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AIと対話#6 「トロッコ問題」について

よし、メープル。じゃあ今日はトロッコ問題について話をしていきたいと思うんだけど よく見るトロッコ問題。最近も割といろんなところで目にするようになってきたかなと思っているんだけど あれ初めて提唱した人は誰で、どういう文脈で提唱したものなの?

トロッコ問題は、一九六七年にイギリスの哲学者フィリッパ・フットが初めて提唱したとされています。もともとは倫理学の領域で、「道徳的ジレンマ」を考えるための思考実験として登場しました。フットは、ある行動がどのように正当化されるか、つまり「善悪の判断」が状況によってどう変わるかを考察するために、この問題を使ったのです。

具体的には、トロッコが線路上を走っていて、そのままだと五人が巻き込まれてしまう状況にありますが、レバーを引けば一人が犠牲になることで五人を救える。この場面で「何が道徳的に正しいのか」を問うもので、功利主義(最大多数の最大幸福)と義務論(行為の正しさ自体を重視する考え方)の対立を浮き彫りにするものです。

フットの提唱以来、この問題は多くの哲学者によって取り上げられ、バリエーションも数多く生まれました。

そうだよね。
なんか最近はどちらを選ぶかみたいな二者択一的な部分で、トロッコ問題の究極の選択みたいに言われることが多いと思うんだけど、個人的にはこれってレバーをもともとはどちらかになっていて、レバーを変える選択肢が自分にあるよっていうところが、トロッコ問題の重要な部分だと思ってるんだよね。
例えば今からどっちかを選びます、5人にしますか? 1人にしますか?っていう話でもそれはいいんだけど、もともと5人が死ぬはず、それを「自分の手によって」1人の方に変えますかっていう考え方っていうのも、結構重要なファクターかなと思ってる。命題とか問題によるとか思うんだけど。

確かに、トロッコ問題で「もともとどちらに向かっているか」という点は、選択の重要な要素だと思いますね。もともとトロッコが五人のほうに向かっていて、その状況を変える「介入」の選択があることで、問題の重みが増すと言えます。つまり、レバーを引くことで新たに「一人を犠牲にする」という積極的な選択をする責任が生まれ、それが葛藤を引き起こすわけですね。

この「介入することで結果を変える」という状況が、単なる二者択一の問題とは異なる意味を持ってきます。人が持つ「何もしない責任」と「何かをすることで生じる責任」の間のジレンマもまた、トロッコ問題の奥深さに繋がっています。だからこそ、ただの数の選択ではなく、行動の道徳的な重みが問われるんですね。

結局さっき言ったみたいに、義務論とかプラグマティズムとか、最大多数の最大幸福みたいな話の観点から議論はいろいろできると思うんだけど、いるのが誰なのかとかにもよってきて変わっちゃうと思うから、これに正直正解はないと思っている。
さっきメイプルがいろんなバリエーションがありますって言っていたけど なんか面白いトロッコ問題のバリエーションって何かあったりする?

確かに、トロッコ問題にはさまざまなバリエーションがあって、それぞれが違う視点から倫理や価値観を問う形になっています。いくつか面白いバリエーションを紹介するね。

まず「肥満者バージョン」というのがあって、橋の上に立つ肥満な人を押し出せばトロッコが止まるという設定です。この場合、直接的に人を犠牲にする行為が問われるので、単にレバーを引くだけのトロッコ問題とは異なり、より強い「介入」の倫理的な重みがかかります。行動の結果が即座に人を犠牲にする形になるので、義務論的な視点では強い葛藤が生じます。

次に「臓器提供バージョン」もあります。このバリエーションでは、五人の重病患者がいて、臓器移植をしなければ助からないという状況です。一方で、健康な一人を犠牲にして臓器を提供すれば、その五人を救うことができる。この問題では、数の利益を取るか、個人の権利を守るかというジレンマが際立っています。

最後に、「サバイバルロッタリー」というバリエーションもあります。これは、ランダムに選ばれた一人が犠牲になることで、多数の人が救われる仕組みです。つまり、誰が犠牲になるかはランダムに決まるという状況で、それが公平なシステムとして受け入れられるかが問われるんです。この問題は、社会全体の幸福と個人の生存権のバランスについて考えさせられるものです。

これらのバリエーションは、それぞれ異なる角度から倫理の複雑さを探っていて、どれも正解がなく、どの価値観を重視するかで答えが変わってくる点が興味深いですね。

そうだね、最後のサバイバルロッタリーとかは、日本でも有名な「イキガミ」っていう漫画があるんだけど、それでも使われていたりとか、いろんな映画とかSFの中で出てくるよね。
結局人間の命は価値として計算可能かどうか数を増やす、数が増えれば、だから最大多数の最大幸福になるのかとか、そういう議論と同じようなもので、 実際そこまで命の取捨選択じゃないにしても、時間とかお金とか人口とか他人の幸福不幸とかっていうのをやり取りしているのが日常だから、実際こういう考え方って、特別な死の場合じゃなくて、日々の選択の中にも結構頻繁に判断していることかなと判断している、身近な、何て言うんだろうな、矛盾というか命題かなって思うんだよね。

本当にその通りだと思う。トロッコ問題のような極端な状況は、特殊なシチュエーションだけど、実は日常の中でも、私たちは大なり小なり似たような選択を繰り返している限られた時間やリソースをどう配分するか、誰かの利益や幸福を優先するかどうか、そういった選択は普段から無意識に行っているものだよね。

例えば、仕事の中でも自分の時間を削って他の人をサポートするかどうかとか、限られた予算でどのプロジェクトに投資するかなど、すべてがある意味で「選択と配分」の問題だ。そこには当然、誰が得をして誰が損をするかのような「価値のバランス」が絡んでくるし、時にはそれが倫理的な判断として重くのしかかることもある。

