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「薔薇咲くところ平和あり」ー願いは国境を越えて
ライン川流域にある人口1万7千人のエルトヴィルは「ラインガウの真珠」と称されるこじんまりとした町。ワインどころとしても有名だけれど、1988年にドイツ・バラ協会から認定を受けたお墨付きの「バラの町」。毎年開かれるバラ祭り、2024年は6月1、2日に開かれると知った。
バラは植物の中ではとかくもてはやされ、愛好者も多い、なんというか、人間にたとえるならばファンの多い美人さん。近寄るといい香りまでしちゃってこちらがドギマギしちゃう。だからなのかアマノジャク気質な私はどうもバラに好感が持てない。個人的にはひとひねりもふたひねりもある変人のような植物にぐいっとひかれてしまう。でも、せっかくだ、祭りが開かれているというのならば一度行ってみようではありませんかー。
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列車から空を見上げると今にも雨が降りそうな天気だった。案の定、エルトヴイルに到着してしばらくたってから大粒の雨が落ちてきた。祭り見物にはとってもうれしくないけれど、ドイツ南部では大雨洪水警報が出ていて、堤防が決壊するかもしれないという事態がおきている真っ最中。住民が不眠不休で土嚢に砂を積めこみ作業をしているのだ。祭りごときで天候に不平不満を言ってる場合じゃない。
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さて祭りのメイン会場である城跡に向かう前にエルトヴィルとバラの関係をちょいと振り返ってみよう。
その歴史は1871年にカール・シュミット氏がバラの栽培を始めたことにまでさかのぼる。50万本以上のバラが市を囲む壁の前にある畑で育てられ、その美しさが評判となっては広く国外はロシア・ペテルスブルクの皇宮と取引が行われるほどだったという。
第一次大戦以後はバラがクローズアップされることもなく、1960年代にはいって庭師マイスター、ラインハルト・プッシュ氏(「エルトヴィルのバラの父」1931-2000)が市内各所にバラを植栽し、伝統を蘇らせた。
その一例はバラ祭りのメイン会場である城のお堀跡。アザミ、イラクサ、トネリコなどが繁茂していたのを花壇に仕立て直し、バラを植えることで人を引き寄せる魅力的な場所に変えていった。
ちなみに「バラの町」というタイトルを冠するには、バラがその町の景観を特徴づける存在でなければならないという大原則がある。プッシュ氏が整備した城周辺の花壇やライン川沿いのプロムナードなどを埋め尽くすバラはその条件にぴったり当てはまる。
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さあてと、講釈はこれでおしまい。
お祭り会場へと足を進めよう。"Stadt Eltville"
(「エルトヴィル市」)という品種名の深紅のバラを放射線の真ん中に配置した放射線状の花壇が出迎えてくれた。中央に堂々と配されたこの品種は夏から初冬にかけて長く咲く、花付きのよいフロリバンダ系。
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そこを通り抜けるとバラの香り付けをしたリキュールやジャムを販売する出店が並んでいた。もちろん素通りできるわけがない。試食という手段で視覚、臭覚に続いて舌でもバラを堪能させてもらった。花より団子ではなく、ここはもちろん花も団子も両方でしょう!
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さてさてお濠跡を見下ろすと、バラの苗木を買い求める人々でわんさとにぎわっていた。高さ10mくらいにまで誘引された白いつるバラを横目に階段を下りていくとそこはまさにバラの園。
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何十種類と数え切れないくらいのバラが咲き乱れている光景は少女漫画のハートマークがそこいらに浮かんでいそうな雰囲気。やっぱりこれは花の女王様だけがなせるマジックなのだ。
いや、それにしてもこれだけの種類を丹精、維持するのはさぞや大変なことでしょう。もらったパンフレットにはこう記載されていた。
バラの育成には有機肥料を使い、農薬を使わないようにしている。ただし、近年の地球温暖化によって、ここのような塀に囲まれたような場所は高温多湿となってバラの生育には悪条件となっている。古い、貴重な品種を残しつつも病気にかかりやすい品種は抵抗力のある品種と変えるなどの工夫をしている。
ドイツでももはや30度越えや干ばつだって珍しくなく、はたまた極端な大雨に見舞われたりと気候は荒ぶるばかり。冷涼で適度な降水量を必要とするバラは受難の時代を迎え、新しい環境条件に適応できない者は淘汰されていく運命にある。なんとも厳しい現実。
花に鼻を近寄せたりとして品定めをしていると、ぱっと黄色いバラに目をひかれた。その脇に添えられた大きなプレートに刻まれた
”Friedensgedaechtnispark Hiroshima"(「広島平和記念公園」)という品種名のせいだ。どういうつながりかしらん、とまたまたパンフレットを繰ってみると、『エルトヴィルがバラの町として認定されて10年という節目の1998年に広島とエルトヴィルの友好、そして平和を静かに喚起するシンボルとしてエルトヴィルのバラの友の会によって名付けられた』、とあった。
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広島と友好都市関係にあるのかななんて思いながら花壇の配置図をよくみると、苗木売場の後ろには、「日本のバラの花壇」と称された一角まであるではないか。。広島といい、日本のバラといいなぜ?
