春のカルト対策キャンペーン
陰謀論をマイルドに信じている人の話を聞く機会があった。根拠としているエビデンスの真偽は私にはわからないが、その人はそれなりにわかりやすく「解説」してくれた。信じたい人が、信じることを納得できる程度の「わかりやすさ」は感じられたように思う。
陰謀論に限らず、異なる意見や思想を持つ人との対話は、一般的なコミュニケーションとは異なる。相手を否定する必要はないが、自分の信じるところのものは注意して守らなくてはならない。それは、常識的な基本的な価値観に依拠する限りそう難しいものではなく、相手がそれを踏み外すことがあれば、周囲や世論が自分の方を擁護してくれるであろう。常識と、それを忘れてない冷静さが、必要なのだろう。
巧妙な人は、専門用語や業界用語などの独自に定義した言葉やキーワードを使い、相手にその言葉やキーワードを使わせることによって自分の土俵に引き寄せ、議論をコントロールしようとする。「独自の定義」による言葉を議論に用いることは容易に認めてはならず、日本語の常識を一つの命綱として、こちらはこちらの言葉の力を信じることが大切だろう。
独自に定義された言葉を受け入れないときは、いわゆる、という語を添えることが応急措置として有効だろう。「いわゆる『神様』」といった言い方など、相手を必要以上に否定せず、距離を置くことのできるレトリックの一つではないだろうか。その他、様々な婉曲表現や、巨視的な一般化表現を用いることが考えられる。「総合的、俯瞰的に~」という言い方は、現代お役所用語のマスターピースの一つで、実に腹立たしいけれども、最終手段としては私自身も使うことを辞さないつもりである。