鑑賞という言葉をやめよう
図工の活動を、ものすごく大きく分けると、「表現」と「鑑賞」になります。
「表現」はいわゆる「絵」や「工作」。
「鑑賞」は「見る活動」というイメージなのではないでしょうか。
今回はその「鑑賞」への思い。
「鑑賞」と聞いて、まず、どんな印象を持ったでしょうか。
先に書いたように、「見る活動」なのですが、どことなく堅苦しいというか、頭の中に美術作品や美術館がよぎった方もいるのではないでしょうか。
小学校の学習指導要領のなかで、「鑑賞」をおこなうことで子供にどんな力をつけてほしいか、が書いてあります。
学年によって微妙に表現の差はあるのですが、
【親しみのある作品などから自分の見方や感じ方を深めたりすることができるようにする。】
というのが「鑑賞」の目標です。
少しふわっとしているようにも感じますが、この文言のなかで、ぼくが特に大事だと思う部分について書いていきたいと思います。
親しみのある作品"など"
この中で、一番見落としがちだけど、一番大事なのではないか、と思うのが、この「など」だと思っています。
つまり、美術作品を見ること"だけ"が「鑑賞」ではない、という意味合いがこの"など"の中に入っているということだということです。
子供は、自分の作品を作る上で、色々なものからアイディアを得ています。
はじめて出会う材料の感触、先週行った遊園地、昨日見たテレビ、帰りの夕焼け、大好きなアニメの曲、自分の作品、友達の作品、別の学年の作品・・・
このどれもが、混ざり合って、その子その子の表現のもとになっています。
つまり、一般的なイメージの「鑑賞」ではなく、
表現のための「インプット」が、図工の中での「鑑賞」になるのでは、と思います。
そしてそのためには、教員自身が世の中を図工というフィルターで見続けることも大切なんだろうと思います。
"自分"の見方や感じ方を"深めたりする"
この部分で大事だと思うのは、
「自分」という言葉と「深める」という言葉
もちろん、大枠として設定したいベクトルは学年ごとにあるのですが、
大事なのはその子自身が「いい」と思ったことだと思います。
なので、誰か友達がいいと思ったものをいいと思うような人気投票などは、方向性が違うのではないか、と思います。
その子自身がその作品や材料、物、事柄の"何を"いいと感じ、"なぜ"いいと思い、それをあわよくば"言語化"して、"自分の価値"にできるか、が大事であり、
それぞれの「いい」の価値を"互いに認め合える"のが理想なのではないか、と思い、授業を考えています。
ただ、自分の生活の中のインプットや、自分がいいと思ったことだけでは「深まり」ません。
なので、教師は、図工的、造形的な見方のどの部分を深めたいのかを考えて、材料と出会わせたり、美術作品を見せたりすることが大切なんだと思います。
ぼくは、
モチーフが同じだけど、色々な方法で表現している複数の作品を見比べたり
いきなり作品を作るのではなく、材料を色々試す時間を設定したり
遊びながら能動的にできるゲーミフィケーションを考えたり
木を描く前に、木を実際に触ったり
するなど、
その時間にどんなことをインプットして、どんなことを表現すれば深まるかを考えて、設定をしています。
「鑑賞」という言葉をやめよう
「鑑賞」の良さを阻害しているのは、「鑑賞」という言葉自体なのではないか、という思いを、学習指導要領の視点から書いてみましたが、どうだったでしょうか。
いや、もっとちゃんと言えば、
「鑑賞」という言葉がいけないのではなく、「鑑賞」という言葉を、よく考えずに、絵だけ見せればいい、互いに作品を見合えばいい、というような思考停止な授業がいけない、という思いかもしれません。
タイトルにこめた思いが、少しでも伝わったなら嬉しいです。