「日本のバラの花壇」には、黄色に縁が赤色の”Schönes Eltville"(美しきエルトヴィル)というバラを見つけた。育種家は”K.Tagashira”。別のバラのプレートではDr.Haradaという名前が記されていた。
ふむ(・・?
バラをめぐる広島とエルトヴィルの関係解明は改めて宿題として持ち帰ることに。
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そして分かったこと。
K.Tagashiraは広島市廿日市友田で「広島バラ園」を息子の恵(めぐむ)さんとともに経営されている田頭数蔵(たがしら・かずぞう)さん。
田頭さんは 広島に落とされた原爆の被爆者。当時16歳で、建物疎開の作業に出かけた弟さんを亡くされている。焼け跡のバラックで生活していた時、近所の人が育てていたバラの美しさに心を奪われ、苗木をもらったのをきっかけに「焼け野原を花でいっぱいにして死者を弔いたい。それが今を生きる者の願いであり、務め」と思い、25歳からバラ園を開業し、新種の開発に取り組んでこられた。
田頭さんは品種名に平和への強い願いをこめたバラをいくつも作り出している。1981年にローマ法王ヨハネ・パウロ二世が広島の原爆慰霊碑前で発表した「戦争は人間の仕業です」で始まる平和アピールをイメージした紅に白色の「ヒロシマ・アピール」、深紅の「ピースメーカー」、黒赤の「ヒロシマレクイエム」などなど。核兵器禁止条約が国連で採択されるのに貢献したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が2017年にノーベル平和賞を受賞したのに感銘を受けて2020年にも新種のバラに「ICAN」と名付けている。
2019年の記事では、田頭さんが最近まで戦争体験についてあまり話したことがなかった、とあった。それを読んで、以前に日本の元兵士が新聞のインタビューで「戦争なんてね、語れるようなもんじゃないんですよ」と答えたのにギュッと心をつかまれたような気がしたのを思い出した。
戦争を知らない私たちは忘れることのないよう語り継いでもらいたい、とか気軽にいってしまうけれど、戦争はそんな軽いもんじゃない。
人と人とが殺し合う、それは非情で残酷で、人間の醜さがありったけ詰まったものなのだ。そんな苦しいことを思い出したくないというのは当然だ。
そして原爆を体験した田頭さんはその代わりに子供や孫や後世の人たちが自分たちのような辛いめに合わないよう、美しいバラを世界に残していこうと決めたのだろう。この記事のタイトルにも含まれる「薔薇の咲くところ平和あり」は田頭さんの経営する広島バラ園のホームページからとった。
またDr.Haradaは広島の外科医、原田東岷さん(1912ー1999)。原田さんは被爆者医療と平和活動に従事し、医者の仕事を引退後、バラの魅力に取りつかれ、バラの栽培と新種開発に取り組んできた。原田さんは「エルトヴィルのバラの父」ラインハルト・プッシュ氏と親交を深め、バラを通じて平和を訴えていくことで一致協力していた。
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そしてバラ祭りの時にはまだ咲いていなかった「ヒロシマスピリット」は原田さんの作。各地にバラを送り出す時に原田さんは次のようなメッセージを添えていたという。
世界が大きく揺れ動く今、この言葉をかみしめたい。
平和がなければバラは美しく咲かず、美しいバラを嘆美する心がなければ平和がない。
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