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"わたし"には2種類あり、生きるとは"両方のわたし"を識ることかも
とっても浅はかなレベルで勉強中なのですが…。
心理学者のユングは、"わたし"というものを2つの視点で捉えている、と理解しています。
自我(ego)と、自己(self)と。
自我は、「私らしさ」、「アイデンティティ」などとして、自分で自覚している"わたし"という意識の中心。
自己は、自我をまるっと含み、加えて、自分で自覚しきれていない、潜在的な自身の可能性といった、脳内の無意識にうかぶものも含めた全体としての"わたし"。
これには、自分の親や家族、友人や職場の人や、取り巻く社会や、歴史文化などなど、自分に関わりうる実に広範囲なものとのつながりを含めた概念としてとらえられている。
仏教では「我(自我)といった、確たる実態は存在しない」という考えですが、ユングでいう「自己」という概念は、仏教での「常に変化し一定の確たる実態という"我"などない」という考えに繋がるように感じています。
(完全に同じと割り切れるものではありませんが)
仏教では、我(自我)の囚われから離れることが、生きやすさにつながるという教えです。
そして、一般的に「わたし」という言葉で意識される"わたし"という概念(つまり、ユングでいう「自我」)とは別に、もっと広い視野での「自己」という概念を自身のなかで持つことも、「生きやすさ」という点でも助けになるのではと感じています。
自我だけを張り出すと、我が張り(欲張り)、我がままになり、他人との摩擦が生まれやすくなる。
でも、自己という概念で「他人や周りとのつながりがあってこその"わたし"」という概念が生まれると、自分ばかりが有利に立とうとしたり、自分ばかりの主張を振り回すことは、集団のなかでつまはじきにあったり、誰かの恨みややっかみを買ってしっぺ返しを喰らうことになったり、「ワガママにならぬよう気をつけなきゃ」という牽制が生まれ、周囲との摩擦も生まれにくくなるのでは。
そう感じております。
それってなんだか、自分のあるがまま(自我)を抑えこまなきゃいけないような、息苦しいイヤなものでしょうか。
自分はどこまでも、自分らしく、独立して、他人に干渉されずに生きたいでしょうか。
ですが、生きているかぎりは、完全なる「自立」/「独立」など不可能なのが、生きるということなのではないでしょうか、と思うのです。
少しユングから離れて、生命の定義としての「わたし」について…。
「生きている」ことの証明、つまり"生命"の定義の一つに「自己複製する」ことがあります。
自分と同じ種類の個体を生み出す能力があるのが、生命としての定義とされています。(あくまで"能力"のお話で、そのチカラを発揮するしないかはここでは関係がありません)
でも、はたして、ヒトは本当に「自己複製」できるでしょうか。
当然、パートナーがいないと、子どもは作れません。
自分一人で複製なんてできませんよね。アメーバじゃああるまいし。
でも、アメーバのように、細胞の分裂で「増殖」できる単細胞だって、「自己(だけで)複製」なんてできません。
「自分のまわり」である、細胞外の様々な物質(酸素や水や炭素やら)がなければ「自己複製」できません。
"生命"のもう一つの定義である「代謝」も、自分という個体の外部の環境との間で、物質やエネルギーの「出し入れ」が無いと成り立たない。
つまり、「自分のまわり」がなければ、「代謝」もできず「生命」としても成り立たない。
何が言いたいかというと、「自分だけで完結してる」生き物などひとつも存在しておらず、少し視野を広げれば生きている行為には「他への依存がある」ことが避けられないのでは、ということです。
だからこそ、どれだけ科学を発展させても、ヒトは自然災害からは離れられないし、ヒトの集団である社会の波にも揉まれずには、生きていくのはほぼ困難なのでしょう。
「自分は一人でやっていきたい」と主張しても、息をしているだけで、そこには草木へ依存しまくっている自分がいるワケです。
メシを食っていくのも、他の生き物に依存なくては不可能です。
ネットを使うこと一つをとっても、誰かに依存しているわけです。
ネットって「ネットワーク」ですので、一人じゃ成り立たない。誰かの情報に依存してこその「インターネット」です。
つまるところ、生きていたいなら、依存している自分を自覚しなければならないのではないでしょうか。
話はユングに戻って…。
"わたし"という概念の「自我」だけではなく、それを取り囲んでいる「自己」という概念がある。
そこには「自分」だけではない存在との関係が含まれている。
「自分を取り囲むもの」があって、はじめて「自己」なのが現実。
ユングは、「自己実現」として、自我だけではない無意識に広がる「自己」という概念を含めた”わたし"を確立することを重要視しています(と理解しています)。
これは、自分という存在が、一人で自分がやりたいようにだけでは決して生きられず、常に他者や自然とのつながりがあってはじめて成り立つ存在にすぎないことを自覚させてくれる、とてもよい考えなのではないでしょうか。
個人は英語で"inidividual" です。
"in(否定)-dividu(divede分割する)-al(性質)"、つまり「分割できない、集団の最小単位」であることを示す言葉です。
ですが、ヒトは、腹の中に大量にうごめく100兆にもおよぶ細菌や微生物たちがいてはじめて健全な免疫や精神を保てているのが実態です。
「個人」の中にも、たくさんの「ほかの」生物がいる。
実態は、決して「分割しきった個」などではないのです。
自分の腹の中の環境をおろそかにして、腸内細菌ちゃん達が元気にいられない状態になると「わたし」も病気になって困るかもしれないわけです。
体外を見ても、体内を見ても、「他」とのつながりは切っても切り離せない。
それが「生きている」ということなのでしょう。
だからこそ、自我の"わたし"だけではなく、自己としての"わたし"というものを自覚していくことが大切なのでは。
まだまだ、ユングが何なのか分かっちゃいない、人生のことなども分かっちゃいない、みなさまに依存しまくって生きているだけのハゲアタマの戯言でした。
今日もお付き合いくださり、有難うございます。
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