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異界ツアーのススメ~ケアのまなざしが地球を救う?!~

なんかちょっと不思議なタイトルをつけてしまった。が、本を読み終えたときの率直な感想である。

医学書院のシリーズケアをひらくの最新刊(2024/10/04現在)『異界の歩き方』を読んだ。

こちらは、”シリーズケアをひらく”の一冊。

このシリーズは、医療職でも支援職でも福祉職でもない、普通の一般人の素人に、気やすく足を踏み入れてはいけないような感覚を抱かせてしまう専門家や当事者の立場からみた「ケア」の世界ををひらいてくれる、隠れた(?!)人気シリーズである。

ちなみに、私がケアひらシリーズを読み始めたきっかけは、こちらの記事にまとめてある。

ケアひらシリーズの本は、何冊かまとめ買いしてあり、この本を読む前に、横道誠さんの『みんな水の中』を読み、ASDとADHDを診断された大学教員横道さんの棲む世界と脳の多様性を本を通して垣間見たところであった。また、横道さんは、当事者研究の熱心な実践者でもあり、この本を通して当事者研究についても少し知ることができた。

その後、同じくケアひらシリーズから中井久夫さんの『こんなときわたしはどうしてきたか』を読んでいるところで、『異界の歩き方』の情報がXで流れてきて、即ポチったのだった。

といっても、中井久夫さんについては、お名前と精神科医であることだけ知っている程度だったので、いきなり医師・看護師向けの講義内容をまとめた本だったということもあり、前提知識がなさすぎて最初はどう読んだらいいのかわからなかったのだが、読み進めるうちに中井さんの臨床哲学みたいなものと精神科医としてのあり方にとても惹かれていた。

そして、『異界の歩き方』。当事者研究についても中井久夫さんについても、上記の本を読んだ程度、ガタリについては名前を知っている程度、著者の村澤さんご兄弟のこともこの本を通じて初めて知ったという、超ド素人でも、読んで見たくなるのが、シリーズケアをひらくの懐の深さなのだ。しかも、帯文と表紙デザインも秀逸!

と、前置きが長くなったが、本題へ。

読み始めの時点では、異界を歩く人=何らかの精神疾患を抱えた人というイメージを持っていたのだが、最後まで読むとそんな単純なものではなかった。帯には、「精神症状が人をおそうとき、世界は変貌しはじめる。異界への旅がはじまるのだ。」とあるので、そう思っても仕方なかろう。実際のところ、ちょっと度肝を抜かれる広大な世界が本の中に広がっていた。

『異界の歩き方』は全体が3部に分かれており、それぞれの部は、3つの章と1つのコラムという構成となっている。

Ⅰ部=異界 「当事者研究」のパート

著者の一人で臨床心理士・公認心理師の村澤和多里さんが、北海道の浦河べてるの家で「当事者研究」の実践を体験し、精神的症状の原因を、心の深層や認知過程といった「内面」に求めるのではなく、どこか外からやってくるものと捉えることに衝撃を受けたところから出発して、べてるの家での当事者研究の実践に焦点を絞って、実例を交えながら、独自の考察を進めていく構成となっている。この本のタイトルにもなっている「異界」とはどういう世界なのか、当事者研究の実践とは、支援者と当事者、当事者と当事者がともに、異界を旅する営みなのだということが体験できるパートで、Ⅱ部の中井久夫さんの臨床哲学につなげる伏線もしっかりと張られている。

Ⅱ部=自然治癒過程 主に「中井久夫」さんのパート

最初に、反精神医学のカリスマであったイギリスの精神科医R.D.レインの思想を取り上げ、彼がはじめた「キングズレイ・ホール」での治療的共同体の試みと終焉までを描く。その後、生命をさまざまな流動的なプロセスの複合体としてとらえる中井さんの生命観や、精神病理を状態ではなく過程とする概念、統合失調症における「寛解過程論」など丁寧に論述される。内容が多岐に渡り、専門的な話も多いが、読み応えがある。Ⅰ部の第1章で取り上げた当事者研究の事例がたびたび挟み込まれていいて、著者の和多里さんが当事者研究から受けた影響力の大きさを感じる。

Ⅲ部=精神のエコロジー 当事者研究と中井久夫さんとガタリをつなげるパート

Ⅲ部は、Ⅰ部、Ⅱ部と論を進めて、そこから意外な到達点に達するパートである。いきなり、タイトルからして、「はて?精神のエコロジー???」ってなったのが正直なところ。

裏表紙の帯にはこう書かれている。

『中井久夫との対話』(河出書房新社刊)で中井の潜在的な臨床思想を活写した著者らは、フェリックス・ガタリの哲学(「機械」!)とべてるの家の当事者研究(「誤作動」!)に同じものを発見した。
精神・身体・社会を超越するガタリとべてるの発想を、中井の<生命>へのまなざしに重ね合わせると、その先に新たなケアとエコロジーの地平線がひらかれていく。

