【軍隊生活の思い出 -4話-】出征
出征
門司港
昭和十六年十二月に日本は宣戦布告をしているので、いつ何時、何が起こるか分からない状況でした。
大矢野原(熊本県内にある演習場)での実弾演習が終了した頃、いよいよ動員の命令があり、新しい部隊が編成されました。
我々は豪北派遣 一一九六二部隊 吉瀬大隊 武内中隊納小隊 第一分隊で、私は第一分隊長を命ぜられました。
いよいよ出征の準備です。
もうその頃はスパイがいるので、夕方を待って熊本駅へ行きました。
駅は厳重な警戒で、周りが暗くなるのを待ってから列車が這入って来ますが、窓は全部鎧戸が閉めてあり中は見えません。
全員の乗車が終わると、門司港へと出発します。
港へ着くと、大きな船が横付けに待っていました。
私は船を見たことがないので、その大きさに驚きました。
二階の屋根の高さが甲板です。
一寸言い忘れていましたが、出征兵は一装の軍服です。
寒くなる時期で、夏服を着ていましたので、寒い寒いと言いながら船に乗り込みます。
四ヶ連隊がそれぞれ四隻の船に分かれ、一ヶ連隊ずつ乗り込み、いよいよ出航です。
任地、スンバ島
船は玄界灘を南下して進みます。
しばらくすると、台湾の港へ着きました。暑くて皆上着を脱ぎ始めます。
台湾では、バナナを積み込んで南下しはじめる魚雷が度々発見されるので、陸地の近くをゆっくりと航行するのですが、東シナ海で有名な海の荒い所があり、そこにさしかかると、船の甲板まで波が上がってきます。
私は一分隊長でしたが、一門の大砲で魚雷を狙撃する任務を命ぜられていたので、大砲から離れることは出来ませんでした。
「砲兵は火砲と運命を共にすべし」
と砲兵操典に書かれているからです。
あるとき、
「魚雷発見!」
とマストの上から聞こえましたが、幸いにも魚雷は実際には見えませんでした。
しかし船団の内、都城部隊の船が魚雷を受け、全員戦死したことを後で知り、びっくりしました。
四十日位でようやくシンガポール港に到着します。
上陸後一週間位は、ゴトゴト耳鳴りがして、船の中にいる様でした。
やがて、ジャカルタ、スラバヤ等を経て、任地スンバ島へ着きました。
そこは小さな島で、すぐ東はオーストラリアです。
土人
早速、船から荷揚げが始まるのですが、船の荷物の多いのには驚きました。二昼夜連続して、休みなく運んでも運んでも終わりませんでした。
空襲の恐れがある為、船はそのまま出港して行きました。
二日目の夜中に一人で宿舎に行く様命じられました。(約四キロである)
途中、土人の家があります。
土人は、頭はチョンマゲ、腰は布ではなく木の皮を叩いて作った様なフンドシを巻いて、脇差(パラン)を差しています。
彼らは裸で何も体に着けていないので気持ちが悪いものでした。
何とか宿舎にたどり着き、ゆっくりと休む事ができました。
トンネル
二~三日、身の回りを整理し、いよいよ本来の作業が始まります。
東の海岸に小高い山があるのですが、この山にトンネルを掘り、海岸に大砲の陣地を設ける計画です。
作業するにもツルハシとエンピ(スコップのこと)だけしかありません。
山は砂山で天井が落ちる恐れがありましたが、地方で炭鉱夫をしていた兵隊も数名いたので、枠組みは心配いりませんでした。
常に三十度位の暑さの中、兵隊は皆、裸で仕事をしました。
ヤグラの材料は、すべて椰子の木ですが、それがなかなか重く、兵隊四人で担ぐものを、土人は四十人位でようやく担いでいました。
前の方が立てば後ろの方が座る、後ろが立てば前の方が座る、兵隊が号令(一、二、三)をかければ全員で立ちますが、五~六歩歩けば全員座ってしまう有様で、作業はなかなか進まないものでした。
長い期間をかけ、ようやくトンネルが貫通しました。
行事
この島では、月に一回満月の夜、酋長を中心に部落対抗闘鶏の蹴り合いがありました。
負けた鶏は全部酋長に差し出すのですが、酋長は日本の部隊へ全部渡すので、翌日は鶏の大変なご馳走でした。
この地ならではの、いろんな行事も面白いものでした。
「終戦」につづく
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