負けるな、ゴボウ君!
コボウという奴……キンビラなども含め、単独ではあまり好きとはいえない野菜ではあるが……実は、かなりの敬意をもっていることは確かである。
例えば、これは大好物である「けんちん汁」や「豚汁」の類いに、もしゴボウが入っていなかったとすれば……たぶん炭酸の抜けたコーラみたいに味気ないはずだ。
あの、全体を引き締めるゴボウの風味の正体とは何か?
確かに、甘くも酸っぱくもなく、いわく言い難い……ひたすら「渋味」に近いのだろう。
やはり、一般に言われているとおり「土臭い」というのが一番正確かも知れない。
よく、この「土臭さ」を敬遠して、タワシ等でゴシゴシ擦る向きもあるが……ゴボウの風味という奴は薄い皮のあたりに含まれているのだから……擦りすぎは禁物らしい。
そう。やはり「土臭さ」を多少なりとも残しておかなくては、ゴボウに失礼というものである。やはりゴボウとの付きあいには「土を喰らう」という覚悟が必要に違いない。
思えばこの「土を喰らう」……最近映画でも公開されているようだが、元ネタは水上勉のエッセイだろう。お袋の蔵書にあったのを、昔々読んだ記憶がある。個々の記憶は薄れているのだが「土を喰らう」という文言だけは、ずっと頭にこびりついていたらしい。
はて……「土」は食い物なのだろうか?
確かにに「土」の組成はと言えば、無機物と有機質の混合物であり……すなわち、岩石を基本とした泥と砂、そして生物由来の命の残骸から出来ているはずである。
当然、有機質は細菌等の食い物になるわけで、無数の微生物が生息しているのだろう。言うなれば、一つかみの「土」とは、まさにこの地球の縮図なのだ。
なるほど、そう考えてみると「土臭さ」とは「地球臭さ」であり、「土を喰らう」とは「地球を喰らう」とも言えそうである。
根っことして「土」に埋っているのがゴボウなのだから……まさに「地球の風味」をたっぷりと身に纏っている野菜に違いない。
そう。かの古代ギリシャのエンペドクレスが万物の根元として「火」「空気」「水」と同時に「土」をあげているのも頷ける話である。
「火」というと僕はどうしても「戦」を、「空気」と「水」は「汚染」を連想させるが……だからといって、目隠しすることは不可能だろう。
残る一つ「土」にしても「土壌汚染」こそ時に話題になるが……こっそりと目隠しされているのにはあまり人は気付かないらしい。
昔は「土煙をあげる」とか「泥んこまみれ」等、日常に散乱していた表現も死語になりつつある。
実際、僕が朝家を出、駅から電車に乗り……職場に辿り着くまで……一度も「土」を踏んでいないことに愕然としてしまう。
都会にあっては、「土」はアスファルトやコンクリートに押しつぶされて……あんがい、死に瀕しているの知れないのだ。
当然、農家にあっては「土」は都会の比ではなく重要視されているとは思うが……一方では「水耕栽培」の技術が進み、「土」知らずの野菜も商品として君臨を始めている。「土臭さ」を捨てた、オシャレで都会的な葉物達として……
とはいえ、ゴボウを始めいわゆる「根菜類」は……「水耕栽培」には不向きとも聞いている。トレンディーなレタスやミニトマトやバジルとは違って、もしかしたら「鈍くさい」野菜達なのかも知れない。
しかし、「土」に……すなわち「地球」そのものに抱きしめられて育つゴボウ……都会のオャレな青瓢箪どもとは気合いの違う、堂々たる「鈍くささ」、そして食材の命を纏め上げる「土臭さ」……そんな体臭を放つ豪傑を僕は愛してやまない。
たぶん、人間が「土を喰らう」ことを忘れた瞬間……「ヒト」という生き物は、宇宙のデラシネ(根無し草)に落ちぶれてしまうように思えるのだが……