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夏の居残り

※お立ち寄り時間…5分

いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
柔らかな陽射しのなか、窓の隙間から覗いた、甘ったるい香りで目が覚めた。

「そろそろ、授業始まるよ!」

耳の奥がキーンと鳴る。
うっすら目を開けると、褐色の瞳が笑っている。嘘、を見透かす、清澄な瞳。
花びらがひらひらと舞うような声。

「おはよう、藤崎さん」
「はい、プリント」

僕の単位が些か足りなくなり、卒業が危うくなってきたため、ゼミの先生から送り込まれた刺客、藤崎さん。

所謂、お世話係だ。
真面目で、声が大きくて、いつも背筋が伸びている。ふわふわな栗色の髪が、いつも太陽みたいに素敵だ。

藤崎さんに、僕は甘えている。
だんだんと、滲み出る鮮やかな茜色に、応えられないのに。

この性格は、亡き父譲りなんだから、仕方がないと言い聞かせる。
だから、苗字のままの関係で、精一杯の誠意を。

でも、

僕は、きっと、なんか、ずるい。

「藤崎さん、次は何の授業だっけ?」
「木原先生の授業だよ」

木原先生。
誰も、笑った顔を見たことがないらしい。
真っ白な肌に、肩まで丁寧に切りそろえた黒髪が、俯くたびに、色香を放つ。

この間、遠くで見かけてから、ずっと気になっていた。色香が鼻先をずっとくすぐって、離れない。軽率な秘め事だ。

木原先生。
一体、どんな声で笑うんだろう。

既に、新しい季節が始まっていた。
木原先生の授業は、もう折り返しとのことだが、僕は、今日が初めての出席だった。

ただ、声が聴いてみたい。
それだけだった。

「授業、始めます」
ざわついた教室が、一瞬で真っ青になる。
深呼吸の音さえ許されない緊張感が走る。

まるで、真夜中の湖の真ん中に、取り残されたみたいな、そんな声がポツリと降ってきた。

木原先生は、笑わないことに加えて、非常に厳しいらしい。この間、携帯を切り忘れた生徒が、そのまま落第になった。木原先生の授業は、必須科目だから、辛いだろうな、と藤崎さんがため息をついていた。

「それでは、前回の続きを…」

木原先生が、急に止まった。
生徒たちの透明な動揺が、逃げ水のように広がっていく。

もしかして、また、生贄?

木原先生の声、漆黒みたいだなあ、と頬杖をついていると、水縹のハイヒールが、目の前で止まった。

おや?

「反魂香、ご存知ですか?」

真夜中の月を見上げるかのように、声の名残りをたどると、何故か、彼女は、泣いていた。

まるで、人生で初めて泣いたような、澄んだ涙だった。彼女の、今にも透けてしまいそうな肌の上を、そっと撫でるかのように。

「えっと…、白居易の李夫人ですか?」

突然の出来事に、呆気に取られた僕は、亡き父の書斎で盗み読みしていた、漢詩の名前を咄嗟に手渡した。

「……やっと逢えましたね、葉月さん」

数秒の沈黙の後、そう言って、木原先生は、細く微笑んだ。まるで三日月が笑っているみたいだった。どうしようもなく、優しい笑顔だった。

ひどく、綺麗、だった。

何故、僕の名前を知っているのか、皆目見当がつかなかった。だけど、何処か懐かしい心地がした。幼い頃、彼女の笑顔に、そっと抱きしめられたような、そんな気持ちに包まれていた。

反魂香。
香を炊くと、煙の中に亡くなった人の魂を呼び戻すことができる、伝説上の香。

彼女は、どうしても、亡き想い人を呼び戻したかったのだろう。

彼女は、どんな想いで、どんな表情で、反魂香を焚いたのだろう。

そして、どんな薄様を贈ったのだろう。

彼女の笑い声は、亡き想い人しか知らないのだろう。

それでも

やっぱり聴いてみたい、なんて
僕は、なんか、そう、ずるい。

来世に、また逢えたら
きっと、彼女を想うことだろう。

反魂香を焚くぐらいに。

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