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第9回・塩味の強い国で、歳を重ねて、塊になる

歳を重ねる度に、段々と脂の強い物が食べれなくなってきている。
もっと若い頃は「そんなはずはない、肉は永遠に食べれる」などと思っていたが、実際に今の食卓には、野菜や魚などのあっさりとした物が並んでいる。

肉も食べないわけではないが、頻度は確実に減った。
よくタレントが、霜降り肉を目の前にして「見てください!この綺麗なサシ!わぁトロける〜」なんて言っているのを観ると、美味しそうなんて感情よりも真っ先に「ご苦労で大変なお仕事をされているなぁ」などと感じてしまう。

「この人はいつまでこんな辛い仕事を…」なんて余計な心配まで湧いてくるし、終いには「つくづくこの国は本当のことが言えない国だな」と、込み上げてくる感情だけで、胸焼けを起こしそうになる。

これは勝手な個人的な想像で、本当は嘘なんて言っていないのかもしれないし、実際は美味しいのかもしれないが、その美味しさというものは、全く伝わってこない。それは事実だ。

自分にとっての『歳を取る』とは、「なるほど、こういうことだったのか」と、色々な意味で、ひとり納得をしている。

以前は食べれなかった物や、食べれても苦手だった物が、自然と「美味しい」と感じるようになると、先に歳を食っていった諸先輩方から聞いてはいたが、それは本当だったので、「世の中は嘘だらけでもないのだな」とも感じている。

味付けも『あっさり』を選ぶことが多くなってきた。
あれもこれもと調味料を使うのではなく、結局はシンプルに『塩のみ』が一番良い気がする。

いや、それは現時点の感覚であって、もう少し歳がいってしまえば、もしかすると、もう塩もかけずに更にあっさりを求め、何にでもレモンをかけているかもしれない。

むしろ、何も味付けなんかしていないかもしれない。

歳を取るということは、そういうことだ。
つまりは、『知ってしまうこと』は『いずれ飽きること』で、『いずれ飽きること』は『見極められるようになる』ことなのだ。

各々、自分にとっての『良い』を見つけるために、『塩味』も『甘味』も『苦味』も『酸味』も『うま味』も経験する。

あれもこれもと混ぜて複雑にするのは、余計なモノの塊からあれやこれも削ぎ落とす勇気や覚悟の重要性と、比較することで得られる確実な感覚を知るためなのだろう。

この話。食や味覚についての話に思われるだろうが、そうではない。

これは例え話であって、実はただそれらしいことを書いて、複雑にしているだけだ。
全くあっさりとはしていない。

シンプルな『本当』を知るためには何が必要なのか?
そのために沢山の嘘はあるのかもしれない。

歳を取るということは、そういうことだ。
つまりは最終的に『ひねくれること』なのだ。

この国は素晴らしい。

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