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受け取る、与える、赦す、その循環-『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学』を読んで-

お仕事の合間をぬって、ケアの探究を細々と続けています。

今回は、近内悠太さんの『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を行き直すための哲学』をベースにケアと傷、そして利他について考えてみたいと思います。

近内さんといえば、『世界は贈与できている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 』が話題になりましたが、今回取り上げるのは、今年3月に出版された新刊です。

『世界は贈与でできている』のほうは、「贈与」を与える側ではなく、受け取る側の視点から論じた本、つまり「受け取るとはどういうことか」を論じた本で、『利他・ケア・傷の倫理学』はその続編的に、「与える」について論じた本です。

途中、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を真ん中に置いた内容が続くので、ちょっと読むのに気合いが必要なところもありますが、まえがきで、この本全体で論じたい問いをずばりと提示してくれているので、そこを念頭に置いて読み進めると、迷わなくていいかなと思います。

 最後に確認しておきたいのは、本書で取り組む問題は、なぜ僕らは見返りを求めず何かを差し出すという贈与ができないのか、ではありません。そして、どうすれば利他とケアのモチベーションを人々が持つことができるのか、あるいは、どのようなインセンティブ(報酬)とサンクション(制裁)を設計すれば人々に「やさしい人」が増え、「やさしい社会」になるか、という利益誘導に関する問いでもありません。

 そうではなく、僕らの善意の空転はそもそも防ぐことができるのか?そして防ぐことができるとすればそれはどのようにしてか?というものです。

 そして、利他を哲学していった先に、「利他とは相手を変えようとするのではなく、自分が変わること」という主張へと辿り着き、そこから「セルフケア」の構造が取り出されます。(中略)あなたと私が関わることで、私自身が変容する。私自身が救われることになる。

そんな理路を、一緒に進んでいってもらえたら。

(P.11-12,まえがきより)

そして、この本では、タイトルにもなっている「利他」「ケア」「傷」について、ひとまず定義を示してくれているので、それをガイドに思考を深めやすいのもありがたいです。

利他とは
「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること」※利他の概念は進むにつれてアップデートされていきます。

ケアとは
「その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと」

傷とは
「大切にしているものを大切にされなかった時に起こる心の動きおよびその記憶。そして、大切にしているものを大切にできなかった時に起こる心の動きおよびその記憶」

それぞれについては、以下の引用で理解が深まると思います。

 そして、そのケア概念は「他者の生を支援すること」であり、このケア概念に「自身の従っている規範との衝突」、これまでの言い方では「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先する」という条件が加わった時、ケアは利他に変わる。

 つまり、本書の定義では、利他はケアの部分集合であり、言い換えれば、ケアは利他の必要条件(利他はケアの十分条件)である、ということになります。

(P.81,第2章 利他とケア,ケアの定義とは?より)

大切にしているものは見えないが、大切なものが大切にされなかったことは目に見える。
 なぜなら、大切なものが大切にされなかった時、ひとは傷つくからです。
 大切にしているものそのものは確かに見えないが、傷は見える。

(P.60,第1章 多様性の時代におけるケアの必要性,大切なものだから壊れやすいより)

 なお、「傷」には、「バルネラビリティ(vulnerability)」という英語が当てられています。

バルネラビリティというと、心理学に興味がある方なら、ヒューストン大学ソーシャルワーク大学院のブレネー・ブラウン教授の『本当の勇気は「弱さ」を認めること』という本や彼女のTEDトークを思い浮かべるだろうと思います。人間誰しも心の弱い部分があり、傷つくリスクを避けるために通常は防衛ラインをつくって自分の心を守っているものけれど、その防衛ラインをあえて取り除き、弱さを隠さずオープンにすることで、逆に人間的な信頼を獲得できるという考え方です。

『利他・ケア・傷の倫理学』には、「私」を生きなおすための哲学、という副題がついていて、この副題が最初はぴんと来なかったのですが、傷=バルネラビリティと解釈することで、その意図を理解することができました。

「大切にしているものを大切にされなかった/大切にできなかった」経験(=傷)があるからこそ、他者の傷に共感することができ、だからこそ、その大切なものをともに大切にしようというケアの倫理が生まれる、そして、他者の大切なものを優先する利他という行為を通じて、自分自身の傷が癒され結果として自分自身が救われる。それは決して偽善ではなく。

