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エッセイ【お立ち寄り時間3分】雨の日には、冷えたスプーンを―コルクが小町紅で溶けた日―
「ワインオープナー、持ってる?」
彼女の陽気な声が、部屋に響き渡る。
その日は、久しぶりの仲良し組でのパーティーだった。
先に呑み始めていた彼女は、私が部屋に戻った頃には、既に出来上がっていた。
「持ってなーい」
見事な、満場一致の回答。
もう夜の11時過ぎで、トラムもなかった。
私たちの寮は、市街から離れていたし、季節は真冬の2月。その日は、絶好調かな、吹雪だった。
酔っぱらっていても、絶対に「出たくない」が、おそらく満場一致の回答だ。
「じゃあ、ルージュは?」
「あるある、折れてもいいやつ!」
あるんかーい、と心のなかでツッコミをいれる。この国は、なかなかパンクでファンキーだ。
その日初めて、ルージュで、コルクがワインの中に落とされる光景を目の当たりにした。ポンっと、小粋な返事をして、琥珀色の海へ溶けてゆく。
そんな『太陽みたいな』彼女と過ごした2か月は、生涯忘れないだろう。
初めて暮らす寮の部屋で、一番最初に見えたのは、机の上に理路整然と並んだ大量の『空いた』ボトルワインだった。
荷物を運んでくれた友人は、部屋に入るなり、苦虫を嚙み潰したような、何とも言えない神妙な面持ちをしていた。
「どんまい」
と、肩に優しく手を置かれて、最悪、シェアハウスとかもあるからさ…と言葉少なく去っていった。
ああ、もう日本に帰りたい…。
そう強く、心の底から思った瞬間だった。
その日の夜は、同室の子がどんな子なのか(酒豪は承知)、仲良くなれるのか、そもそも、英語は通じるのか(公用語が英語ではなかったため)、不安と期待とエトセトラと、ないまぜの感情が押し寄せて、上手く寝付けなかった。
ちなみに、彼女(二日酔い)に会ったのは、3日後の早朝であった。
そんな強烈なインパクトを、不在の状況下でも、私に刻印した彼女は、控えめに言っても最高だった。
まず、英語が完璧だった。
2ヶ月で私の出川イングリッシュは、『出川』がとれた。それは、もう、あっという間に。
そして、薬学部に主席入学の主席卒業(この時点では、予定)の超優等生で、飲みに出かけたのは、大学に、6年間在学して『初めて』だった。
そりゃあ、三日三晩飲み歩きたくもなるよ。
エースで居続けた理由も、片親で、生活に余裕がないため、負担をかけたくないからだった。主席でいれば、授業料免除、奨学金も返済なしで、成績に応じてもらえる額も上がるのだった。
さらに、彼女は、成績が思うようにいかず、奨学金が貰えない友人がいれば、夕食をご馳走したり、洋服を譲ったりしていた。
旧共産主義だったため、その名残りもあるのかもしれないが、『困ったときのお互い様』が『当たり前』だった。
だから、右も左も、何なら上も下も分からない私に、身の回りのこと、大学のこと、寮のことなど多岐に渡り教えてくれた。
「We are disaster!」(なんてこった!)が私たちの合言葉だった。と、いうのも年頃のくせに、彼氏もおらず、デートにも行かず、2人で遊びまくっていたからである。どちらが先に彼氏ができるか勝負しようぜ、なんて冗談も懐かしい。
あっという間に2ヶ月が過ぎて、彼女が寮を出る最終日の夜、こっそり夢を打ち明けてくれた。
「大きなベッドに寝ること!」
私が留学した国は、決して裕福ではなかった。
就職するのも、親戚や親のコネ、もしくは優秀な実力が絶対要件で、貧困から抜け出すには『努力』が必要不可欠だった。ハングリー精神、なんて簡単な言葉で片付けられないほどに、貧困ががんじがらめに、国に巻きついていた。
それでも彼女は、諦めずに走り続けていた。貧乏だって、コネがなくたって、選ばれないなら、自分で選べばいい、と。
留学初日、大量に並んでいた空のボトルワインは、ワイン農家を営んでいるお母さんからのお祝いだったそうだ。そりゃあ、嬉しくて開けちゃうよね。
お母さんだって、感極まって、沢山送っちゃうよね。
そして、さようならの代わりに、彼女は屈託なく笑ってこう言った。
「栞帆は、神様からの、とびきりの卒業祝いよ」
彼女と別れて、もうすぐ10年になる。
きっと、もう大きなベッドで、毎日ぐっすり眠っていることだろう。世界の均衡が元通りになって、また逢うことができたら、彼女に渡したいものがある。とびきり素敵なオープナー、そう小町紅を、琥珀色のワインと共に。
親愛なるユディへ