第3回・ニセモノ?ホンモノ?ナニモノ?
インターネットの世界は、元々は想像の塊であり、当初そこに存在した先住民には、おそらく名前なんかも無かったはずだ。
匿名であることが許され、どんな区別もされていなかった。誰になることも出来たし、誰にもならないことも出来た。
差別も無ければ、格差も無かった。自由であることが象徴で、それがネット世界を構築していた。
ただ自由であることが、逆に人々を窮屈にさせた。
そこに地面が無ければ、足を着くことも出来ないように、少しずつ文化が形成され、決まりやパターンが生まれた。
横並びで全員が同じ顔だと、自分さえも確認出来なかったのか、次第にそれぞれが個性を持ち始めた。
その結果、他人との違いが生まれたため、それを個性とは呼ばなくなり始める。
認めて合うことで成り立っていた世界は、『あの人は違う』という特別視で溢れるようになった。
実に便利な言葉である。
同じ言葉でも持つ意味は様々で、時には尊敬や憧れ、ある時は危険視と言った意味にもなる。
槍玉に挙げられれば、徹底的に攻撃され、ついには抹消されることも。
次に、格差や優劣が当たり前になると、住人は認め合うことではなく、自分が認められることを求める。
そこまで来れば、かつての理想郷は、何ら現実と変わらない。
ある意味つまらない世界に退化してしまったとも言えるだろう。
いつの間にかリアルが求められるようになり、真実であることが正義であると叫ばれる。まるで、デモのような集団行為。
行進の尻尾の先端は瞬く間に見えなくなるほど遠くまで伸び、真っ暗な闇にまで消えていった。
ワクワクと可能性の詰まった想像の産物たちは、『ニセモノかホンモノか』『嘘か真実か』だけのフィルターにかけられ、正義の行進によって踏み潰されていった。
かつて足さえも着くことが出来なかった住人の行進によって。
自由を切り売りして得た地面にだ。
ただ現実と違うところは、住人は何度でも生まれ変わり、時代に見合ったように改めることも出来れば、そのままの形で復活し増殖することも可能なことだ。
その安易さが、他者との関わりを軽薄にし本当の意味での個性の発見と形成、更には文化の成り立ちまでも別物に変えてしまった。
誰でもないことが楽しかったはずの世界に、当たり前のように実名を名乗る侵略者が現れ、『新世界の発見だ』『開拓だ』と勝手に居座り占領した。
そんな悲劇はもう充分に現実世界でやってきたはずなのに。
『想像』は対象を認識し理解しようとするところから始まる。
他者を労わることも出来るが、悪と想定し不信や不安を煽る要素にもなる、とても優しくて危険な行為だ。
扱い方は簡単だが性質は繊細だ。
ニセモノかホンモノかなんて重要では無い。
あの人もあの人も違くなんて無い。
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