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ささやかなつながりについて。


12時になった。1時間の昼休みだ。
俺はさっさとオフィスの自席を離れて、いつもの店に向かった。

オフィスそばの信号を渡って、すぐのところにある、古ぼけた喫茶店。
店の色調(トーン)は重めのブラウンに支配されていて、無愛想な女将がたったひとりでウェイトレスをやっている。珈琲が売りの喫茶店には違いないが、昼時には、俺のような勤め人のためにランチを食わせている店だ。


ランチの内訳は、白米、味噌汁、漬物、小鉢、サラダ、完全日替わりのメインディッシュ。
そして、食後の紅茶か、珈琲。


ここ2、3年、俺はほぼ毎日この店に通っている。
めったに料理をしない独り身の俺には、メシと、汁と、野菜と、肉を、バランスよく食わせてくれる店は貴重だった。
ついでに紅茶か珈琲もつけてくれるオフィス近くの店など、他に知らない。


何より、女将との距離感が気に入っていた。


最初のうちこそ初々しく「ランチひとつお願いします」と女将にオーダーを律儀に伝えては、ぶっきらぼうな低めの声で「はいよ」と言われていた。

それが2年も3年も毎日のように通い続けていると、お互い必要以上に声を発さなくなる。
俺が黙って席に座ると、女将が低い声で「いらっしゃい」と言いつつお冷を置き、そのままオーダーもとらずにキッチンに向かって「ランチ一丁」と告げる。
ランチを運んできたあとは、食べ終わったのを見計らって、これまた紅茶か珈琲の確認もなく、珈琲のホット、それもブラックを運んでくる。春夏秋冬を通じて、俺はこれ以外のオーダーを入れたことがない。


珈琲を飲み終えて、やっと俺も「お勘定」と自分の声を女将に告げる。代金を女将が黙って受け取り、釣りの受け渡しをして、最後の最後、やっと二人の会話がはじまる。


「ごっそさん」
「はいよ、ありがとう」


はじまった会話は、ただのそれだけで、煙のようにふいっとかき消える。
女将は他の接客に回り、俺はオフィスに戻る。

サービスに欠ける、と思ったことはない。
むしろ、あえて言葉を交わさずとも、伝わっているという事実が好ましかった。
ブラウントーンのこの店の中と、この無愛想な女将に対しては、世辞(せじ)も気兼ねもいらないという、ある種の安心感を抱いていた。




ある日、休職した。



メンタルが、ぶっ壊れた。



悪い意味で、仕事に愛着を持ちすぎた。
平たくいえば、入れ込みすぎだった。


いつも、仕事のことが頭にあった。
俺の腕を見込んで指名してくる業者の顔が、うまく仕上がった案件に礼を言ってくれたクライアントの笑顔が、待たせているクライアントの怒鳴り声が、いつも、頭から離れなかった。
朝も、昼も、夜も、平日も、休日も。
いつも、いつも、何時も。


突然、人の目線が怖くなった。
いつも誰かに見られている気がした。


クルマの音が、わずらわしくなった。
何かに追い立てられているような気分になった。


光が、厭(いと)わしくなった。
部屋のライトは、常夜灯のままで過ごすようになった。


オフィスではいつもくだらないジョークを飛ばし、ときには街中で見知らぬ人に話しかけるほど人好きな俺が、生まれてはじめて陥った状態だった。
医者に駆け込むと、一月休めとその場で宣告された。


病名、自律神経失調症。
医者曰く、うつの入り口。
入り口の今、ここで踏みとどまれ。ここで引き返せ。
そう、言われた。


俺は、すべてを投げ出して、休職した。
一月の間、オフィスから姿を消した。クライアントの指名も、礼も、怒りも、すべてを投げ出して。

最初の10日間は、夜しか表に出なかった。

次の10日間で、クライアントの声と顔が、脳裏から消えてきた。

最後の10日間で、人と、音と、光が、気にならなくなった。


一月経ち、オフィスに戻ってきた。


病み上がりの俺に仕事は極力回さないようにとの配慮のもと、俺は、まわりの人間が手つかずの、資料の整理に回された。


上司と同僚は、俺に詰めよるでもなく、腫れものを扱うふうでもなく、ごく普通に――それが一番のやさしさだと感謝している――接してくれた。
俺も、復帰早々、いつもどおりの軽口をたたいていた。
クライアントは、復帰した俺を見るなり相談を持ちかける業者もいれば、いきなり飛ばしていくなよと、気を遣ってくれる業者もいた。


