詩評1

今日は最近書いた詩(主に俳句)を評してみよう。詩のように。

窓の外水垢模様草間彌生

これは4月1日に書いたもの。俳句ではないかな。ただ、発想はいいと思います。窓についた水垢を模様として、そして草間彌生の、例えば『Pumpkin』に見立ててみるという発想は。あと、「の」だけがひらがなで「窓」と「水垢模様草間彌生」が分かれている感じがして、窓になったかのような感じがします。「私の愛」みたいな感じで。

で、これはバスに乗っているときに書いたものです。さらに言えば、初出勤のときに書いたものです。(「詠んだ」と言わないのはただ「書いた」感じがするからです。きずをつけるように。)そのことはこの詩の次の詩からもわかります。同じ日に書いた詩です。

川沿いのバス追いかける日水面撫で

これは明らかに俵万智の「四万十に光の粒をまきながら川面を撫でる風の手のひら」という短歌の発想を借りています。ただ、「追いかける」というのが異なるところで、太陽と私(が乗ったバス)が一緒に川面を撫で走っているような感慨があります。暢気なもんですね。初出勤なのに。

この日はもう一つ詩を書いています。

光食む緑幼児キュビズムの樹

これはよくわからない詩かもしれません。ここまでの三つの詩はすべて川沿いのバスのなかで書かれています。川沿いの最後には大きな木が十本くらいあって、そこにきらめく太陽、その光が多面的過ぎて一面的に見えたのです。この発想自体はこの詩を書く前にもありました。大学の構内、ある木がこのように見えることが多くあったのです。ただ、「光食む」や「幼児」という発想はここが初出です。いや、取り合わせ自体がここで初めてです。懐かしいですね。半年くらいしか経っていないのですが。

次は二日後、4月3日に書いたものを見てみましょう。

雨の日のバスを流れるカンディンスキー

なんというか、もしかすると私はバスの窓をキャンバス、極めて平面的なもの、そういう装置として見ているのかもしれません。いや、おそらくもう少し大きく、勝手に目的地に届けてくれる乗り物の窓をそのように見ている気がします。ただ、電車の窓と違うのは………

なんなのでしょうか。重要な問いな気がしますが、とりあえず詩を読みましょう。

私はカンディンスキーの『コンポジションVIII』を主に想っていました。窓を流れる水滴を見て。ただ、ここでのポイントは「バスを流れる」と言っているところです。私は窓からバス全体にキャンバス性を拡張したのです。なぜかはわかりませんが。もしかすると仕事での新しさが私をスポンジに変えたことへの、変わってほしいという願いなのかもしれません。

黒猫のなかに宿する梅雨のとき

これも同じ日に書かれたものです。その意味で季節がずれています。黒猫がいて、雨が降っていて、雲が黒くて、寂しくて、それがこういう発想を引き寄せたのだと思います。「黒猫のなか」というのはおそらく毛が生えている表面のことでしょう。黒い毛が雲のように私を囲う。そんな感じだと思います。

時は進んで4月26日、こんな句を詠みました。

夏に死ぬ教祖が死んで蝉が泣く

なぜこんなことを書いたのか、まったくわかりません。季重なりですし。ただ、「夏に死ぬ」という断言、「教祖が死んで蝉が泣く」という論理、展開、そして「鳴く」ではなく「泣く」、なんだか夏が来る感じと人間の隔時性のようなもの、そして反復性のようなもの、それが象徴されているような気もします。意外といい詩だと思います。イメージの面を取っても。

ちなみにですが、ここまででも「この詩はよくねえなあ」みたいに思ったものは省いています。

黄金の雲の切れ端小鳥鳴く

これは5月18日、退職した日に書いたものです。私は中庭で、荷物の整理も終わって暇していました。やることがなくて。申し訳なくて。すると、ある人、関わりが深過ぎない先輩が「お疲れ様でした。これからも頑張って。」と言って、親指を立てて、笑って、階段を降りて行きました。私はなんだか、救われたような気がして、少しして雲から太陽が出て、小鳥が鳴きました。「黄金の雲の切れ端」と一緒に。私はその人にとても感謝しています。

なんというか、もっと書いてもいいのですが、しんみりしてしまったので、朝ごはんを食べたいので終わりにしましょう。今日は。

もう少し遠い方が良かったかもしれませんね。「詩評」をするには。

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