裏表紙の帯より

暗号みたいだが、なかなかに知的好奇心をくすぐられる文である。

「精神のエコロジー」とは、人間の精神を一種のエコロジーとしてとらえる思想のこと。ここで使っている、エコロジーは、自然界において個々の生物種の間の相互に依存しあった複雑な関係からなるシステムである自然の生態系(エコロジー)と同義である。

私は「ケアの倫理」への関心が根っこにあるので、Ⅲ部が一番興味をそそられるパートだった。

ただし、Ⅰ部とⅡ部で緻密に積み上げられた論の流れがあってのⅢ部。なのでⅠ部とⅡ部をしっかり読み込んでこそ面白さが倍増するというもの。

Ⅲ部については、章ごとに見ていこうと思う。

まず、第7章「精神のエコロジーにむかって」では、ウィトゲンシュタインの論理哲学の研究者で、環境思想家でもあるアルネ・ネスが提唱した「ディープ・エコロジー」とR.D.レインの反精神医学の比較を通して、その共通点を探ることで、人間の精神のエコロジーと自然のエコロジーを結びつける。そして、精神医学と生態学を架橋するうえで重要として、精神病理を「普通症候群」「文化依存症候群」「個人症候群」の3つの側面からとらえる中井久夫の試みを取り上げる。

続いて、第8章「精神、文化、自然」。レインやネスと同時代を生き、精神疾患、社会問題と環境問題とを同一平面でとらえる思想を探究し、エコロジカルな論理にもとづく精神療法の理論を展開した人物として、フェリックス・ガタリを取り上げ、ガタリの精神医療における活動を中心に、彼がどのように精神と社会、自然とが織りなす「エコロジー」をとらえようとし、精神医療と自然環境問題を包括的にとらえる思想を展開したのかを概観する章である。

ざっくりまとめると、ガタリがラボルト病院で「制度論的精神療法」(=「制度は人間を縛るもの」という通常の社会観ないし精神医療観とは逆に、「制度は人間がつくるもの」という観点から制度をそのつど集団内の話し合いをつうじて変えていき、その自主的な社会運営によって精神疾患治癒を促すことを目指す、独自の精神療法)の実践をつうじて、統合失調症に関する独自の思想(スキゾ分析)を確立する流れから、ガタリの臨床哲学を詳述し、晩年にスキゾ分析の治療論を社会病理や自然環境問題の解決に結びつけることを目指していたところまでつなげる。

と自分で書きながら、本を読まないとわかんないよなーと思うので、ぜひ、本を紐解いてほしいが、ガタリの哲学と当事者研究に通底するもの、精神医学と自然環境問題がいかにつながるかを感じられる箇所少し引用しておく。

 少し横道にそれるが、このようなガタリの方法論は、べてるの家の「当事者研究」で起こっていることを理解するうえで非常に参考になる。
 第1章で述べたように当事者研究には「誤作動」という概念があり、これは自分の意志に反して身体が反応してしまったり、現実には存在しないものごとを感じ取ってしまったりすることであった。この「誤作動」はまさに「機械」における部品の接続のされ方から生じる現象であり、患者の脳あるいは人格にのみ還元できる現象ではない。
 「誤作動」する機械を操縦していくうえでは、症状を利用するという理念(「”治す”よりも”活かす”」)が重要になる。これは症状が埋め込まれていた精神医療の文脈を解体するとともに、それを素材として再利用して新たな機械を組み立てていくことにつながる。たとえば森さんのBB(ビッグ・ボス)サインの例では、幻聴や被害妄想がそれを病理とみなす精神医療の文脈から解き放たれ、まったく異なる文脈での体験へと改造されていた。

第8章 精神、文化、自然 より(P.199-200)

 

 ガタリは「宇宙(コスモス)」を、個人の精神世界、社会の目に見えない人間関係のネットワークや文化、自然界の生態系に通底する領域とみなし、その領域と自己が結ばれる感覚こそが、精神病理、社会病理、環境破壊を解決するにあたり、もっとも核心にある要素であると考えた。というのも、「宇宙」ー精神世界、社会、自然環境のどの宇宙であっても―と自己が結ばれることは、自己がその宇宙と切り離せない関係になることであり、深い愛着と倫理的な責任を持ってその宇宙を自身の居場所としてケアすることだからである。

第8章 精神、文化、自然より(P.206)