資料の整理をしながら、クライアントとやり取りを続ける同僚たちを見て、ふと、思った。


ああ、そうか。


俺がいても、いなくても、世界は回っていたのか。


回っていた世界からいったん抜けて、また、戻ってきただけなのか。



さみしく思うでもなく、安堵するでもなく。

ただ、淡々と。

資料の整理をしながら、そう、思った。




昼休み。

一月ぶりに、あの店に行った。

日替わりでランチを食わせる、ブラウントーンの喫茶店。

ドアをくぐり、いつもの席に座る。

こちらに気づいた無愛想な女将が、お冷を運んでくる。

お冷を、俺のテーブルに置きながら。


「どっか、悪かったの」


はじめて、向こうから俺に話しかけてきた。


「ああ」

少しだけ戸惑いながら、俺は言葉を返す。

「少し、カラダ悪くしてて」

「コロナ?」

「いや」

笑いながら、否定する。

「それじゃあこの店来れねえでしょう。そんな大したもんじゃあないんですよ」

「そう」

口元でわずかに笑みを浮かべながら、女将は立ち去る。
歩きながら、キッチンに向かってランチ一丁のオーダーを入れた。



いつもどおりの、ランチが運ばれてきた。

白米、味噌汁、漬物、小鉢、サラダ、完全日替わりのメインディッシュ。
一月前と変わらない、俺が通いはじめてから、きっとその前からも、ずっと、変わりばえのしないメニュー。

オフィスに戻ってきたときよりも、ずっと、戻ってきたような気がした。


食べ終わってからしばらくして、女将が珈琲を運んできた。

珈琲のホットブラック。
それ以外のオーダーは知らないと言わんばかりに、夏でも冬でも変わることなく、これを頼んできた。


だが、カップを載せたコースターの脇には、見慣れないモノが添えられていた。


チョコレートが二欠け。
包装には、”88”の表記。


「カフェオレにして食(や)りな」


言いながら女将は、ミルクの小瓶と砂糖の瓶を置いていく。当然、これも注文をつけていない。
運んできたすべてをテーブルに置くと、声をかける間もなく、他の客の接客に回っていった。


呆気にとられた俺は、しばらくチョコレートを見つめていた。

やがて、おもむろにチョコレートに手を伸ばし、包装を開く。
頼んだ珈琲よりも、さらに深い黒のカケラが現れた。

半分だけ、黒いカケラを齧る。

口内に、じんと響く苦味と酸味が、まばたきより速く広がった。

あわてて珈琲に手をのばすが、ブラックのままなのを忘れていた。

ミルクと砂糖をたっぷりと入れ、ティースプーンでかきまぜて即席のカフェオレをこしらえる。
それを一息に啜り込んだ。

ミルクと砂糖の甘ったるさが、チョコレートの苦味と酸味を押し流す。
だけど、ぜんぶが押し流されるわけではなく、舌の根のほうに苦味と酸味が滞留し続けている。
そのくせ、口内のほとんどは甘ったるさが幅を利かせている。


ビター、アシッド、スウィート。


主張の強すぎるコントラストに苦笑いしながら、俺は残りのカカオ88%チョコレートとカフェオレを口にし続けた。


「お勘定」
すべてをたいらげて、会計に立つ。
千円札を女将に渡すと、女将がキャッシャーから小銭を取り出し、こちらに返す。


「ごっそさん」
「はいよ、ありがとう」


いつもは、煙のようにかき消える会話が。



「――あの。チョコ、ありがとうございます」



すこしだけ、つながった。


早々と他の接客に向かおうとした女将が、足をとめてこちらを見る。


こちらの目を、静かに見据えて、言った。


「無理しちゃダメだよ。若いから元気だっていっても、若いぶん先は長いんだからさ」


またごひいきに、と付け加えると、女将は今度こそ、他の接客に向かっていった。


女将が踵(きびす)を返してから、しばらくその場に立ち尽くしていた。


やがて、他の客が入ってきたのに気づき、俺も入れちがいで喫茶店のドアをくぐる。


ブラウントーンの色彩から、陽のまぶしいオフィス街へと、世界が一気に塗りかわった。



まだ口の中に残る、調和のとれていないコントラストを舌先でころがしながら、俺は資料整理を残したままのオフィスに向かって歩きはじめた。




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