人の顔
中学で目を悪くして、学生の間は授業中など必要な時だけ眼鏡をかけた。特に大学時代は裸眼だとほとんど見えていなかったから、本当は四六時中必要なはずだったけれど、あんまり眼鏡を使った覚えがない。
ある時、行きつけの店のカウンター席で店員相手にクダを巻きながら飲んでいたら、後から隣に来た女子が随分じろじろ見てくる。変な人があるものだと思い、関わり合いにならぬよう気付かないふりをしていたら、とうとう「オレンジペコですか?」と声をかけてきた。それでよくよく見たら、昼間に行きつけている喫茶店ゲンズブールのスタッフなのである。オレンジペコはそこで自分がよくオーダーする紅茶だった。
「いつもありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
女子の反対隣には連れの男子がいた。
「こちら、百さん。ゲンズブールの常連さん」
どうして名前を知っているかと思ったけれど、どうせ入江さんが教えたものだろうと一人で得心した。
「お顔は知ってました。僕もゲンズブールよく行くんですよ」
彼は自分を見知っていると云うけれど、こちらは一向覚えがない。眼鏡をかけないから、見ていたって見えていないのである。
「百さん、お近づきのしるしに雑学を一つ」
「何です?」
「珈琲にミルクを入れた時、ミルクがすぐに浮いて来るのは淹れたて珈琲なんですよ。ゲンズブールの珈琲はいつもすぐに浮いて来るんです」
「……! まじですか」
「まじです」
この時自分は大変な情報を教えてもらったと思って大いに感激したが、それから今に至るまで、この知識が何かの役に立った験しはただの一度もない。
後日ゲンズブールで読書していたら、例の女子がこんにちはと云ってきた。そうして「彼もいますよ」と入口傍の席を指した。
果たして裸眼だったからそちらは顔が見えない。ただ、誰かが手を振っているのは見えた。よく見ようとして目を細めたけれど、やっぱり見えないから軽く会釈だけしておいた。
結果的に、手を振ってくれた相手にガンを飛ばしたような按配になったせいか、その後は二度と会うことがなかった。出くわしてはいたのかも知れないが、顔が見えないのと、そもそも最初の時にもあんまり見えておらず、覚えてなかったからわからない。
少し悪かったような気がする。
よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。