得させることによって理解と信頼のたすけとなるであろうと考えた。
 悲しい哉、私自身応召出征という憂き目を見なければならなかった。いったい人類の生活は平和の中を戦争が乱すのか、あるいは戦争状態の中に時々平和が訪れるのであろうかとさえ疑わずに居られない。もし後者であるならば、私の選んだ途ではまだ不十分であった。和解することを本性とするのでなかったら、何の役にも立たないどころか、却って対立をはげしくするだけだから。そしてどうも後者らしく思える。それならば、なぜに戦争をし、何のために平和を求めるかを反省し、そこから出発しなくてはならないと考える。私たちはそれを忘れていたのではないか。私たちはあまりにも多い、あまりにも分化したいろいろな手段に幻惑されて本来の目的を忘れているのではないか。
 その所をはっきりとさせて、私達は何をなすべきかへの回答を求めたい。高遠な理想に於いてではなく、日常的な場の中で、誰にでも、何時でもできる生活の中で。住居を私はその中核と考える。しかし住居学をそこまで高めてしまうのは僭越かも知れないが。

住居学汎論 1950年

今時、建築家でこんなこと言っている人もあんまりいないんじゃないかって思う。僕は全然建築家を知らないが坂口恭平はその一人だろう。あとはみんなビジネス建築家だろ?いいか?それはな建築士って言うんだぜ?何なら建物デザイナーだ!分かるか?建築家とは程遠いんだ。

70年も前にそうした危機感を吉阪はすでに抱えていたと言う。そこからもちろん世界は良くなった部分もたくさんあるだろう。日本であれば別に飯に困ることもそれほどない。どれだけの食糧を毎日捨てていることか。今手に持っているスマホを当時に再現しようとしたらいくらかかるだろう?それを小、中学生だって持っていたりする。それで仕事だって出来る。体罰もめちゃくちゃ減った。殺人だって減っている。街もどんどん綺麗になっている。なのに、どうしてか僕の目には人が何かにビクビクと怯えているように見える。未来は明るいと心から信じている人がどれくらいいるんだろう。僕の経験からしたって鬱で実際にIAMASで動けていたのは半年ちょっとくらいなもんなんだけど、それでも今にものすごい影響がある。だけど生き生きとした大人と出会うのにどうして20年以上もかかるんだろう。小学生の頃にそうした大人と出会っていたらどうだったんだろうとかね。考えなくてもいいことばかり考えてしまうものだ。ごめん脱線したか。

何のための平和なのか?
少なくとも僕は僕自身、僕の家族、友人、友人の家族が笑顔で過ごせりゃいいなと思うわけで、じゃあそれがどうしてかと言われるとそうだと僕が嬉しいからくらいなもんで、こんなんだからきっと大学の先生にこてんぱんに怒られたんだろうけども、でもそれくらい身近な小さなスケールからでいいから、今ここに生きていると言う実感がある暮らしをしたい。美味いもん食って、うめぇえええ!!って叫びたい。そうか今時、家では叫ぶことも出来ないのか。踊れば下の階からうるせぇ!ってな。それは嫌だ。不格好でもいいから、関わった人がみんな生き生きとした表情、感情、愛情をどストレートに表現出来る世界がいい。今が輝く未来がいい。

なんか結局バカみたいなところに落ち着いたような。
でもそれくらいリラックスしてもいいよな。みんな、體ガッチガチやもんな。脱力出来んもんな。呼吸も浅いしな。そら疲れるって。バカやろうぜ。ガキみたいに。

さて、僕はこれから何をしようか。

とりあえず明日は朝起きたら水を飲み、散歩へ行って、途中のコンビニでうんこして、ジュースを買って、煙草を吸う。ここで吸い殻でも落ちていたら、拾って灰皿に突っ込んでおこう。お客様は神様だからな。神様としての振る舞いというものがある。それで帰ってきたら、ベランダにお茶湯(まぁ僕の場合は水だが、、)して、お祈り。それから立て腰体操をして、部屋の掃除。それからは本でも読みながら、直感を待つかな。パリオリンピックも始まるらしいから開会式でも見ようかな(調べてみたら日本時間は7/27 AM2:30〜やった、、)。なんか世界がひっくり返るいいニュースがあったらいいなぁ。お腹が空いたらラーメンでも食べよう。飯食ったらうんこ。もちろんクライアントから連絡があればサクッと元気に仕事をしよう。それから天気が良ければ銭湯に行こう。サウナは1セットでいいかな。2セットいく??今の時期の水風呂は気持ち良すぎる。帰って来たら洗濯物を取り込む。この時にセミとスズメバチが襲って来ませんように。あ、ご飯炊くの忘れてんな。銭湯に行く前に炊飯予約をしておこう。夕ご飯は何だろう。自分一人では作らんがお手伝いはする。飯食ったらうんこ。ベランダで煙草を吸ったら、朝だした水を片付ける。ゴロゴロしながらYouTubeでも見てたら、その内、寝てんだろ。
うん、悪くないな。