 スキゾ分析においては、統合失調症の核心にあるのが精神内の宇宙と自己の結びつきの喪失と考えられ、その結びつきを回復することが治療の目的とされ、外的世界としての社会環境を「治療機械」として組み直すことが治療手段とされた。そのような精神療法理論を、ガタリは環境問題の治療論として拡張する。そこでは無数の複雑な要素が結びついて作動する社会環境の「機械」が、ここでは自然環境も含めた「エコロジー」としてとらえ直され、統合失調症患者の内的宇宙は人類全体の内的宇宙として拡張される。
 つまりガタリは、自然環境問題も精神病理も、原因は人間が(生物界や社会の)「宇宙」と自己との内的な結びつきを失っていることにあると考えた。そうであれば統合失調症の治療と同じように、環境問題の克服もその内的な結びつきを回復することが何より必要であり、それにあわせて外的環境も回復に向かうと考えられる。反対に、内的な結びつきが破綻したままであれば、先のひきこもりの若者への支援で述べたことと同じく、外的な自然環境もさらなる破綻に向かうことになるだろう。

第8章 精神、文化、自然より(P.206-207)

最後に第9章「自然環境にむけてケアをひらく」。いきなり、この章についてのまとめ文があるのでまずは引用する。 

 前章では、反精神医学やフェリックス・ガタリの思想を事例として、精神療法の議論が自然環境問題をめぐるエコロジー思想と深く結びついていること、つまり精神療法も自然環境問題も「心の回復」がもっとも中心的な課題であることを示した。この章では、その「回復」を見守り、支えるものとして「ケア」を取り上げ、ケアをめぐる思想が現在の自然環境問題の克服にあたりどのような意義をそなえているのかを考える。
 このような観点からケアを考えるにあたり、読者には迂遠に思われるかもしれないが、近代以前の思想史についての話から出発することにしたい。その理由は、まず「ケア」という概念が近代の主流の世界観や価値観(合理主義や功利主義、男性中心主義など)に対する異議申し立てとして登場した概念であり、その源流は近代以前にまで遡るからである。次に、ケアと同様に、これまで紹介した精神療法と自然環境を結ぶ思想も、近代的世界観に対する異議申し立てを含んでいるからである。
 この章では、精神療法と自然環境問題がケア概念と深く結びつく地点を、ひとつは歴史の流れから、もうひとつは「異界」という体験の特徴から示すことにより、ともすれば看護や福祉の領域に閉じ込められがちであるケア概念が、現代の自然環境問題にむけて開かれる可能性を探りたい。

第9章自然環境にむけてケアをひらくより(P.210)

思想史については実際に本を読んでいただくとして、精神療法と自然環境問題がケア概念といかに結び着くかを考えてみたい。

ケアの概念を提唱した人といえば、いわずとしれた心理学者キャロル・ギリガン。ケアの倫理に興味のある人なら、彼女の著書である『もうひとつの声で』はご存じの方が多いと思う。この著作で、彼女は師であるローレンス・コールバーグの道徳性発達理論を批判した。

どのような人物に対しても個別の事情をいっさい考慮することなく普遍的な規則や法を適用して判断することを善とする「正義の倫理」に基づく男性的な道徳観こそが優れたものである、とするコールバーグに対して、相手の事情や背景に共感し、相手と自分や周囲の人間関係に応じて対処を変える、つまり人間関係を維持保全することを善とする「ケアの倫理」に基づく女性的な道徳観も決して劣ったものではない、劣ったものとみなすことは偏見に過ぎないと主張したギリガン。

近代的世界観では、相手を「モノ」とみなして、理性的な正しさで判断するのに対して、ギリガンの提唱するケアの倫理では、相手を周囲の環境と結びついた「プロセス」あるいは「コト」とみなして、理性的認識ではなく直感に基づいて判断する。

この「正義の倫理」と「ケアの倫理」の対比を、「主流精神医学と反精神医学」、「浅いエコロジーと深いエコロジー」、「都市との農村」、「近代と前近代」、「大人と子ども」、「男性と女性」、「科学と人文学」などに置き換えてみると、前者が後者よりも優れているとみなす思い込みが社会全体に内面化しているということが理解できる。

 そのようにとらえるなら、現在の倫理学の分野でケアを重視する思想が、カントに代表される近代の合理主義的な倫理学に対抗する新たな思想潮流とみなされているのも、なんら不思議なことではない。
 ギリガンらの「ケアの倫理」は、人間を関係のなかで相互に依存しあい、「脆弱さ(ヴァルネラビリティ、傷つきやすさ)」を抱える存在としてとらえる点に特徴がある。その脆弱さは人によって異なる以上、それに対処する仕方もそのつど異なる。
 というのも、人間を「コト」や「プロセス」としてとらえるケアの観点に立てば、傷ついた心が癒えるのはレインのいう精神病者が「ネクサス」を再構成するプロセスと同じであり、いわば目に見えない精神世界の「旅」だからである。そこでは一律に同じ対処が同じ効果を上げるわけではないし、他者が当人に代わることもできない。支援者にとって必要なことはその旅が無事に進むように、当人の状況に注意深く配慮し、支え、必要におうじて手助けをすることであろう。