はじめのほうでは、利他を「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること」と定義していましたが、単純に「自分のものより他者のものを」大切にするというわけではなく、「自らの中にある傷が、他者の傷に呼応する。そこにケアがある。そして、ある時、そのケアの中から利他が生まれる。(P.268)」というふうに利他の定義がアップデートされていきます。

 傷の予感に導かれない善行や施しを偽善と呼ぶ。 
 ケアはただまっすぐ、その他者の傷へ向かい、傷ついた人そのものをケアする。そしてその時、ケアの眼差しは「あなたは何も間違っていない」と告げる。 
 ケアが為されるとき、そこで、物語が切り替わる。劇が変わる。傷の物語が、祝福の物語へと変わる。

(P214,第6章 言語ゲームと「だったことになる」という形式,
「傷の物語」が「祝福の物語」へと変わるより)

 他者の傷に触れることは、その回帰のきっかけとなりうる。他者の傷は、私の傷を開く扉なのです。 
 そして、そのとき、利他が起こる。
 利他とは、他者の傷に導かれて、ケアを為そうとするとき、自分が変わってしまうことです。以前の章で、利他とは、自分の大切にしているものよりも、他者の大切にしているものを優先すること、と書きました。それはつまり、自分の大切にしているセルフイメージや規範(=超自我)を改訂することで起こります。

(P.268-269,第8章 有機体と、傷という運命,セレンディピティの構造より)

 人は傷つく。生きているということはすなわち、傷つくということです。
 そして、僕らはそんな傷の履歴を背負って生きてゆく。
 しかし、傷を直視しては生きてゆけない。だから、自我はその傷の歴史を、無意識へと抑圧する。  
 そのようにして、かろうじて生存している中で、ある時、ふと、他者と出会う。
 そこにおいて、傷との二重の邂逅を果たす。
 あなたの傷に触れることで、私の傷を思い出す。
 それが、私にケアをもたらす。
 そして、時にその自覚した傷から利他が生まれる。
 自己受容という形のセレンディピティが起こる。
 この構造上、セレンディピティは意図的、計画的に起こすことはできません。それは定義上、必然的にそうなのです。 
 満ち足りた私、かわいそうなあなた。この構図ではケアは起こらず、それゆえ利他も起こらない。

(P.270-271,第8章 有機体と、傷という運命,自己変容、そしてセルフケア)

ケアの中から利他が生まれる。ケアは自己変容につながり、そして、傷から救済される。

補足ですが、この本には、東浩紀さんの帯文がついています。その帯文「「訂正可能性の哲学」がケアの哲学だったことを、本書を読んで知った。ケアとは、あらゆる関係のたえざる訂正のことなのだ。」についても少しふれておきたいと思います。ぱっと見ても、すぐには意味がわかりにくいですよね。私もわからなかったです。

でも、たまたまジャケ買いした(ヨシタケシンスケさんのイラストカバーがついていた)『訂正する力(東浩紀)』を途中まで読んで放置していたので、改めて読み返してみました。それまでこの本が、まったく、ケアとは結びついていなかったので。

『利他・ケア・傷の倫理学』では、過去に体験した出来事(=傷)を、祝福の物語へと語りなおしてくれるのがケアだという、新しい視点が提示されています。語りなおす、というのはつまり、訂正するということ。これは、過去のネガティブな記憶をポジティブに書き換える、間違いを正すという意味ではなく、自分自身のこれまでの経験や想いを振り返り、過去に受け取った「傷」が、今の自分にどんな影響を与えているのかに向き合い、自らのケアや利他を通して、傷をなかったことにしたり目をそらすのではなく、傷も含めて丸ごと自己受容し、祝福の物語へと自ら語りなおすことで、傷から救済されるということです。

受け取り、与え、赦す、その循環こそが、いま社会で必要とされている。それがいま、「ケア」が注目されている一因なのかもしれないと思い至ったのでした。
「傷」の概念を加えることで、「ケア」の解釈に新たな視点がもたらされる、読み応えたっぷりの1冊でした。

なお、おわりにで、1冊目で「受け取る」、2冊目で「与える」を論じたので、最後に「諦める(手放す)(赦す)」についていつか書いて3部作にしたいと記されています。受け取り、与え、そして赦すことで救われる。
次回作を期待して待ちたいと思います。

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