まとめ(まとめる必要もないが)

あぁでもない、こうでもないと色々好き勝手書いてみた。こうやって書いてみると、結局のところ過去の先輩たちの言葉には到底、及ばないというのか、言葉を借りてきて並べることくらいしか出来ないもんだなと凹む。オリジナルなんてないんだなと気付く。が、これはこれで面白い。何より書いてみることによって、また自分の中で気付きがあるわけで、決して無駄なことでもなさそうだぞと、そんなにおいがする。

身体というものを皮切りに今回は書いてみた。何故、身体なんていう3次元に縛られた、ある意味低次元なものを取り上げたかと言えば、理由は色々あるが、僕には霊性がないからだろう。とはいえ、その低次元な身体というものをちょちょいと数ヶ月の間、整え続けたことで、メンタルは安定し、薬をやめることが出来た。超ご機嫌だし、頭も以前より冴えている。もう少しこの辺りについて具体的に話しておこうか。先に呼吸の話をあげたから、それを例に考えてみる。呼吸に関係する臓器と言ったら肺になる。肺それ自体だけでは酸素を吸収することは出来ない。肋骨や横隔膜の運動と連動することで呼吸している。ということは肋骨それ自体を上手く使えていないのであれば、自然と呼吸は下手くそになる。それをちょちょいと、それこそ体内に刻まれた記憶を取り戻すだけだ。そして、しっかりと呼吸ができるということは体内にそれだけ多くの酸素を取り込むことが可能となる。(いろんなことを端折ってしまっているが)であれば当然脳にだって送られる酸素の量も自ずと増えているわけで、そりゃ頭も冴えてるわなって話なんだろう。
先にも言った通り、こんなこと頭では分かっているはずだ。が、身体ではそれを実行していない。しかも、そのための器官や構造を持っているのに。どうして?なんで?変じゃね??って僕も思うし、参考として挙げた先輩たちも広い意味ではそう言っているように僕には聞こえる。
あえてスピリチュアルな話もしてみるとしたら、例えば「グラウンディング」という言葉がある。要は地球と繋がりましょうという話だ。ここまで僕の話を聞いてくれた人には具体的にその言葉の意味が分かると思うが、かなり抽象的だ。僕のように霊性のない(または超低い)人から言わせれば、ただ単に抽象的に言い直しただけと捉えて貰えばいいのではないだろうか?仮に覚醒したならば、きっともっと理解できるはずで、それまではそういう認識でいいのではないかと僕は思う。

考えてみれば、赤ちゃんはかなり自然だ。そして僕らが死んだ時、その亡骸もまたかなり自然だ。この自然と自然との間、つまりは生まれてから死ぬまでの間のみ、やたらと不自然な営みをしてしまっているのはどういうことなんだろう?って考えてみたらいい。もっと掘り下げてみると、赤ちゃんはその生まれ持った身体に、吉阪の言葉を借りれば細胞に正直に立ち上がる。亡骸それ自体だって養老孟司の言葉を借りれば今日解剖したものは、明日になってもそのままの姿でそこにある。また、死んでしまえばその拘束する身体はないのだから、もっと高次元なものとの交わりに開かれ、より純粋な自由になれるのかもしれない。これは僕の妄想だが。
生まれてから死ぬまでの間、それが分かりにくいのであれば今この瞬間でもいい。僕たちはどうしてこうも不自然なのであろうか?こんな超シンプルな問いに、みんななりの答えを考えてみてほしい。それで暇なら僕に教えてほしい。
僕は一番身近な體から考えてみたけど、もっとスケールをあげて、家でもいいし、集落でもいい、都市、国、世界、地球……でもいいだろう。また違ったアプローチとしてはこの體というもの一つのことを考えてみた訳だが、人間が二人だったら?ちょっと抽象的すぎるか。結婚って?愛って?……とまた違ったスケールもあるだろう。身近で手触りのあるものから観察してみてはいかがだろうか。

五十川 十一

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