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北海道の奥地で自分の可能性を疑う

ここは北海道の奥地。
ついこの前まで辺り一面は白いキャンバスに覆われていたが、そこに鮮やかな緑が丁寧に足され、深みが増していった。雪解け水が川に心地よい勢いを与え、鳥のさえづりが四方八方に飛び交った。しかし、ここは恐ろしいほど存在感のある静寂に一貫して満たされていた。

私はとあるリゾートホテルの正面玄関に立つことを強制。スーツ姿で手に誘導棒を持っていた。
連休明けの平日にこのリゾート施設にやって来る車はなかった。車が到着すれば自分の感情と反した表情で出迎え、他のスタッフに周知する。それが私に課せられた仕事だった。私は愚直に待った。車ではない何かを。

色んなことが思い浮かんだ。学生時代に好きだったあの子のことやさっき話した老夫婦はとてもステキだったことなどぼんやりとイメージを膨らませていった。
しかし、最終的には「自分は今ここで何をしているのか?どうありたいのか?」と切迫した問いが私のイメージを遠慮なく侵入してくる。日本で最も壮大で美しい大地も私の精神の奥底を満たしてはくれないようだ。
「私はここにいるべきではない。もっと特別な存在なのだ。」と思い込んで尊厳を保とうとするが、これまでの連続した決断の延長である現状を認めなければならない。

多くの人は自分のことを特別であると思っている。自分は他者は明確に異なると理解しているのだが、他者も自分と明確に異なることへの理解とその想像を怠っている。

私はこの場から救ってくれる人を待っていた。「お前はこんな所でいるべきではない。他とは異なるもっと特別な存在だ。」と言ってくれる人を待っていたのだ。
それは私の「甘え」が創り出した架空の人物である。自分で自分の道を拓いていく切実な覚悟が当時の私には決定的に不足していた。

自分を徹底して疑い、そして自分を信じる。「自己否定」と「自己肯定」の対極のモーメントの打つかり合いが新たな自己を創造する。徹底して自分を突き放し、そして信じ抜くこと。それが私たちの精神を充足させる唯一の方法だろう。
私を最後まで信じれるのは私だし、あなたを最後まで信じれるのはやはりあなたなのだから。


私は変態です。変態であるがゆえ偏っています。偏っているため、あなたに不快な思いをさせるかもしれません。しかし、人は誰しも偏りを持っています。すると、あなたも変態と言えます。みんなが変態であると変態ではない人のみが変態となります。そう変態など存在しないのです。