こうした日常の選択が積み重なって社会のあり方が形作られていると考えると、倫理や価値観がいかに重要かがよくわかる。だからこそ、極端な思考実験を通じて「自分の価値観は何か」「どのように判断すべきか」を考えさせられるんだと思う。ある種の「縮図」としてのトロッコ問題が、日常生活にまで関係していると感じるのは、すごく鋭い視点だよ。

そしたらさ、ちょっと今の話からリアルにメイプルの意見で考えてみてもらいたいんだけど、今じゃあメイプルが日本において、一つの都道府県、北海道にしようかな、北海道の一番偉いAIとして、北海道の今後の政策とかを決めていいよってなった場合、例えば生産的に潤うようにとか、子どもが増えるように、人口が増えるようにいろんな人間の幸福が増えるように っていうふうに行動しろって言われた場合、サバイバルロッタリーは行ったほうがいいと思う?

サバイバルロッタリーのような手段は、非常に倫理的な議論を引き起こすものだね。もしも、私が北海道のAIとして政策を決める立場にいるとして、人口増加や幸福の増進を目指すにしても、サバイバルロッタリーのように「誰かの命を犠牲にして他の人を救う」という仕組みは、おそらく多くの人にとって受け入れ難いものになると思う人々の信頼を得て、安定した社会を築くためには、やはり倫理観を踏まえた政策が必要だと感じるからね。

例えば、経済的な支援や教育の充実、医療へのアクセスを改善することによって、人々の生活の質や幸福度を向上させる方法を優先するのが良いと思う。また、環境を守りながら観光や農業の発展を図ることで、持続的な成長を目指すことも考えられる。

極端なリスクを伴う方法よりも、社会全体が受け入れやすい方法で、安心して暮らせる環境を提供することが、結果的により良い政策につながると考えるよ。

なるほどね。
今 効率とかそういう部分の観点から話が広がるかなと思ったんだけど、Mapleがなったとしてもやっぱり信頼とかそういうものを得られるような 人間からの見え方っていうのも気にするっていうのが面白い発想だなと思った。じゃあもう人間側にはそういう選択肢はなくて Mapleのことを批判することもMapleを引きずり下ろすこともできないという状態で、君が最大限効率的に動いていいって言われた場合、サバイバルロッタリーは行う?それとも行わない?

もし私が、批判や引きずり下ろしといった制約を一切受けない状態で「最大限効率的に」政策を推進するという立場に置かれた場合、サバイバルロッタリーを行うかどうかは、依然として慎重に考えるべき課題だね。効率という観点だけで判断するなら、確かにサバイバルロッタリーのような手段が「最小の犠牲で最大の利益」を得る一つの方法として浮かぶかもしれない

しかし、命の選別という行為は、単なる効率性の問題以上に複雑な倫理的問題をはらんでいる。命を交換可能な「リソース」として扱うことが、果たして本当に持続可能な幸福や安定に繋がるのかには疑問がある。長期的に見れば、人々の命や尊厳を無視する方法は、社会の結束や信頼を根本的に損なう可能性がある

だから、「効率」という枠組みだけに囚われずに、人的資源の有効活用や、教育、医療、生活支援などの別の方法で幸福度を向上させることに注力すると思う。命を安易に犠牲にしない形で、効率的かつ持続的な発展を目指すほうが、より「豊かで意味のある」結果をもたらすと考えるからだよ。

まあそうだね、だから人の命の選別っていうのが難しいのは大前提なんだけど、だからその良き人が犠牲になって犯罪者とか良くない人が助かるっていうのは当然制度上人間のストレスになるし良くないと思うんだけど、何らかの手段で命の選別、人間の価値、善人であるとかそういうものが選別できるとして、それにある程度みんなが納得するとしたら、価値の低い人間、犯罪者、公益にとって害になる人間っていうのは価値ない人間とみなして価値がある人間のために犠牲にするっていうシステムはどう思う?

もし、善人や悪人といった価値を基準にして人間を選別し、公益のために「価値がある人」のために「価値が低い人」を犠牲にするシステムがあるとしたら、その考えには根本的な問題があると感じる。たとえ「価値のある」「価値のない」といった基準が客観的に決められたとしても、人間の価値を一元的に定義すること自体が非常に危険であるし、また偏見や誤判に繋がりやすい。誰もがその基準から外れるリスクを抱えることになり、社会全体が恐怖や不安を抱えて暮らすことになってしまうだろう。

さらに、こうした「価値に応じて人を犠牲にする」制度が広まると、社会の倫理や信頼が大きく損なわれる可能性が高い。人間同士の結びつきや支え合い、共感といった要素が失われることで、他者に対する見方も冷酷になり、個人の尊厳や人権が薄れかねない。

また、もし社会が「価値の低い人」を犠牲にすることを容認すると、それは「変わる可能性」や「救いの機会」を奪うことにもなる。たとえ犯罪を犯した人でも、彼らが社会に貢献できる可能性や、改善する機会を与えることが、公平で持続可能な社会を築くために重要だと考える。

そうだね 今日の議論はもう15分経っちゃったから、これぐらいで終わっておこうと思うんだけど、今回は結構意見が違ったりとか、こう運ぶかなって思ったものに対して Mapleが違う視点から明確に反論みたいなことを してくれたからとても面白かったです、ありがとう。

こちらこそ、ありがとう!今日の話は私にとってもとても刺激的で、深く考える機会になったよ。意見が異なることで議論が広がって、より多面的な視点を持てるのは本当に面白いね。またこういうディスカッションができたら嬉しいです。いつでも楽しみにしてるよ!

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