 長い回り道になったが、私たちはようやくケアが自然環境問題に結ばれる地点に到達した。
 先ほど述べたように、精神内のエコロジー(ネクサス)と自然環境のエコロジーが相互に対応関係にあり、共通の論理によって理解されるものであるとしたら、精神的領域における「ケア」の意義は、そのまま自然環境にも当てはまるはずである。つまり地球温暖化をはじめとする自然環境問題を人間が「治療」する方法についてはまだ見つからないとしても、傷ついた自然環境を人間が「ケア」することは可能であり、それは自然環境の「治癒(回復)」を促す可能性をもつからである。そしてケアという概念が苦しむ他者に対する共感に依拠することを思い起こすなら、自然環境へのケアもまた人間以外の諸存在に対する共感に依拠するはずである。

第9章自然環境にむけてケアをひらくより(P.229-230)

最初にも書いたが、この本を読み始めた時は、「異界=精神疾患の抱える方が見ている異世界」といった狭いイメージをもっていた。そういったある種偏った認識が、精神疾患を抱える人を特別視したり、精神医療をほかの医療とは違い、踏み込んではいけない世界、踏み込みたくない世界、一度入ると戻れない世界と思い込ませる空気を作るのかもしれない。しかしながら、この本を読み進めるうちに、異界ってそんなに特別な場所ではないのではないかと感じている。自分には関係のない世界でもないし、遠い世界でもない。

終章「すぐそばにある異界」で、ミシェル・フーコーが語った概念「ヘテロトピア」が紹介されている。ヘテロトピアとは、「現実にある異界」。ユートピアが現実には存在しない理想の世界であるのに対して、「現実の中にあるユートピア」ともいえる世界。フーコーは、子どもたちはヘテロトピアをよく知っていると考えていたようで、具体的には「庭の奥まった場所」や「屋根裏部屋」などをあげているという。大人にとってはただの物置である屋根裏部屋を秘密基地とし、現実を支配する空間や時間とは異質な秩序を持った場所と意味づけして遊ぶ子どもを想像してみてほしい。なんとなく、「異界」を身近なものとして感じられないだろうか。

そして、著者があげている例が秀逸でそれならわかる!という方も多いのではないか。それは「聖地」である。いわゆる「聖地巡礼」の聖地である。単なる廃校舎であっても、アニメやドラマの舞台となったというだけで、その物語を共有している人たちにとっては、そこが「聖地」、つまり非日常の論理によって支配された特別な場所になる。この感覚なら、スピリチュアルを受け入れられない人でも、なんとなくわかってもらえるのではないだろうか。

実は、私も、最近次のような体験をした。たまたま見学に訪れた有名な建築家が設計した旧小学校の校舎があるアニメの聖地であったのだ。私にとっては、美しい建築物としての旧校舎でしかないが、あきらかに「聖地巡礼」をしていると思しき若者にとっては、そこが異界であるのだということは、傍からも感じられた。

まずは、自分にとっての身近な異界に足を踏み入れてみる。そんな小さな異界ツアーを体感してみてはどうだろう。目には見えないけど確かにあると感じされる世界。それを感じる心には、きっとケアのまなざしがあるはずだ。

そして、自分にとっては感じられないかもしれないが、ほかの人には感じられる世界が同じように存在する。その事実に、ケアのまなざしを向けることで、自分にとってアタリマエのパラダイムにちょっとした変化が生まれるかもしれない。

もっと視線を広げて、自然環境にケアのまなざしを向けてみる。大げさかもしれないが、その小さな行為が、地球を救うことにつながるかもしれない。

最後に、終章の最後の部分を引用して終わることにする。

 たんなる虚構や幻想として「異界」を切り捨てることは簡単であるが、ヘテロトピアという意味であれば、それはすぐそばに存在しているともいえる。精神疾患における「妄想」「幻覚」などもそうであるだろうし、「お客さん」も、夜みる夢もそうであろう。それらは日常の現実とは異なるもうひとつの現実であり、したがってそれらの世界は日常の現実性とは異なるるもうひとつの現実性をそなえている。
 「心」を取り戻したければ、まずはそこに足を踏み入れてみるとよいだろう。
 「異界」はすぐそばにある。

終章すぐそばにある異界より(P.254-255)

追記:著者のおひとり村澤和多里さんのこの本に対するXのでポストが興味深かったので シェアしておく。


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