まずは、私の親愛なる「直感」に従って
私が私として生きていくには嘘をつかないといけない場面がいくつかある。私が嘘をついている事柄で、嘘をつかずに堂々としている人を見たこともある。それでも私が嘘を選択するのは目の前のこの人に新たな、、、というか、要らぬ勉強をさせる必要がないなってことが多いから。その場面で実際に受け取り手の方はあきらかに困惑し、新たな謎を生んでしまうのをお見かけしたことがある。それで第三者である私が勝手に、いたたまれない気持ちになったこともある。
私は学ぶことが大好きだけど、私が私を受け入れられていないときのような苦しみをこの人に「本心を言う」ことでわざわざ伝えてしまう必要はないと思う。そして、きっと理解してくれないんだろうな、とも思ってしまっている。いつからかってことはなくて、昔からずっとはっきりと自分の意思で、嘘をついている。その方が楽だからってことはない、嘘は苦しくないけど「この人は理解してくれない人というレッテルを勝手に貼ってしまう自分の選択」に、その選択をされているとも知らずに笑顔でお話しし続けるこの人の横顔を見ると、苦しくなる。愛してはいるんだけどね。
こういう時にやっぱり、私は人間に憧れているんだなあって思う。小さな頃からずっとずっと人間を憧れてきたんだなあと思う。そりゃそうだ、人間でないと思うことで20数年分の自分をまるっと救ってきたから。小さな頃のあの決心の瞬間を忘れたことはない。実際に声に出して「このきもちは大人になっても忘れないよ」って何度もこれまでの自分を励ましてきたから。だからこそ本当は誰よりもずっと人間というものに、人間のあり方に、こだわりと理想があるんだと思う。そんな小さな自分を救うためのお話を、今作ろうと思う。
それをいちばんさいしょにしたい。
それから私がどんなふうに
変われるのか、見てみたい。
少し前に、人間として生きる決心をしてから私の人生は大きく前進している。だから苦しくても全部受け止めたい。忘れないように。
この人は突拍子もないことをしているなあって笑って過ごしているうちにその人は先に進んじゃって、あとから「どうしてこんな活動してたんだろう」って疑問を持っていることに気づいた頃にはもう、前みたいにおともだちの会話をするのもむつかしくなっている。今の当たり前が当たり前ではないと何度も何度も実感しているのに、どこかで怠惰があると、そういう自己嫌悪につながってしまうんだよ。私は自分を嫌いになる瞬間を先には作りたくない(後を防ぐのはほとんど不可能)から、もっと頑張りたいんだ。
だから私は、ぶっ飛んでる人間が好きなんだなあ!たとえば生きるか死ぬかの話をした時に、わかるよ、なんてちゃちな言葉で逃げないで、ただ受け入れてくれるようなぶっ飛んでる人。そんな人が実はたくさんいて、見守ってくれていることに、みんなが気づかせてくれた。ただ、言葉だけを受け入れてくれる。それが私にとって本当の、人間として認めてもらえたってことのはじめの一歩なんだな。だからたくさん伝え合う。
まずは私の親愛なる「直感」に従って。
言葉に乗せる「たましい」の形が近い人と
たくさんのものづくりをするのだ。