【お立ち寄り時間4分】ヨーグルトの賞味期限が切れる前に
「朝まで一緒に居て欲しいです」
断れなかった飲み会の帰り道、突然に、君が腕を掴んだ。酔いが回っており、一刻も早く、家に帰って寝たかった。いかんせん、電気ブランをたんまり引っかけ(られ)てきたからだ。
ただ、あんまりにも君が、世界中の悲しみを集めたみたいに、わんわん泣くものだから、つい、首を縦にふってしまった。涙の中で溺れるんじゃないか、と心配するほどだった。
ラブストーリーは、突然に、とは言い難い状況だった。どちらかと言えば、トラブルは、必然に、と言う感じだった。
「えーと…ファミレス行く?」
背中をさすってあげたかったが、5秒ほど考え、やっぱりやめた。名前も互いに知らないのだ。
うつむいたまま、君が小さな声で、こくん、と返事をしたので、君の歩幅に合わせて、ゆっくり、ゆっくり歩いた。
誰もいない歩道に、街灯が等間隔に並んでいたが、まばらに点いたり、消えたりしていた。そういえば、こんな風に、ゆっくり、ゆっくり歩いたことがあったな、と想いを巡らせていた。
今でも、本当に、ずっと、好きだ。
誰もいない学校の廊下のような、伽藍堂な深夜。あの子の飲み会が終わった後、コンビニでお気に入りのアイスを半分に割って、食べながら帰った。
いつも、手をしっかり繋いだ。
あの子の気持ちが、小さな手のひらから、じんわりと伝わってきた。繋ぎながら、あの子の小指にあるホクロをよく撫でた。
今日は、楽しかったんだな。
おや、ご機嫌斜めだな、といった具合に。
遅い、って、よくむくれられたなあ。
あの子は、飲み会の後、1人で家に帰るのを極端に嫌がった。あの子は、回り道が好きだった。ファミレスで、ドリンクバーの全種類制覇もよくした。
あの子は、さよならを言った後の、耳の奥がキーンとなる静けさが、怖いとよく泣いていた。
暗くて、重い、湖の真ん中に、取り残されたみたいだと。ベットの中で、朝まで絶対に一緒に居てね、と何度も、何度も繰り返した。
同じシャンプーの香りがくすぐったかった。
そして、翌朝、味のしないプレーンのヨーグルトを、必ず、一緒に食べた。カーテンが、気持ちよさそうに、光の中を泳いでいた。
赤と黄色の半額のシールが貼られた、賞味期限ぎりぎりのヨーグルト。あの子は、気だるげに、左肩に頭をのせていたっけ。
人生で、とびきりに、美味しかった。
長く、長く、丁寧に、向き合っていた。
なのに、別れは唐突だった。
「好きだったピアスをなくしちゃったの」
それが、最後の会話だった。
以降、あの子との連絡が途絶えた。
あまりにも綺麗に穴があいて、最初から出会っていなかったのではないかと疑った。
本を読むたびに、映画を観るたびに、いつも同じところで止まった。あの子のお気に入りのところだった。
どこを探しても、どこに行っても、あの子の、体温が、匂いが、色が、音が、どうしようもなく転がっていて、長いけんかだといいのに、と強く願った。
時間が戻ればいいと、めくらなかったカレンダー。心配した友人が、訪ねてきた頃には、いつの間にか新しい年になっていた。
泥に釘を打つような日々だった。
あの賞味期限ギリギリのヨーグルト、食べたい。
ほんのり、レモンみたいな酸っぱいヨーグルト。
「手、繋いでくれませんか?」
「え?」
君の、宙に投げ出された声に、思わずたじろぐ。
君は、迷いなく、手を差し出してきた。
また、5秒ほど考え、そっと小指だけ握った。
壊れるんじゃないかと思うくらい、小さくて、細くて、ひどく冷たかった。君は、悲しみと辛さの間で、凍えているようだった。
「長い、けんかだといいのに」
「え?」
あまりの偶然に、声がうわずった。
もしかして、独白みたいに心の声が漏れてるんじゃないかと焦った。夏目漱石の「こころ」みたいになってたんじゃないか、と狼狽した。
「好きだったピアス、なくしちゃったの」
「え?」
咄嗟に、握っていた君の小指を確認しようと試みた。ま、さか、と、思ったが、暗すぎて、何にも見えなかった。
そう、人生は、ま、さか~、とあの子が好きだったドラマの鼻歌が、耳元からゆっくりと再生されていく。
「ファミレスに着いたら、ドリンクバー、全部飲もうね」
「え?」
「明日の朝、ヨーグルト一緒に食べようね」
「え?」
「もう、半額シールじゃない、のだから」
「え…?」
「賞味期限は、まだ、ギリギリだけど」
あの子の、君の、横顔は、夜に溶けてよく見えない。覗き込んだら、綺麗じゃないから、見ないで、と、不貞腐れるだろう。
また、あの時のように、無様に気持ちを伝えたら、君はなんて答えてくれるだろうか。
「…月が綺麗ですね」
「…遅い」
見事な、新月、だった。