短冊に願いを込めて~七夕の都知事選~
都知事選が終わった。以前もあれこれ書いたが、7月7日の七夕に投開票日を迎え、投票締め切りとともに小池百合子都知事の三選が決まったとの報道が流れた。いわゆる「ゼロ打ち」である。
結果をめぐっては様々な意見があろうかと思う。SNSが発達した現在、多くの人が政治や今回の選挙結果について論評をしている。私もまたその一人である。
そのなかでも時折「今回の結果を受け入れがたい」などといった投稿を見かけることがある。確かに自分が「この人だ」と思っていた候補に票を投じて、結果的に当選せず思い通りにならなければ、だれしも選挙結果を受け入れがたくなる。実に自然なこころのありようであろう。
ただ、これが多数決によって決める民主主義の限界でもある。
多数決は残酷で、最も多くの人が賛同した意見以外のものはすべて無視されてしまう仕組みになっている。つまり、一人一人の思い通りになることが多数決ではないし、そして民主主義ではない。「思い通り」になるように生きたいのであれば、常に大衆迎合をし続けることが求められるのである。
これが不思議なところで、民主主義とは人々が決定権を持つ政治体系であるのに、一部に必ず思い通りにならず鬱屈とした気持ちを抱える人が出るということでもある。
決定権を持つ「人々」とは、あくまでそのとき多数派になった人間のことを指している。いつまでも決定権を持つ「人々」だと思っていたら、思想や生き方の変化の中でいつの間にか「人々」から疎外されてしまっていた、なんてことは珍しくない。
このところ、選挙で暴力や妨害によって選挙活動を邪魔するケースがある。これ自体は断じて許容してはならない。だがその遠因を考えるに、決定権を持つ「人々」から疎外されるなかで一人鬱屈とした怒りを抱えて暴力に至るのかもしれない。その精神性は実に幼いという批判もあろうが、人間はそれほどよくできたものでもないので致し方あるまい。
選択肢のない政治の中で鬱屈とした人々の怒りは民主主義において構造的に存在している。
それだけに、多数決の原理を採用する選挙の中で勝利を収めた政治家とは、自らを支えてくれた有権者はもちろん、選挙用紙という「短冊」に願いを綴りながらも思い通りにならず鬱屈としているどこかの有権者もまた目を向けなくてはならないのであろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?